僕の人生はずっと下り坂で、生きている価値なんて一つもないと漠然と思っていた。
家に帰れば両親の怒声が聞こえる。今日もまた、何か喧嘩をしているらしい。妹が泣けば喧嘩は中断されるが、ギスギスした空気はそのままに母が妹をあやす。その間に帰ってきた僕には一言もない。
学校でも僕は空気みたいで、友人はいても親友はいない。いつも誰かの2番目、3番目にしかなれなくて、世界にとって僕という存在は何かの予備でしかないような気がしていた。帰りの会で先生が何か言うと、クラスが急にざわざわと騒がしくなった。ネガティブな騒がしさではなく、むしろ楽しみなような調子が含まれている。先生の話をろくに聞いていなかったし、何故騒ぐのか聞けるほど仲のいい友人もいないので分からずじまいだったが。
その日の帰り道。僕はいつも通り俯いて、見慣れた灰色のアスファルトを見つめながら機械的に歩く。ガヤガヤと騒がしい街の雑音が耳に流れ込んできて気持ちが悪くなりそうだ。
前を見ていなかったからだろう、どん、と誰かにぶつかってしまった。
「あ……ご、ごめんなさい……」
恐る恐る顔を上げて、思わず固まってしまった。
「……ああ、大丈夫。君は?」
目の前にいたのは、すらりと身長が高くて綺麗な顔をした男の子。たぶん年は同じくらい。この辺じゃ見たこともないような人だ。
見惚れて声を出すのも忘れていると、不審に思ったのか彼の顔が眼前に迫った。
「え、ほんとに大丈夫そ?……どっか痛い?」
真っ赤になりそうになる顔を鎮めて、慌てて何度も頷く。挙動不審になりながら大丈夫だと伝えたら、彼はあっさり乗り出していた身を引いた。
「あ、そう。よかった。じゃあ、俺もう行くわ。じゃあ。」
そう言って彼はさっさと行ってしまった。しばらく惚けていたが、やがては我に返ってまた歩き出した。今度は俯かないで、しっかり前を見る。憎いほどの快晴に、点々と飛ぶカラスの群れ。遠くに見える赤い屋根に、散りかけた花々の青や黄色。美しいと言うにはあまりに日常的で、綺麗になりきれない世界がやけに愛しく思えた。
次の日。朝の会の時転校生の紹介があった。昨日騒がしくなったのはこの話だったのかと合点がいって、少し満足する。
先生の呼びかけに答え、教室のドアがガラリと開いた。
ばちりと目が合って、転校生と僕は一瞬硬直する。僕はじわじわ顔が熱くなるのを感じて、少し視線を下に落とした。
先生の淡々とした説明に落ち着きをなんとか取り戻し、また前を向く。
「……よろしく、お願いします。」
そう言った彼の顔は、間違いなく昨日見たあの人だった。
ぺこりと頭を下げた彼の髪がはらりと落ち、耳が隙間から覗く。その隙間から見えた耳が赤くなっていたのを見て、僕は初めて、誰かの一番になれたような、そんな予感がした。
テーマ:予感
「まもなく、終点。終末、終末です。お出口は、右側です。」
無気力な車掌の声がガラガラの車内に響く。乗客は俺達4人だけで、他は誰もいない。当然だ。楽しい時間旅行の行き先に、危険が溢れかえっている終末世界を選ぶような変人はそう多くない。しかも時刻は終電ギリギリの深夜。乗客はさらに絞られる。
「今日何するー?前とおんなじ?」
「薬は飽きたでしょ、そろそろ。」
なんでもないような調子で、物騒な話を繰り広げる。終末世界では、薬も暴力も何もかも、全てが合法だ。正確に言えば、秩序も法も崩壊した世界、というのが正しいが。
ガタリと一際大きく車体が揺れ、タイムワープの長い長いトンネルを抜ける。車窓から見える景色は、崩れたビルに薬でゾンビのようになった人々、荒れ果てた荒野。街灯さえ壊れた、深夜の街だった。
風化して原形を失った駅に下り立ち、4人揃っていることを確認する。そして、誰からともなく荒廃した世界のさらに下、アンダーグラウンドの闇市に足を踏み入れた。
「ねー、あそこで売ってる子けっこー可愛くない?」
世界の終わりに即して親でも喪ったのだろう。粗末な服を着た少女が檻の中で一人座っていた。
「馬鹿、買っても連れて帰れねぇだろ。」
「そうだよ。どうせ連れて帰れないんだしやめときな。」
駄々をこねる友人を、別の友人が2人がかりで止めている。
「なぁ、今日の宿いつもんとこでいい?」
そんな彼らの空気を、俺はあえて読まない。流れをぶち壊して宿の予約を入れる。
「オプションで薬つけて!」
「はいはい。」
言われた通りオプションを組み、宿の予約を完了する。薬物中毒者の俺達にとって宿代なんて勿体なくて仕方ないので、4人で一部屋だけだ。
めぼしいものも無かった闇市を抜け、宿に入る。机の上には、サービスの水や菓子に並んで怪しげな注射器が4本置かれていた。全員、慣れたように無言でそれを手にとって、躊躇なく腕に突き立てる。ぼんやりしていく意識にただならぬ幸福感を感じながら、4人縺れるようにしてベッドに倒れ込んだ。
俺達の関係は、きっと友人と呼ぶにはあまりに歪であまりに近い。けれど、それでいい。俺達4人はオトモダチ。全員が全員にうっすら依存しているのも、もう離れられないのも、間に誰も入れないのも分かっている。けれど、この薬でドロドロになった終末世界、そんな世界でも一緒に笑いながら歩ける。薬でハイになった4人の狂ったような呻き声と笑い声が響くのを、多幸感に包まれながらどこか他人視点で聞いていた。
俺達は、今日も、そしてきっと明日も、この愉快でイカれた友達とこの廃墟街へ足を運ぶのだろう。
テーマ:friends
あの日、あいつは声を失った。俺がもっと上手くやれていたら、あるいは世界がもう少しだけ優しかったら、俺はまだ彼の声を聞いていられたのだろうか。
俺達は、この辺りじゃそれなりに有名なコンビだった。俺の伴奏で、彼が歌う。幼い頃から合わせてきただけあるコンビネーションが絶妙だと、そこそこ大きな大会にも出場していた。
高校生の時だった。いつものように参加した大会。普段参加しているものより少し大規模で、それだけ動員数も多かった。一組、二組と演奏を終えていき、ついに俺達の番がやってきた。
ステージに上がって、いざ演奏を始めようとした瞬間。会場後部のドアが大げさな音を立てて開き、一人の男が静まり返った会場を、ステージ目掛けて真っすぐ突っ込んできた。その手には、ギラリと光る金属製の刃。
男は彼に詰め寄り、口汚く罵詈雑言を吐きかけた。首元には刃物も突きつけられていたが、直前で怖気付いたのか、幸いそれが使用されることは無かった。
それでも、彼にとっては十分トラウマになってしまった。男はどうやら、俺達が邪魔をしているせいで大会に出られないのだと思い込んだらしい。
あの時、一番近くにいた俺が早く動ければ。あいつの前に立ってやれていれば、まだ彼は歌ってくれただろうか。何度後悔したか分からない。あれ以来引きこもってしまった彼の部屋を訪ねた回数も、ピアノの鍵盤を殴りつけたことも一度や二度ではない。
それでも。あの日終わってしまった俺達にも、転機は訪れた。家のピアノを、苛立ちに任せて乱雑に弾いていた時。ふと、視線を感じて振り向いた。
ばちりと目が合ったのは、間違いなく彼で。少し窶れていたが、あの日とほとんど変わらなかった。彼はしばらく何か言おうとして躊躇っていた。しかし、突然のことで動揺した俺の手が鍵盤に触れ、音が響いた時。決意したように視線が上がる。
「……僕ね、もう一回だけ……もう一回、お前とやりたい。」
彼が差し出したのは、近々この地域で開かれる小さな演奏会の募集用紙だった。端がよれ、水滴の垂れたような染みの残った紙は、彼の葛藤とここに来るまでの努力の結晶やのだろう。審査員すら居ない、発表だけの小規模なものだ。それでも、彼と俺にとっては大きな一歩だった。
数年のブランクを巻き返すため、俺達は寝食も忘れて四六時中練習した。彼との演奏は相変わらず楽しくて、時間なんてどうでもよかった。
そして迎えた本番。彼はやはりトラウマのせいか少し震えていたし、俺もあの日見た彼の顔がフラッシュバックして指が止まりそうになる。それでも、音を紡いだ。
彼が懸命に紡いでいく歌を、俺は一番の特等席で聞いていた。
テーマ:君が紡ぐ歌
僕には特殊能力がある。とはいっても、そこまで強いわけでも、かっこいいわけでもない。ほんの少し先の未来が、夢の中でぼんやり見えるだけだ。しかも、夢だからそんなに長くは覚えていられない。
けれど一つだけ、ずっと昔に見た夢なのに覚えているものがあった。直感で、これは未来である出来事なのだと思った。けれど、それから十年弱が経った今でもその日は訪れていない。
今日の夢もまた、どうでもいいことだった。教室に猫が乱入してくる夢。それだけである。なんともまぁ平和で、夢にしてはつまらない。実際起きるとそれなりに癒やされたが。そんな日の帰り道。僕は、薄暗くなり始めた街の中、喧騒がやけにうるさく感じてメインストリートを1本外れた路地に入った。
そこは、街灯も無い上陽光も届かないから表通りよりずっと暗い。カラスがゴミ袋を啄んでいるのが見え、なんだか不気味だった。
しかし、僕は案外その道を気に入った。落書きがされているわけでもなく、不良が屯していることもない。見た目の割に平和で、しかも人もあまり来ない。おまけに近道。人見知りでお家至上主義の僕にとって、少し不気味なことを除けば理想の道だった。
ここを帰り道にしてしばらくしても何も無かったから、きっと正常性バイアスがかかっていたのだろう。昨日無事だったから、今日も何も起こらない保証なんてどこにもない。僕は綺麗な二度見を決めながら、現実逃避のようにそんなことを考えていた。
見間違いであってほしかったが、見間違いではなかった。路地裏、しかもゴミ捨て場に、人がいる。生きているのが不安になるタイプの体勢で。
「……あ……あの〜……」
控えめに声をかけてみる。しばらく返事が無かったため、僕は怯えつつ携帯で警察を呼ぼうとした。
その腕を目の前の人に掴まれて呼べなかったが。驚いた僕は、女子並みの高音で悲鳴をあげた。
しかし、すぐにそれは止むことになる。腕を掴んだ手の先、見上げた顔があまりにも綺麗だったから。体格的に、たぶん男の人。僕よりずっと背が高くて、すらりと細い。
僕は、その顔を知っていた。
今日は霧が濃い日だった。表通りから差し込む街灯の光と喧騒が、夢のようにぼやけていく。
光と霧の、丁度真ん中。そこに、浮き世離れするほど綺麗な人がいる。
十年前に見た夢が、ついに現実になった。長く長く滞っていた未来が、運命が、カチリと音を立てて動き出す気配がした気がした。
テーマ:光と霧の狭間で
「……なぁ、まだ起きてるか?」
「……ギリギリ、な……」
薄暗い世界の中、2人並んで互いに身を寄せ合う。肩を預け合って、息の音だけが聞こえる空間でぼやけていく意識をなんとか繋ぎ止めていた。
「……なんかさ……昔の思い出の話……しようぜ。」
「……ろくなのねぇだろ……」
軽口を叩きながら、少しずつふわふわとしていく語り口で思い出を語っていく。2人して遊び回った故郷の空き地やら、すぐ怒鳴ってきた学校の先生にイタズラを仕掛けたときのことやら、あまりのくだらなさに笑ってしまう。
「……俺さぁ、あれ……あの、お前が持ってた砂時計……あれ欲しかったんだよね。」
「…………あー……あれな……欲しいの?……やるよ、別に……帰れたらな。」
「マジ?やったー……」
僕らの生まれた故郷は、何も無い田舎だった。四方を山に囲まれ、広い畑や牧地が広がる長閑な村だ。住んでいるのは老人ばかりで、僕らのような子どもにとっては変わりばのしない、つまらない場所だった。だから、ギラギラした都会のネオンに憧れてこうして故郷を飛び出してきたのだが。
そんな辺鄙な村で、僕が唯一、喉から手が出るほど欲しかったものがあった。それが、彼の持っていた砂時計。都会へ出張をしていた父親からの土産だったらしい。どこにでもあるようなものだった。透明なガラスと木の土台、中の砂は淡い空色。ひっくり返す度にサラサラと落ちていく砂に光が反射して、僕の持っている何より綺麗に見えた。
ラムネのビー玉だとか、おはじきだとか、キラキラしたものが好きだった僕にとって、その砂時計は憧れそのものだった。
「ふふ……戻れたら……ね……」
「……あー……俺もう無理……先行くわ……」
ふ、と肩にかかる重みが増す。隣で幽かに聞こえていたか細い息遣いが聞こえなくなった。
「僕ももう無理かなぁ……」
霞む視界を遮るように、目を閉じた。あの日、キラキラした砂時計に憧れた僕達は都会へ飛び出した。しばらくは楽しかった。田舎には無かったギラギラした刺激が新鮮で、脳内にバチバチ火花が散るような日々を送っていた。
けれど、僕達は失敗した。無知すぎた。長閑な田舎には無かった悪意に騙されて、反社会勢力のグループに引き込まれた。
今日は、特に血腥い日だった。僕達は少し下手を打って、2人とも致命傷を負って組織にも見捨てられた。僕らみたいな末端の人員の手当てをするほどの余裕は無かったらしい。
薄れていく意識の中、もう戻れない遠い思い出の破片が詰まった砂時計の砂が、サラサラと落ちていく。あの田舎の村の、穏やかな日差しを受けながら、その砂の最後の一粒が下に落ちる。
都会の喧騒の中では、その音はあまりにもか細くて、掻き消されてしまった。僕は隣に眠る親友に頭を寄せ、落ちていく砂の音になんとか耳を澄ませようとしながら意識を手放した。
テーマ:砂時計の音