作家志望の高校生

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僕はある日、理科室の標本に恋をした。
友達もいない、なんならいじめに遭っていた僕は、その日も掃除を押し付けられていた。それで、一人で理科準備室に足を踏み入れたんだ。
全然使われていない準備室の方は理科室よりずっと埃っぽくて、ドアを開けた瞬間に生温く黴臭い空気が雪崩込んできた。思わずマスクを少し上まで上げて、恐る恐る部屋に入る。手前の方には授業で見たことがあるような器具が並んでいたが、少し進むと名前も知らないようなものになっていった。
棚の埃を払って一つ一つ丁寧に拭き上げ、中身を取り出して整理する。何に使うかも分からないので、慎重に作業した。
一番奥の棚に手をつけ始めた時、僕はそれに出会った。そこは、恐らく今よりずっと昔、規制も緩かった頃に寄贈されたのであろう人体標本がずらりと並んでいた。古びたボトルの中に浮かぶ心臓や肺、本物の人骨だろう骨格標本。ホラー映画でしか見ないような物品の数々に、思わず声が出てしまった。
「うわっ……」
とはいえ、仕事は仕事なので早めに終わらせてさっさと出ることにした。あまり触りたくはないが、一つずつ取り出して曇ったガラスを綺麗に拭く。ラベルを見ると、少し潰れた字で寄贈年月日が記されていた。
「……昭和……」
まだホルマリンの規制も厳しくなる前だ。これらもその時代の遺物なのだろう。処理が大丈夫なのか心配になったが、僕がそこまで気にする所以は無い。標本を掃除して、棚に綺麗に並べ直した。
「……あ……」
ふと、目が合った。ホルマリン漬けの眼球と。日本人らしい真っ黒な瞳に、僕は心を奪われた。
その子の入った瓶を手に取って眺める。ラベルには、寄贈年月日以外にもう一つ記述があった。それが、寄贈者の名前。名前を見ると、男性らしいことが分かった。
「……きれー……」
そこにあった享年は、僕と同じくらいだった。随分若くして亡くなったらしい。この目が似合うひとは、どんな人間だったのだろう。
僕は、彼のことは知らない。名前と、この目以外。けれど、この目だけで僕は恋に落ちてしまった。
この子はここに似合わない。こんな埃っぽくて薄暗い棚の中なんて、こんな綺麗な瞳に映すには勿体ない。そう思って、僕は初めて、自分の意思でこの手を汚した。
ホルマリン漬けの眼球を鞄にしまい込んで、何事も無かったかのように理科室を出た。
次の日からも同じようにいじめられたし、友達も居ない。でも、帰れば彼がいる。
僕は机の引き出し、一番下の大きな段に大切に隠した彼の視線を思い出し、人知れず密かに恍惚とした笑みを浮かべていた。

テーマ:秘密の標本

11/3/2025, 7:04:01 AM