作家志望の高校生

Open App

僕には、忘れられない紅色が2つある。薄く小さな唇に映える紅と、形の整って筋の通った鼻から滴る深紅。この2色である。
彼とは、田舎の下町の中でも治安の悪い、貧民街に片足を突っ込んだような小さな町で出会った。
文明開化を終えてすぐ、まだまだ江戸の文化が根強く息づいていた時代だ。子供たちの立場は弱く、口減らしに売られることも多かった。彼も、その一人。
街の端、闇を孕んでひっそりと建つ安酒場が彼の職場だった。口減らしで売られた彼は、幇間として雇われている。しかし、治安の悪い地域の安酒場の幇間に、マトモな人権が認められるはずがない。まして、口減らしで親から売られたような子供だ。彼は余計に軽んじられて、時として男の身でありながら遊女の真似事さえさせられていた。
僕はそれなりにいいところの出で、その頃は貧乏ながら作家を目指して書生をしていた。しかし、学校には上手く馴染めず、友人もできず、売れる作家になると大口を叩いた手前親には頼れず借金塗れ。毎晩毎晩希死念慮で枕を濡らし、敷きっぱなしの万年床の上で執筆をするような毎日だった。
ある時、唯一自分を気にかけてくれていた先輩に連れられて、例の安酒場へ足を踏み入れた。そこは酒の匂いと男の欲望が渦巻く、酷く醜く汚い場所だった。
幇間も芸子もあどけなさを残した子供ばかりで、誰も彼もが絶望したような、光を失って死んだ目で緩く笑んでいる。僕は酷く居心地が悪くて、厠に行くと言ってその場を抜け出した。
ふと吹き出した秋風と、それに吹かれた落ち葉の乾いた音で庭に目を向けると、丁度月にかかっていた雲が晴れてきていた。光の差した、すぐ真下。雲の合間から立った光の柱に照らされるように、彼が居た。ここに居る男である以上、きっと彼も幇間なのだろうと思った。しかし、幇間に留めておくにはあまりにも彼は美しくて、その薄い唇に引かれた紅がやけに艶めかしく見えた。これが、一つ目の紅色。
僕はすっかり彼の虜になって、行きたくもない安酒場に入り浸るようになった。借金の額はますます増え、そろそろ桁が一つ上がるかと言う頃。それなりに彼と親密になってきて有頂天だった僕は、いつも通りに安酒場の暖簾を潜り、彼を目線で探していた。しかしその日は彼が居なくて、溜息を吐きながら厠を借りて帰ろうとした。
彼と初めて出会ったあの庭に、彼はいた。横には、この酒場の店主と思しき大柄な男がいる。
その男の無骨な拳が、彼の華奢な頬を打った。何度も何度も、執拗に。折檻である。彼が何をしたかは知らないが、僕はなぜか、得も言えぬような興奮を覚えていた。
彼の鼻から滴る深紅の液体が、わざとらしい色味の紅を流して、彼に一番似合う紅を唇に差していく。それが堪らなくて、罪悪感に苛まれて、僕はそれ以来その店に足を踏み入れることは無くなった。これが2つ目の紅である。
彼は昨日、誰かの元に引き取られたらしい。僕よりずっと背が高く、体格も容姿も整っていて、いかにも裕福そうな男。僕といた時よりずっと綺麗に光を反射する目で男に笑む彼を、下町の裏路地から、彼の姿が胡麻粒程になるまで見つめていた。
僕はあの日から、本格的に文壇入りを果たした。あの紅を描いた小説が、認められたのである。
彼の紅が認められたのが嬉しいような、けれどあの紅は自分の文章なんかでは表現しきれない悔しさのような、そんな感情を抱えたまま、今日も僕は記憶の上を何度も万年筆で擦っていた。

テーマ:紅の記憶

11/23/2025, 7:07:39 AM