『続いてのニュースです。昨年N県O市で発生した夫婦殺害事件の犯人とみられていた、夫婦の一人息子の男子高校生が昨日逮捕されたことが警視庁への取材で判明しました。』
昼の十二時過ぎ。普段なら学校にいる時間だが、もう長いこと行っていない。今日は輪にかけて行く気になれなくて、こうして部屋に閉じこもっている。
まだ未成年という盾が残っていたおかげで、犯人と報じられた彼の顔も、名前も、まだ世間様は知らない。昨日まで2人で潜っていた布団の中、事件の全容を知る僕は1人酷い憂鬱感に沈んでいた。
『……やっちゃった。』
その一言が全ての始まりだった。滅多に電話なんてかけてこない彼が、健康優良児なら深い眠りに就いているであろう時間に僕の携帯を鳴らした。普段通りに聞こえる、少しだけ震えた声で彼がすぐ来いなんて言うから、真冬の夜中、コート1枚を羽織って僕は家を飛び出した。
招かれた彼の家で見たのは、臓物を晒して血溜まりに倒れ込む彼の両親と、紅潮した頬に虚ろな目をして立ち尽くす彼の姿だった。
「……は……?」
恐怖で喉が引き攣って声が出なかった。噎せ返るような血の匂いに、胃が痙攣してその場に中身を全て吐き戻した。
「なに、して……」
「ころしちゃった。」
にこりと笑って答える彼の顔は、強い街灯の光に目が眩んでよく見えなかった気がする。
それからのことは、あまり覚えていない。突然服を脱いだ彼の上半身に生々しい打撲傷が残っていたことと、泣きながら手を握られて一緒に来てと言われたことだけを覚えていた。
気が付いたら僕の両手も血で染まっていて、足元には深い穴とバラバラになった何かの肉片が広がっている。僕はあの日、彼と一緒にどこまでも堕ちて行くことに決めた。
それから1年、逃げ続けた。はじめの頃は連日連夜報道されるニュースに怯えていたが、電車に乗って適当な場所で降りて逃げる、を繰り返すうちに、鮮度を失ったニュースは報道されなくなっていった。
なのに、昨日。日銭を稼ぐためのバイトから帰ったら彼がいなくて、酷く嫌な予感がした。彼と行った場所を辿っても、どこにもいなかった。
結局その後、僕が彼の姿を見たのは小さなワンルームのボロアパートに置かれた、大特価の液晶テレビの中だった。
2人で居た時はあれだけ狭くて、あれだけ温かかった家が、広く、冷たく感じる。彼の手が血に塗れていようと、繫いだ僕の手が汚れようと、彼さえ居ればよかったのに。
汚れた意味を失った両手と、きっともう埋まらない穴だけを抱えたまま、僕はこれから彼を待ち続ける。彼との日々が薄れていく部屋で、日に日に感じなくなっていく彼の残り香に頬を撫でられながら。
テーマ:寂しくて
感情の違いが、昔から分からなかった。流石に、人が死んで喜んだり、鬼ごっこをして泣き出すようなことは無かったが。感情の微妙な差異が、分からないのだ。「楽しい」と「嬉しい」の違いとか、「嫉妬」と「寂しい」の違いだとか、そういったものが感じ取れない。おかげで、幼少期は空気が読めないだの化け物だの言われて孤立した。
そんな僕も大人になって、周りに合わせることを覚えた。相変わらず感情の機微は分からないままだったが、周囲から見ればそんなことは知られっこない。案外、他の人間も他人の感情には疎いらしい。
感情を感じ取れないのだから、当然、恋愛なんてしたことが無かった。一緒に居て楽しい、までは理解できる。しかし、そこからどうしても、愛には繋がらない。僕には一生初恋は訪れないだろうな、と半ば諦めていた。
ただ、恋愛というものの魔力は凄まじかった。それまで恋愛感情を一切知ったことのない僕でも、これが恋だと分かる程には。戯曲や小説でしか知らなかった、胸の中を焼き尽くされるような感覚。それを、初めて知った。
彼の人は、曖昧だった僕の心の中の境界線を明確にした人だった。違いが分からなかった感情達を、手間暇かけて分類して一つ一つ教えてくれた。初めて彼と同じ感情を感じられた時、僕は嬉しかったはずなのに泣いていた。それがなぜなのか分からなくて混乱していたら、彼はまた笑って教えてくれた。嬉しくても、涙は出るのだと。
僕にとって、彼が引いた心の境界線は絶対だった。彼が教えてくれた感情が僕の感情の全てで、その境界に上手く当てはめられない微妙なものは、その都度彼に聞いていた。
僕の中にある感情の中で、彼がラベリングしたのでは無い感情はたった一つだけなのだ。それが、慕情。彼は僕より二回りは歳が上だし、何より同性だ。こんなこと、聞けるはずが無かった。それに、聞かなくても理解できてしまった。僕は、彼が好きだ。
けれど、彼が教えてくれた感情が、怯えや躊躇、困惑、愛着が、全部綯い交ぜになって僕を縛る縄となる。僕はついにその一歩を踏み出せないまま、彼を失ってしまった。
彼がいなくなった時の感情は、いまだに分からない。悲しみなんかよりずっと強くて、慕情のように自分では自覚できない。じわじわ僕を蝕んでいくこれを、どの境界に入れたらいいか、教えてくれる人はもういない。
テーマ:心の境界線
「写真部展示会……」
朝、昇降口で受け取ったビラを眺める。コンテスト式の展示会だというソレに、少しだけ興味を引かれた。写真部には、俺の唯一の友人も所属していたはずだ。少し見に行くくらいならいいかもしれない。そんなことをその時は思ったが、ビラを鞄にしまってからはすっかり、そんなことは頭から抜けてしまっていた。
「ねー!マジでお願い!ね、ね?今度ご飯奢る!」
目の前で両手を合わせて小首を傾げ、悪びれもしない笑みを浮かべて懇願してくる彼を見て、ようやくその存在を思い出したのだが。
「……まぁ……奢ってくれんなら……」
年中金欠の俺は、奢りという言葉に釣られて承諾した。コイツの昔の家庭環境の悪さを知っているから、こういったおねだりに弱いのもあるが。なんでも、件の展示会に展示する写真がまだ撮れていないらしい。それで、一緒に撮りに行って欲しい、と。
終業のチャイムと共に俺の教室へ突撃してきた彼の手には、それなりにしそうな一眼レフがあった。父親のお下がりだと言っていた気がするが、確かに年季が入っている。
「早く行こ!」
ぐいぐい手を引かれ、学校の裏門から外に出る。正門しか使ったことが無かったが、裏門は湖の辺に出るらしい。
「実はねー、撮る場所はなんとなく決まってるんだ!」
そう言った彼が俺を連れて行ったのは、ススキがよく映える公園だった。しかし、綺麗ではあるものの写真映えはしない気がする。
「いーの、僕はどうしてもここが撮りたいから。」
もっと写真映えする所を撮ればいいのに、と素直に口にしたら、少し拗ねたように彼が言った。何かは知らないが、こだわりがあるらしい。
パシャパシャと何枚か撮っては見返し、また撮るのを繰り返す。待ち時間が長くて飽きてきた俺は、小さな公園内を適当に歩き回っていた。
ふと見えた夕日が綺麗で、眺めたまましばらく立ち止まっていた。ススキの湖に太陽が落ちていくようで、茜色の光が鮮烈に網膜を焼き付ける。
パシャ、とシャッター音がして振り向くと、彼がこちらにレンズを向けていた。
「は?勝手に撮んなよ。」
「ごめんって!……ね、この写真使っていい?」
せめて写真を見せろと言っても、まだ秘密だと言って見せてくれない。どうせ逆光で大して顔も見えないだろうと、溜息を吐きながら渋々了承した。
展示会当日、俺は彼にまた手を引かれて展示会場へ連れてこられていた。
貼られていた写真の中、一際目立つ大きなものがあった。大賞と書かれた下の解説パネルには、彼の名前。
あの日撮った俺の写真に、天使の翼が後から描き足されている。
「ね、どう?よく撮れてんでしょ。」
タイトルは、『僕の天使』。瞼の裏に、まだ幼い頃あの公園で交わした約束が過った気がした。
「……まぁ、いんじゃね。」
飛び跳ねて喜ぶ彼の背中に、俺も透明な羽根の幻覚を見た気がした。
テーマ:透明な羽根
「あー……お腹いっぱーい……」
1人がそう呟くと、皆同意するように頷いた。今日は、大学のサークルの1年でコテージを予約したのだ。
雪が降り始めない程度のこの時期に借りる客はあまり多くないらしく、予約のとき雑談混じりにそう言われた。俺達も、元々はこんな時期に泊まる予定ではなかったのだ。
元は、夏休みに訪れようと思っていた。しかし、想像以上に予定が合わず断念。そのままずるずると引きずり続け今に至るというわけだ。
「ね、せっかく来たんだし……アレ、やらない?」
いたずらっぽい笑顔でまた1人が言った。彼はいつも突拍子もないことを言うが、今回は皆にも伝わった。
「お、いいじゃん。俺賛成。」
男子しかいないようなサークルなので、当然のようにノリは軽い。そのままの勢いで、賛成多数となった。
「じゃあやりますか……キャンプファイヤー……!」
全員がやる気を出してその辺の枝を集めてきて、あっという間にこんもりとした山になった。誰かが拾ってきたススキに、煙草を吸う奴のライターを借りて火を点ける。小枝の山は、冬の空気で乾燥していたのかよく燃えた。
「ヤバい、テンション上がってきた。」
全員がうっすらそう思っている。さらに、中には全力ではしゃいでいる者もいる。
「俺天才かもしんない。」
「なに?」
「マシュマロあるわ。」
なんて神の一声により、焼きマシュマロ大会が実施された。張り切っていた奴が盛大に焦がして溶岩を錬成したり、普段大人しい奴がプロ級に上手かったりして中々盛り上がった。
「はー……」
疲れた。全員の意見が再び一致する。
暖かな火に当たっていると、なんだか眠たくなってきてしまう。ぱちぱちと心地よい音が鳴っているのもある。
「……眠気覚ましにコーヒー淹れてくるけど、要る?」
「いる〜……」
「俺も頼む。」
砂糖多めやら濃いめやら様々にオーダーを言われるが、全て無視して普通のブラックコーヒーを淹れる。トレーに砂糖は添えたのでいいだろう。
カフェインの力を借りた俺達の宴は、もうしばし続きそうだ。寒さで白む空気の中、赤々と燃える灯火の周りで、青い春が弾けた気がした。
テーマ:灯火を囲んで
凍える体に鞭打って、ぬくぬくとしたこたつから抜け出す。ストーブに暖められていた自室はまだよかったが、廊下に出ると冷たい空気が雪崩込んできて、思わず身震いした。一歩踏み出すと、裸足の足裏に、真冬の気温に晒されていたフローリングの温度が突き刺さる。
足が霜焼けしてしまう前にさっさと用事を済まそうと、家の中を小走りで移動した。悴みそうになる指先で脱衣場の扉を開ける。仕事を終えた洗濯機の蓋を開けて中身を取り出すと、凍りつきそうなほど冷たい、濡れた布の感触に顔を顰めた。それでも干してしまわないといけない、気を持ち直し、取手の外れかけた籠にぎゅむぎゅむと洗濯物を詰め込んでいく。腰と腕に力を込めて持ち上げると、ずっしりとした重みが伸し掛かってきて思わず呻き声が漏れてしまった。
できるだけ急いで暖かな部屋に戻って洗濯物を床に置くと、ようやく一息つく。こたつに入ると干す気力を失ってしまいそうだったので泣く泣く我慢し、加湿も兼ねて部屋の中に洗濯物を干してしまうことにした。
秋服として買った薄手の長袖の皺を伸ばし、ラックに掛けていく。今年も出番が少なかった秋服は、一昨年買った安物だとは思えないほど綺麗なままだった。黙々と作業を済ませ、洗濯籠は空になった。しかし、まだやることは残っている。
できるだけ厚めの秋服におろしたてのダウンを羽織って防寒を固めてから、覚悟を決め玄関を開け放つ。廊下がマシに思えるような、霜が降りたばかりの外は極寒で、吹き付ける北風にぎゅっと目を瞑った。
目的地はクリーニング店。預けてあった冬服を取りに来たのだ。
衣装ケースごと受け取って、車のトランクに載せて家路を辿る。帰ってから取り出せば、洗いたてのセーターや裏起毛の分厚い服がもふもふと積み重なっていく。
なんとなくやりたくなってしまって、床に並んだ服の山に飛び込んでみた。クリーニングに出したばかりの服は、成人済みの男が飛び乗っても全然埃っぽくならない。ふわりと立ち上った洗剤の匂いに眠たくなってきてしまったが、ここまできたのだ、衣替えは終わらせてしまうことにした。
ギチギチで閉まらない箪笥を無理矢理押し込み、衣替えを完了する。一仕事を終えた達成感を胸にこたつに潜り込んだ。クリーニング店からの帰り道、大量に買い込んでおいた大袋のお菓子を一つ開けてセットする。片手にスマホ、片手にお菓子を装備したらもう、動く気なんて起きるはずがない。
冬支度を終えた俺は、同じく冬支度を終え丸みを増した野良猫を窓越しに眺めながら、こたつという名の巣に籠もることにした。
テーマ:冬支度