あの日、あいつは声を失った。俺がもっと上手くやれていたら、あるいは世界がもう少しだけ優しかったら、俺はまだ彼の声を聞いていられたのだろうか。
俺達は、この辺りじゃそれなりに有名なコンビだった。俺の伴奏で、彼が歌う。幼い頃から合わせてきただけあるコンビネーションが絶妙だと、そこそこ大きな大会にも出場していた。
高校生の時だった。いつものように参加した大会。普段参加しているものより少し大規模で、それだけ動員数も多かった。一組、二組と演奏を終えていき、ついに俺達の番がやってきた。
ステージに上がって、いざ演奏を始めようとした瞬間。会場後部のドアが大げさな音を立てて開き、一人の男が静まり返った会場を、ステージ目掛けて真っすぐ突っ込んできた。その手には、ギラリと光る金属製の刃。
男は彼に詰め寄り、口汚く罵詈雑言を吐きかけた。首元には刃物も突きつけられていたが、直前で怖気付いたのか、幸いそれが使用されることは無かった。
それでも、彼にとっては十分トラウマになってしまった。男はどうやら、俺達が邪魔をしているせいで大会に出られないのだと思い込んだらしい。
あの時、一番近くにいた俺が早く動ければ。あいつの前に立ってやれていれば、まだ彼は歌ってくれただろうか。何度後悔したか分からない。あれ以来引きこもってしまった彼の部屋を訪ねた回数も、ピアノの鍵盤を殴りつけたことも一度や二度ではない。
それでも。あの日終わってしまった俺達にも、転機は訪れた。家のピアノを、苛立ちに任せて乱雑に弾いていた時。ふと、視線を感じて振り向いた。
ばちりと目が合ったのは、間違いなく彼で。少し窶れていたが、あの日とほとんど変わらなかった。彼はしばらく何か言おうとして躊躇っていた。しかし、突然のことで動揺した俺の手が鍵盤に触れ、音が響いた時。決意したように視線が上がる。
「……僕ね、もう一回だけ……もう一回、お前とやりたい。」
彼が差し出したのは、近々この地域で開かれる小さな演奏会の募集用紙だった。端がよれ、水滴の垂れたような染みの残った紙は、彼の葛藤とここに来るまでの努力の結晶やのだろう。審査員すら居ない、発表だけの小規模なものだ。それでも、彼と俺にとっては大きな一歩だった。
数年のブランクを巻き返すため、俺達は寝食も忘れて四六時中練習した。彼との演奏は相変わらず楽しくて、時間なんてどうでもよかった。
そして迎えた本番。彼はやはりトラウマのせいか少し震えていたし、俺もあの日見た彼の顔がフラッシュバックして指が止まりそうになる。それでも、音を紡いだ。
彼が懸命に紡いでいく歌を、俺は一番の特等席で聞いていた。
テーマ:君が紡ぐ歌
10/20/2025, 8:02:39 AM