カチ、と硬質な音を立てて、懐中時計の時を止める。別に、この時計の時が止まるだけで世界には何の影響もしない。本当に時が止まってしまうことを願いながら押し込んだネジを引き出すと、またカチカチと時計は時を刻みだした。本当の世界より数秒遅れて、それでも必死に時間を重ねる様をじっと見つめる。
こんな意味の分からないことをしているうちに、夜が明けてしまった。この時計と同じように、僕も世界に置いていかれている。僕だけが子どものまま、周囲はどんどん老い、朽ち、育っていく。外身は変わるのに中身は変われない僕ら、それらに永久に取り残されたまま。
朝を告げるように小鳥が鳴き交わしているが、僕の体感はまだ深夜。寝不足でふらつく頭と体を引きずって、なんとか出席だけでも取りに大学へ顔を出した。
もちろん講義なんて聞けるような体力は残っていない。机に突っ伏して寝入るだけだ。入学した意味があるのかも分からない。こんな調子だから、当然テストも点は取れない。今だって留年の危機にある。
けれど、心が子ども時代に取り残された僕には、焦燥感の欠片も浮かんでこなかった。ぼんやりと、他人の人生をそっくりそのまま映したビデオでも眺めてるみたいだ。
そんな日々の中、僕は初めて非現実を見た。僕と同じように、懐中時計のネジをいじっていた青年。きっと同じ大学に通っている。
彼が時計のネジを押し込む動作を見た、直後。次に瞬きをした瞬間には、彼はもういなかった。
瞬間移動かとも思ったが、あれはきっと時間を止めていたのだろう、と結論づけた。どういう原理かも、どういうことかもイマイチ分からない。けれど、好奇心は確実に刺激された。
「ねぇ。」
翌日。いつもよりよく眠れた僕は、いつもより軽い体で彼に話しかける。
「……はい?」
怪訝そうな顔の彼を見て、自分の中の冷静な部分は躊躇した。でも、そんなことで止まるほどの好奇心ではない。
「時間止めれるの?」
やらかした。完全なる不審者だ。言うに困ってド直球になった。彼の怪訝そうな表情は深みを増すばかりで、困惑も滲み始めた。
「……見てました?」
返ってきたのは予想外の肯定だった。思わず啞然として、それからじわじわとまた好奇心が膨れ上がっていく。
数十分彼を質問攻めにして、僕らはなんとなく打ち解けた。あれだけ不審者のような言動をしていた僕と親しくできるのだ。彼は相当懐が深い。
「僕も時間止めれるようになるかなぁ。」
「……止めれるようにはならないけど、時間を操れるようにはなるよ。」
断言された。あまり意味が分からなくて少しぽかんとしていると、彼は小さくはにかんで言った。
「君と話してると、時が経つの早すぎて時間止めそうになっちゃう。」
止めたら話せないからやらないけどね。と笑う彼。彼は時計を出してすらいないのに、僕は時を止められてしまったようだ。
じわじわ頬に血流が集まるのを感じながらも、まだ時は彼に止められたままのようだ。一言も発せない状態で、しばらく彼と見つめ合っていた。
テーマ:時を止めて
これは、『彼ら』へのインタビューの一部始終である。
Respondent:V
Q.彼はどんな人ですか?
「え?ああ、あいつ?いいヤツだよ。俺らん中でもダントツでデカいからよく怖がられてんだけどさぁ。あいつ、弟分多いっしょ?それだけ慕われてんだよ。静かにそこに居るだけでいい……あー、なんか大木的な?俺なんて舎弟みたいなの一人も居ないからなぁ。ま、欲しくもねーけど。」
Q2.彼に似合う「空」は?
「……真夜中の、真っ暗な空かな。うん。あいつの明るさはあの黒によく映えると思うよ。あいつさ、デカいし無口だし、おまけに仏頂面だから暗いと思うじゃん?全然なの。俺の次くらいには明るいと思ってる!そりゃ、口数は多くねぇよ?でもさぁ、なんつーか、天性の明るさ?リーダーシップ?的なのがあんの。あいつは夜がよく似合うよ。」
Respondent:J
Q.あなたにとって彼とは?
「……俺達の中でも飛び抜けてうるさいし、ナルシストだし、小せぇクセにギラギラした奴だが……まぁ、嫌いじゃねぇ。……あと、一人きりでも我を貫ける強さは尊敬してる。」
Q2.彼は何色が似合いますか?
「あー……オレンジ?ほら、夜明けとか日の入りの時の空みてぇな。……もっとギラギラしてる気もするが。案外金とか似合うんじゃねぇの?」
Noside
「お二人とも、ありがとうございました。最後にはなりますが……お互いに最後に会ったのはいつですか?」
「え〜?いつだっけなぁ。」
「……あー……」
『今年の8月半ばくらい?』
「本日は本当にありがとうございました。……ああ、帰り道は足元にお気をつけて。ええ、気温も下がってきて金木犀が散ってしまったので……少し滑るかもしれません。……それでは、お気をつけてお帰りください。ありがとうございました。」
*
そうして2人が去った後には、登り始めた太陽の陽光がいっぱいに満ちていた。
テーマ:キンモクセイ
「おはよ。」
僕の1日はその一言で始まる。朝に弱い僕を迎えに来る幼馴染の、低くて耳に馴染む声。寝起きに聞くとうっかり寝てしまいそうになるほど心地よくて、でも声が聞きたくて頑張って起きるのがルーティンだった。
眠気でふにゃふにゃの挨拶を返して、パジャマを脱いで制服に着替える。欠伸を零しながら食パンを齧って、ぼやける視界の中で靴紐を結んだ。
「行ってきまーす……」
共働きの両親は、僕が寝ている間に家を出てしまう。誰もいない部屋に惰性で声をかけ、彼の横をのろのろとした歩みで並んで歩いた。
「今日授業何〜……?」
「国数体英理、あと家庭科。」
「うへぇ……」
見事に全部嫌いな教科。まぁ、好きな教科が美術しか無いのだから当然だが。
僕があまりにも嫌そうな顔をするので、彼はおかしくなってしまったのかケラケラ笑い出した。
「……っふは……めちゃくちゃ嫌そー。」
「当たり前〜……」
わざとゲンナリした表情のまま彼を見上げると、尚更ツボに入ったらしい彼は小刻みに震える。そんな彼がおかしくておかしくて、僕までつい笑ってしまった。
こんなルーティンを、僕はもう人生の3分の1くらい送ってきた。終わりが来るなんて思いもしないで。
その日は寒さで、雪が舞っていた。
「はよ。」
寒いのか、彼もいつもよりもふもふとしていて、布団の外の寒さに参っていた僕は彼の上着に埋もれたりして戯れていた。そんな中で告げられた別れだった。
「あ、そうだ。俺引っ越すことんなった。」
どうすればいいか分からなくて、引きつったような笑顔のまま固まっていた気がする。息が白く凍り付いて、手足は急速に冷えていく。その日以降も彼の態度は普段通りで、いっそ夢だったんじゃないかとすら思った。
けれど、現実はそれを夢にはしてくれなかった。つい昨日、彼の乗ったトラックが走り去っていくのを、ぼんやり見つめていた。
ぱち、と目が覚める。彼の声じゃない、真冬の刺すような冷たさで。
誰もいない家も、体に残る眠気も普段通り。でも、彼はもうここに居ない。
朝が嫌い。朝日が嫌い。溢れんばかりの光が嫌い。
昨晩は彼と夜通し離した。あの月明かりが欲しくて仕方ない。
あれだけ行くなと願った月は、もう地球の反対側まで行ってしまった。
僕はその日の夜になって、生まれて初めて目覚まし時計をセットした。
テーマ:行かないでと、願ったのに
僕はある日、理科室の標本に恋をした。
友達もいない、なんならいじめに遭っていた僕は、その日も掃除を押し付けられていた。それで、一人で理科準備室に足を踏み入れたんだ。
全然使われていない準備室の方は理科室よりずっと埃っぽくて、ドアを開けた瞬間に生温く黴臭い空気が雪崩込んできた。思わずマスクを少し上まで上げて、恐る恐る部屋に入る。手前の方には授業で見たことがあるような器具が並んでいたが、少し進むと名前も知らないようなものになっていった。
棚の埃を払って一つ一つ丁寧に拭き上げ、中身を取り出して整理する。何に使うかも分からないので、慎重に作業した。
一番奥の棚に手をつけ始めた時、僕はそれに出会った。そこは、恐らく今よりずっと昔、規制も緩かった頃に寄贈されたのであろう人体標本がずらりと並んでいた。古びたボトルの中に浮かぶ心臓や肺、本物の人骨だろう骨格標本。ホラー映画でしか見ないような物品の数々に、思わず声が出てしまった。
「うわっ……」
とはいえ、仕事は仕事なので早めに終わらせてさっさと出ることにした。あまり触りたくはないが、一つずつ取り出して曇ったガラスを綺麗に拭く。ラベルを見ると、少し潰れた字で寄贈年月日が記されていた。
「……昭和……」
まだホルマリンの規制も厳しくなる前だ。これらもその時代の遺物なのだろう。処理が大丈夫なのか心配になったが、僕がそこまで気にする所以は無い。標本を掃除して、棚に綺麗に並べ直した。
「……あ……」
ふと、目が合った。ホルマリン漬けの眼球と。日本人らしい真っ黒な瞳に、僕は心を奪われた。
その子の入った瓶を手に取って眺める。ラベルには、寄贈年月日以外にもう一つ記述があった。それが、寄贈者の名前。名前を見ると、男性らしいことが分かった。
「……きれー……」
そこにあった享年は、僕と同じくらいだった。随分若くして亡くなったらしい。この目が似合うひとは、どんな人間だったのだろう。
僕は、彼のことは知らない。名前と、この目以外。けれど、この目だけで僕は恋に落ちてしまった。
この子はここに似合わない。こんな埃っぽくて薄暗い棚の中なんて、こんな綺麗な瞳に映すには勿体ない。そう思って、僕は初めて、自分の意思でこの手を汚した。
ホルマリン漬けの眼球を鞄にしまい込んで、何事も無かったかのように理科室を出た。
次の日からも同じようにいじめられたし、友達も居ない。でも、帰れば彼がいる。
僕は机の引き出し、一番下の大きな段に大切に隠した彼の視線を思い出し、人知れず密かに恍惚とした笑みを浮かべていた。
テーマ:秘密の標本
俺には親友がいる。
「…………は、よ……」
朝の挨拶をしながら半分寝ているコイツである。
彼は俺とは正反対。彼の友達は俺一人くらいしか居ないし、そもそも彼は話すのがあまり好きではない。夜型で、いつもゲームばかりしている。下を向いて歩きがちで、そのまま電柱にぶつかったり、結構抜けてる。そんな奴。
今日も今日とて、俺は彼の横を歩いている。それなりに友達が多い自信も、話すのが好きな自信もあるが、それでもコイツといるのは楽しい。
「今日も相変わらず眠そうだな。」
「ん゙〜……」
息が白く染まるほどの寒さの中、彼はネックウォーマーに顔を埋めて唸っている。
「寒い、眠い、帰りたい、ってとこか?」
「…………俺の心情当ててくんな……合ってるけど……」
ガクガク震えつつも一応返してはくれる。コイツは仏頂面と無愛想な話し方のせいで初対面の印象最悪だし、本人も一匹狼型だからそれを直そうとしない。皆、コイツのこういう面を見れば見る目変わるのかな。
2人して耳を真っ赤にしながら横並びで歩いていく。俺もマフラーくらい着けてくればよかった。寒い。
「……あ。」
彼の短い返事の合間に一人でベラベラ喋っていると、ふと、下を向いていた彼が口を開いた。
「どした?」
「……霜……」
彼の視線の先に目をやると、そこは農耕を終えたらしい畑だった。よく耕された土が一面に露出している。その土に、霜柱ができていた。光がキラキラと反射しているのを見るに、きっとこの畑一面が霜柱で覆われているのだろう。
『……』
2人、一瞬だけ目を合わせる。俺達は健全な男子高校生である。霜柱を見てやることなんてただ一つ。
無言で霜柱を踏み荒らしていく。さすがに、せっかく耕してある畑の土を潰してしまうのは罰当たりな気がするから、端っこの方。
十分くらいそうして、満足した俺達は何事も無かったかのようにまた学校へ足を向ける。
凍えるような、寒い寒い冬の朝。俺はあまり下を向かないから、霜柱にはいつも気付けない。
彼は、俺にいつも新しい視点をくれる。今だってそうだし、ずっと昔からそうだった。
まだ寒そうにしている彼に、俺も新しい世界を教えてやりたくなってしまった。彼は相変わらず下を向いている。
「……ね。綺麗じゃね?」
半ば無理やり前を向かせる。冬の朝、澄んだ空気の中山は霞がかっている。一面の霜に光が反射して、世界全体にラメでも振りかけたようだ。
「……きれー……」
ほう、と白い息が揺れて、ネックウォーマーが下にずり落ちる。真っ赤になった頬と鼻の頭がよく見えるようになった。伏し目がちな目をぱちりと開いて、寒さも忘れたかのように前を見つめている。
そんな姿が猫みたいで、思わず小さく笑ってしまう。俺は冬より夏が好きだし、寒いのは得意じゃない。でも、コイツとこうやってバカをするのは大好きなのは、どれだけ寒くなっても変わりそうになかった。
テーマ:凍える朝