感情の違いが、昔から分からなかった。流石に、人が死んで喜んだり、鬼ごっこをして泣き出すようなことは無かったが。感情の微妙な差異が、分からないのだ。「楽しい」と「嬉しい」の違いとか、「嫉妬」と「寂しい」の違いだとか、そういったものが感じ取れない。おかげで、幼少期は空気が読めないだの化け物だの言われて孤立した。
そんな僕も大人になって、周りに合わせることを覚えた。相変わらず感情の機微は分からないままだったが、周囲から見ればそんなことは知られっこない。案外、他の人間も他人の感情には疎いらしい。
感情を感じ取れないのだから、当然、恋愛なんてしたことが無かった。一緒に居て楽しい、までは理解できる。しかし、そこからどうしても、愛には繋がらない。僕には一生初恋は訪れないだろうな、と半ば諦めていた。
ただ、恋愛というものの魔力は凄まじかった。それまで恋愛感情を一切知ったことのない僕でも、これが恋だと分かる程には。戯曲や小説でしか知らなかった、胸の中を焼き尽くされるような感覚。それを、初めて知った。
彼の人は、曖昧だった僕の心の中の境界線を明確にした人だった。違いが分からなかった感情達を、手間暇かけて分類して一つ一つ教えてくれた。初めて彼と同じ感情を感じられた時、僕は嬉しかったはずなのに泣いていた。それがなぜなのか分からなくて混乱していたら、彼はまた笑って教えてくれた。嬉しくても、涙は出るのだと。
僕にとって、彼が引いた心の境界線は絶対だった。彼が教えてくれた感情が僕の感情の全てで、その境界に上手く当てはめられない微妙なものは、その都度彼に聞いていた。
僕の中にある感情の中で、彼がラベリングしたのでは無い感情はたった一つだけなのだ。それが、慕情。彼は僕より二回りは歳が上だし、何より同性だ。こんなこと、聞けるはずが無かった。それに、聞かなくても理解できてしまった。僕は、彼が好きだ。
けれど、彼が教えてくれた感情が、怯えや躊躇、困惑、愛着が、全部綯い交ぜになって僕を縛る縄となる。僕はついにその一歩を踏み出せないまま、彼を失ってしまった。
彼がいなくなった時の感情は、いまだに分からない。悲しみなんかよりずっと強くて、慕情のように自分では自覚できない。じわじわ僕を蝕んでいくこれを、どの境界に入れたらいいか、教えてくれる人はもういない。
テーマ:心の境界線
11/10/2025, 7:05:48 AM