こいつしかいない。そう思った。
郊外の寂れた小さな町の、小さなピアノスクール。そこが、俺の唯一の居場所だった。家庭環境に難あり、それ故性格にも難ありな俺を受け入れてくれる場所は、そう多くはなかった。不貞腐れて適当に彷徨い歩いていた俺に手を差し伸べたのが、そこの教師だったのだ。
雑踏に塗れて辟易していた俺に、ピアノは向いていたようだ。綺麗で整った音だけを、譜面通り弾く。それだけで、醜い俺でも綺麗だと言われる音が奏でられた。だが、そんな弾き方をする俺には、絶望的に足りないものがあった。それは、感情の籠もった音。
俺は元々、ピアノに思い入れなんて一つも無い。あの日俺を拾った教師に感謝して、ピアノの音色を気に入っていても、込められるほどの想いが無い。だから、機械的に弾くことしかできなかった。そんな大事なものが抜け落ちた俺でも、チャンスは巡ってきた。
地区で行われる小さなコンクール。そこに出られることになった。規模が小さいだけあって、ルールも緩いようだ。課題曲なんかは特に無く、自分の弾きたい曲を、公共のマナーに反さない程度に弾けばいいらしい。しかし、俺にピアノ曲の知識なんてあまり無い。スクールで弾けと言われた曲を弾いているだけだったから。スクールが終わった後、近場の公園で適当に調べて出てきたピアノ曲を何曲も聞いた。そして、その中で一曲、なんとなく惹かれた曲を選ぶことにした。
それには一つ問題点があった。それは、連弾曲であったこと。一人で弾けなくも無いが、二人で弾いたほうが格段に良い演奏になる。スクールは小さいものなので、所属している人数もそう多くない。メンバーを全員思い浮かべてみるが、ピンと来る奴はいなかった。
この曲は諦めるしか無いか、なんて思って歩いていた。演奏が機械的すぎる俺と組もうとする奴はそう居ないだろうと思っていた、その時だった。ピアノスクールの教師と、誰かが話していた。新しい生徒らしく、色素の薄い髪をしていた。
翌日。案の定スクールに姿を現したそいつに、俺は2度絶句した。まず、容姿。北欧とのハーフらしいそいつは、純日本人の俺からすれば目が眩むほど美しい容姿をしていた。白みがかった金髪と、空とも海とも違う青い目が印象的だった。次に、演奏。そいつは俺とは正反対で、楽譜の指示なんてほとんど無視。音階は辛うじて保っているものの、感情の乗りすぎたそれは、過度なアレンジによって原曲からはかけ離れている。コンクールで順位は取れないだろう演奏。けれど、俺の心を掴んだのはそいつだけだった。
それで、冒頭に戻る。俺は咄嗟にそいつの手を取って、俺と組めと迫った。見た目にそぐわぬ能天気な性格らしく、朗らかに笑ってそいつは頷いた。
そいつと弾くピアノは、楽しかった。コンクール当日、会場はどこもかしこも白黒で、誰もが真面目ぶったスーツやドレスばかり着ている。
でも、目の前のそいつは、眩しいほどの青を湛えて笑っていた。弾き始めれば、白黒の鍵盤と楽譜しか目に入らない。けれど、弾き終わった後。割れんばかりの喝采と、そいつの青が見られるから。
俺のピアノが、ただの白黒の木の塊でなくなったのは、きっとこの時からだった。
テーマ:モノクロ
「ねぇねぇ、明日世界滅ぶってなったらさぁ、どうする?」
よくある、陳腐な心理テストみたいな質問。大抵は、家族と過ごすだとか豪遊するだとか、そんな感じの答えになるのだろう。
俺は昔から変な奴とよく言われた。クラスの男子がこぞって外でドッジボールをする中、一人で裏庭に行ってうさぎ小屋の兎と戯れていた。人と接するのが苦手で、反対に動物と接するのが好きだった。
だから、例の質問にも当然のように動物が絡んでくる。
「……さぁ。たぶん猫とか撫でてるんじゃない。」
適当に返したが、案外その通りかもしれない。普段どれだけ無気力に過ごしていても、いざ終わりが来ると怖いだろうから。いつも通りすぎる気ままな猫を見て、落ち着こうとするのはありそうだ。
「え〜?お前ホント動物好きだよなぁ。世界の終わりでも猫かよ。」
愉快そうに笑いながらスマホを見ている目の前の男をちらりと眺める。何故か俺によく絡んでくる、明るくてスポーツができるおバカキャラ。所謂陽キャだ。本当に、何故俺に絡むのか全く理解できない。
「俺なら絶対片っ端から女子に告るわ〜。最後くらい彼女欲しくね?」
また馬鹿なことを言っている。あまりにも男子高校生然としていて、あまりにも下らないからつい笑ってしまった。奴は話すのを止めスマホから目を離して、一瞬呆けたような顔をした。直後、表情筋も音量的にも全てがうるさいくらい全力で不服を示してきたが。
それにうるさいと直接言わないのは、やはり俺もコイツに絆されているのかもしれない。馬鹿ではあるが、愚かではない男だ。何も考えていないようで、無意識なのかこちらが踏み込んでほしくない所には絶対に入ってこない。きっちりと保たれたこちら側のパーソナルスペースギリギリの距離を保つのが上手い奴なのだ。
「……まぁ、でも。……お前なら、一緒に猫撫でてもいいかもね。」
だから、少しだけ素直になってやろうと思った。奴が何故か目を見開いて硬直しているが、気恥ずかしさから俯いた俺の視界には入らない。しばらくの間不自然な沈黙が流れた後、奴の顔がみるみる真っ赤になっていく。ものの数秒で茹でダコのようになったのが面白くてまた笑ってしまったが、俺も恥ずかしくなってきた。顔に熱が集まるのを感じながら、適当に照れ隠しの言い訳を並べる。
「……ほら、お前犬みたいだし。猫と犬揃ってる感じで良くない?」
我ながら意味が分からないが、同じく恥ずかしさで頭が余計馬鹿になったアイツにはこれでも通じたらしい。何故か納得した。
生きている以上、いつかは来る終わり。けれど、コイツと話すこんな下らない日常の中なら、いつ終わりが来てもなんだかんだ笑って終われそうだ、なんて気恥ずかしいことは絶対言えそうに無かった。
テーマ:永遠なんて、ないけれど
昔から君は泣き虫だった。転んで泣いて、いじめられて泣いて、果てには上手く折り紙が折れなかっただけで泣いていた。君以上の泣き虫を、僕は知らない。
それが、保育園の頃。小学生に上がると、君は声を上げては泣かなくなった。相変わらず泣き虫だったけど、押し殺したような声で泣いていた。中学生になる頃には、学校ではあまり泣かなくなった。それでも月に一回は泣いていたけど。
そして、高校生。君はすっかり強くなって、もう人前ではほとんど泣かなかった。本当は祝うべきことなのだろう。保育園からずっと一緒だった君が、少しずつ成長しているんだから。でも、僕は素直に祝えなかった。確実に変わっていく君が、弱さを失っていくのが寂しくてたまらなかった。僕はもう泣いている君を慰めることもできないのかと、今度はこっちが泣きそうになった。
高校に入学して2年。僕の生活は一変した。机の中に入れられたゴミ、汚された上履き、無くなる教科書。典型的ないじめだった。君は僕の異変になんとなく気付いていたらしかったけど、僕は全力で隠した。こんなこと君が知ったら、泣き虫な君はきっとまた泣いてしまうから。
けれど、結局バレた。一緒に登校して、靴箱を開けた瞬間紙くずが流れ出てきたから。なんとも手の込んだいじめで、ゴミと一緒に詰められた紙くずには、わざわざ僕への罵詈雑言が書かれていた。
「……ねぇ、これ何?なんでこんなことなってんの?」
初めて聞いた声だった。底冷えするような、本気の怒りが込められた声。あまりに冷たいそれに、僕は背筋を冷や汗が伝うのを感じた。もう誤魔化せない、そう思った。
観念して全部話すと、君は怒ったような、それでいて泣きそうなような、なんとも言えない顔をしていた。だから話したくなかったんだと思いつつ、どうすればいいか分からなくて黙り込んでしまう。君はその沈黙をどう受け取ったのか、突然僕を抱きしめてきた。
「え、あの……ど、どうしたの?」
驚いたせいで言葉が詰まりがちになった僕が問うと、やっぱり我慢できなくて泣き出してしまった君が言った。
「……気付けなかった……お前がこんなになってるのに、俺……」
抱きしめてくる腕の温かさに、僕までつられて泣きそうになった。それでも、堪らえようとしたんだ。
「なんで泣かないんだよ……泣いて、いいんだよ……!」
思いっきり泣きながら、それでも強い意志の籠もった光を失わない瞳で見つめられる。高校生になってから、ほとんど泣かなかった君が泣いている。ああ、これじゃ保育園の頃と立場が逆じゃないか、なんて思うが、じわじわと滲み出す視界は、もう止められそうにない。
堰を切ったように流れ出す涙は、いじめへの悲しみなのか、慰めへの喜びなのか、はたまた別のものか。泣いている僕にさえ、分からなかった。
テーマ:涙の理由
今日は、丸一日このカフェに居座っていた。普段なら迷惑だとか世間体だとかを気にして、こんなことはしないが。今日だけはダメだった。今日は平日だから、とか、他の客も居ないから、とか色々と罪悪感に言い訳を並べ立てて誤魔化す。
振られた。アイツは優しいから、直接的には断られなかったが。泳ぐ目線が、少し強張った笑顔が、距離感を測るような態度が、もう全て物語っていた。元より付き合えるなどと思ってはいなかったが、それでもやっぱり失恋は辛かった。一度言ってしまった以上、もう友達にも戻れないだろう。
そもそも、最初から叶うはずのない恋だった。アイツは誰にでも優しくて、顔だって格好良くて。俺なんかじゃ絶対釣り合わない。
そんなことを考えている間に、コーヒーはすっかり冷めきってしまった。冷たくなった7杯目のコーヒーを一気に飲み干したところで、カフェのドアベルの音がした。客が来たのだろうが、そんなの気にしている余裕も無かった。空いたコーヒーカップをぼんやり見つめながら俯いていると、突然肩を掴まれた。
さすがに顔を上げると、よく見慣れた、今は一番見たくなかった顔だった。何故か息は荒くて、散々走り回った後みたいだ。気まずくて、顔を背ける。顔を見てしまったら、また全てが伝わってきてしまいそうで怖かった。
「はぁっ……やっと見つけたぁ……」
彼は、肩に縋り付いたまま、力が抜けたようにへたり込んだ。肩を掴んでいた手が背中に回されて、ぎゅっと強く抱きしめられる。
ぐちゃぐちゃだった思考が真っ白に塗り潰されて、何も考えられなくなった。抱きしめられている、誰に?振られたはずの彼に。なぜ、どうして、と取り留めも無い考えの濁流が遅れてやってきて、動けなかった。
「……昨日の、アレ……」
反射的に目をぎゅっと瞑った。馬鹿真面目なコイツは、わざわざ言葉で振りに来たのか。でも、それならこの体勢は?またぐるぐる考えていると、蚊の鳴くような声でまた話しだした。
「……昨日は急だったから、頭真っ白になっちゃって……それで、あんな態度取っちゃって……えっと、だから……」
普段、言いたいことはきっぱり言うタイプのコイツが珍しく口籠っている。それが不自然に思えて、恐る恐る目を開けた。
瞬間、目に映ったのは、自分を抱きしめている彼の、真っ赤になった耳だった。
頼んでいた8杯目のコーヒーが提供される。囁かれた言葉に見開いた目には、マスターの祝福するような生温い笑顔が映っていた。
きっともう、冷めきったコーヒーを一人で飲むことは無い。温かいコーヒーを、温かいまま二人で飲みながら、昨日までより少しだけ近付いた距離に心臓を弾ませていた。
テーマ:コーヒーが冷めないうちに
夢を見た。それはリアルな夢だった。夢にありがちなな意味不明でふわふわとした世界観ではなかった。ある一点を除いて、現実世界からほとんど逸脱していない。けれど、確実に現実ではない世界。そんな夢を見ていた。
学校からの帰り道、あえて道路から外れて草むらを踏みしめる。隣を歩いていたはずのアイツは、どこかで見つけたらしいアマガエルに夢中になっている。
「ねー!コイツめっちゃかわいい!」
なんて手に乗せてつついてはケラケラ笑っていた。もう高校生にもなるのに、テンションが小学生すぎて思わず笑ってしまった。変なツボに入ったのか、段々笑いが深まっていく俺を見て、アイツが若干不服そうな顔をしている。早く機嫌を取らないと後が面倒だが、生憎笑いが収まる気配はまだ無かった。
しばらくしてようやく笑いが収まると、また2人で歩き出した。途中にあるコンビニで適当に菓子パンを奢ってやって機嫌を取って、ホットスナックの誘惑に負けて2人してコロッケをかじる。本当にくだらなくて、本当にどうでもいい日常の風景だ。
家に着いて、その後の予定をグダグダと話す。別に何をするでも無いが、この後も2人でいることは確定していた。親友以上恋人未満のような関係が心地よすぎて、その先に踏み込むのが怖かった。
家の中、ベッドにもたれ掛かって床に座る。真隣に座るアイツの体温を感じた瞬間、目が覚めた。
そこにあるのは、ひとりぶんの体温と、手先に触れる冷えたシーツだけ。アイツの影はとうに塗り潰されて見えなくなっていた。
乾いた笑いが零れた。高校生のアイツなんて存在しないのに。馬鹿みたいに幻想に縋って、あり得ないもしもを願いすぎて、遂に夢にまで見てしまった。あんな幸せなifを、俺が見ていいわけがない。
中学生の時に死んだアイツは、俺が殺したようなものだった。本当は、アイツの家族がネグレクトをしていたことを知っていた。知っていて、無視した。関係が崩れるのが怖かった。ずっと俺に依存していてほしかった。純粋無垢で何も知らなかったアイツを、無垢なまま歪めたのは俺だ。
この罪に汚れた手では、アイツと普通に笑い合えるような、ありふれた、しかし幸せなパラレルワールドを描くことさえ許されない。
瞼に焼き付いた残夢が、雫になって温もりを失ったシーツに染み込んでいった。
テーマ:パラレルワールド