「僕と、心中しませんか。」
きっかけはくだらない事だった。3年付き合った彼女にこっぴどく振られて、おまけに雨まで降ってきて。雨粒なのか涙なのか分からない液体を顔から滴らせながら、適当に目に入った店に入った。ギラギラと本能を暴くようなネオンの光と、あふれかえった淫靡な空気。アルコールと香水の甘ったるい匂いと、湿度を持って絡み付いてくる空気。
最悪だ。彼女に振られた上、雨宿りで入った店は如何わしいような怪しいバー。何も考えずに入ってしまったせいで、もう引き返すにも不自然なくらいドアを開けてしまっている。仕方ないと腹を括って、そのままバーへと足を踏み入れた。
その店は、思っていたほど悪くはなかった。確かに、ねっとりとした男女の会話が後ろから聞こえてはくるが、カウンターには一人客が多い。艶めかしい女の声と、荒くなった男の鼻息さえ聞き流せれば、そこまで居心地は悪くない。俺はマスターに適当なカクテルを注文して、ぼんやりと並べられた酒瓶を眺めていた。
「お兄さん、ここ初めてですか?」
ふと、横から柔らかなテノールが聞こえた。この店に似合うような甘さを持って、低く響く声。振り向けば、隣の席に座っていた若い男だった。
「突然すみません……目が腫れていたので、何かあったのかと……」
余計なお世話でしたかね、なんて苦笑いを浮かべる彼を見ていたら、なぜだかどうしようもなく泣きたくなった。その場の雰囲気もあってか、俺は初対面の男に洗いざらい全て吐き出した。途中で提供されたカクテルのアルコールのせいか、晒さなくていい恥まで晒した気がする。酒の力を借りすぎてカウンターに突っ伏した俺の頭を、彼はそっと優しく撫でた。普段なら男に撫でられたって何も嬉しくないどころか気持ち悪くさえあるが、弱っている今はやけに心地よくて、つい振り払うのを忘れていた。
「今日はいっぱい泣いて、いっぱい飲んで、明日には忘れちゃいましょう。」
彼はおすすめのカクテルを教えてくれた。飲んでみると、味はほとんどオレンジジュースだが、アルコールのキレが加わったことで独特の爽やかさがあった。酒に明るくない俺でも、その名くらいは知っていた。スクリュードライバー、別名「レディキラー」。アルコール度数の割に飲みやすいそれは、失恋の痛みを飛ばすには都合が良かった。
「……お兄さん、カクテル言葉って知ってますか?」
俺がべろべろに酔い潰れた頃、彼が突然言った。まともに頭が働くわけもないので、ふるふると頭だけ振って答えた。彼は幼児のような俺を見て微笑んだ後、日常会話と変わらない温度感で悍ましいことを口にした。
「そうですか。……今は知らなくてもいいです。でも、もし明日もお兄さんが辛かったら、死にたいと思ったら、」
彼の瞳を、初めて真正面から見た。どろりとした執着と闇が籠もったような目は、努めて柔和に細められていた。
テーマ:答えは、まだ
ようやく雪が解け、全てが終わった。雪解け水は地にへばりついた血液を洗い流し、屍の上に新たな生命を芽吹かせた。数十年続いた諍いはようやく和解し、2つの国は手を取り合った。国民に不安と恐怖しか齎さなかった争いは、数多の犠牲と焼けた大地を傷痕として遺していった。
俺は軍人として生まれ、軍人として育った。父は将校、母は財閥家の長女。俺は軍服以外の服を着た記憶がほとんど無かったし、剣以外のものを握った記憶もほとんど無い。ある程度大きくなってからは、血に塗れていない地面を踏むことさえ少なくなった。父と母は俺に強くあれと言った。弱さは、俺の家では絶対的な悪だった。少しでも弱音を吐けば激しく折檻され、万が一にも近所の子どもと遊ぼうものなら、翌日から二度とその子の一家を見かけることは無かった。俺は、戦の場しか知らなかった。
だから、戦争が終わってからの俺は酷く空虚だった。鍛えるにも理由が無い、もう剣を握る必要は無い。歩く地面は、荒れてこそいても、強かな花が蕾をつけている。父も母も、あれだけ嫌っていた弱さを見せるようになった。平和を享受して、世間一般から見れば穏やかになったのだろう。けれど、俺にとってそれは何より恐ろしいことで、穏やかに笑う父を見る度、そんな父に微笑んで寄り添う母を見る度に吐き気がした。父の手だって、俺と同じくらい、あるいはそれ以上に血塗れのはずなのに。母の目だって、俺と同じ地獄を見ていたはずなのに。なのに、どうしてそんなに平然と、幸せそうに笑えるのか。理解できなくて、疑問が腹の中に渦巻いて、反吐が出そうだった。
街の全てが綺麗になりすぎて、未だ血に塗れたままの自分が浮いて思えた。それで、逃げるように旅をした。準備もろくにしていない、行き当たりばったりな旅だった。しかし、戦場の野営に慣れた俺にとっては、そう苦痛でもなかった。
今まで軍を率いて踏み荒らした土地を、己の足一つで踏みしめていく。戦地の一つ一つを巡る度、自分の罪が伸し掛かってくるような気がした。俺が敵軍曹長を斬り伏せた土地では、牧草を食む山羊が放牧されていた。俺が数十の敵軍と死闘を繰り広げた街は、花々に彩られ蝶が舞う地になっていた。知っている土地のはずなのに、その空気は何よりよそよそしくて、かつての戦地に取り残されているのは自分だけなのだ、と思い知らされた。
戦争は俺から奪いはしても、何も与えてはくれなかった。同年代が当たり前に貰えたような愛情も、当たり前に育んだだろう友情も、俺には一つもない。僅かに残ったのは、手に染み付いて離れない血の匂いと、剣の柄に擦れ何度も剥けて硬くなった掌。それくらいだった。遅すぎた親の愛情は違和感としか感じられなかったし、笑顔の作り方も忘れた体では友達なんてできるわけがない。
子ども達が花畑で草冠を作っている。互いの頭に乗せ合って、きゃらきゃらと楽しそうに笑う声が響く。俺が同じくらいの頃、同じように貰ったのは勲章だけだった。
全てが終わった春。皆が暖かさに喜び合う中、冬にしか生きられない俺は、暖かな熱に灼かれて死んでいくしかなかった。
テーマ:センチメンタル・ジャーニー
「あれ、今日新月?」
ふと夜空を見ていた彼が口を開いた。ちらりと俺も見てみれば、確かに月の姿はそこに無かった。けれど、一月に一度は見られるんだから、そこまで反応することでもないと思うが。
「今月2回目じゃない?新月なの。」
彼が続けて言った。なるほど、言われてみれば、つい最近も新月を見た気がする。何か心に引っかかるものがあったので、スマホを開いて検索にかける。この現象はブラックムーンというらしい。新たな知識を得たので、彼にも共有してみる。天体が好きな彼はきっととっくに知っているが、それでも楽しそうに聞いてくれた。
2人で並んで、月のいない夜空を見上げる。月の光が無いせいか、星の瞬きがいつもよりはっきり見える。
月より星の方が多数なのに、月が明るいと星はほとんど見えない。多数に勝ってしまう少数な月は、なんだか邪魔だと言われそうな気がした。ヒーローが太陽に、ヴィランが月に例えられるのは、単に青空と夜空の色や明るさの関係だけではないのだろうな。なんてどうでもいいことを考えていた。月はその姿が見えなくなって、そのことを星々に喜ばれるのか。それなら、夜空にとって月は悪なのか。ちょっとした知的好奇心のような、そうでないような、微妙な想像を繰り返していた。
「でもさ、新月ってめっちゃよく見ると見えるよね。」
彼の言葉で、俺は思考を中断した。彼の見つめていた方向を見やると、月の輪郭だけが薄っすら見えた。
その姿を隠して尚、夜空は月を反映する。案外、夜空も月が好きなのかもしれない。
俺は月に対する認識を改めながら、彼の横に並んで、彼お手製のカクテルが入ったグラスを傾けながら夜空も向き合っていた。口に流れ込んでくる菫の香り。ジンとレモンジュース、バイオレットリキュールで作るらしいカクテルの名はブルームーン。ブラックムーンの対になるような、一月に2度訪れる満月の名前だ。自分がすごく風流なことをしている気分になって、俺は柄にもなく微笑んだ。案外、酒が回っているのかもしれない。
ベランダから見上げる夜空は、アパートの群れに囲まれて、小さく、狭く、けれど美しく在った。
テーマ:君と見上げる月…🌙
何も、わからないらしい。自分の名前も、生まれた土地も、俺のことも、何もかも。
記憶喪失。アニメやドラマの世界だけの話だと思っていた。まさか、自分が当事者になるなんて、思ってもいなかった。俺達が積み重ねてきた十数年が、お前の中から綺麗さっぱり消え失せてしまった。あの時間はいっそ、俺の見ていた夢だったんじゃないかとさえ思う。
アイツは、記憶を失っても案外平然としていた。そりゃあ、最初はアイツも混乱していた。当然だ。突然、知らない土地で知らない人間に知らない名前で呼ばれるんだから。それでも、数週間も経てば慣れたのかすっかり元通りだった。馬鹿らしいほど真っすぐで、お人好しで、光をそのまま擬人化したような奴。記憶を失って尚その輝きは失せないのだから、きっと彼の光は先天的なものなのだろう。
消されてしまったアイツとの思い出ばかりが脳裏を過ぎる。 それだけ、俺らが積み重ねてきた十数年は俺の中で大きく膨らんでいた。けれど、お前にとってはそうでもなかったのか。俺にとってのこの重みは、お前にとって、溜息一つで簡単に吹き飛ばせるような程度の重さだったのか。以前から好きだったゼリーを、以前とは違って果物を最後に残して食べるアイツを見ていたら、俺の意思に反して目に勝手に涙が浮かんでいった。
*
どうやら俺は記憶喪失になったらしい。とはいっても、自覚はほとんど無い。当然だ。「記憶を失った」なんて言われても、記憶喪失になった後の俺にとっては初めから存在しない記憶。それが失くなったと言われたところで、大した実感も悲しみも湧いてこない。
けれど、ずっと胸の中に燻っているものが一つだけあった。何かは分からない。けれど、それを忘れてしまったせいで、心に大きく穴が空いたっきり塞がらなくなったような、そんな喪失感があった。
アイツに会ってから、その正体を本能的に理解した。俺が一番失いたくなかった記憶、胸に空いた穴の正体。それはコイツだったのだ。でも、失った記憶はもう戻らない。ならば、これから積み重ねていけばいい。俺はまだ、そんな甘いことを考えていた。
俺が事の重大さを知ったのは、お前が居なくなりかけてからだった。俺の見舞いの帰り、突然飛び降りたって。そこで俺はハッとした。俺が失ったのは、数あるピースのうち一つだけ、なんて認識だ。でも、アイツにとっては?
アイツにとっては、十数年も俺と積み上げた全てを失ったんだ。これから積み上げていったって、失ったものが返ってくる訳でも無い。
俺達二人の間を繋いでいたものが、俺のせいで失われた。全部空白に置き換わって、アイツの心を蝕んだ。
俺はその日、初めて本気で記憶喪失になったことを悔やんだ。
テーマ:空白
まさか、こんなことになるとは。それ以外の言葉が出てこなかった。
殴って、蹴って、時に撃って、目標をひたすら処理していく。必要な奴だけを選んで捕縛し、後は全員処分して。捕縛した対象は、半ば拷問に近い尋問をする。それが俺の仕事だった。世の中にはコレを嬉々としてやる頭のおかしい奴も居るらしいが、少なくとも俺は無理だった。血が跳ねて顔にでも付けば汚いと思うし、対象の悲鳴なんて耳障りでしかない。まぁ、人を殺しておいて罪悪感も恐怖も無かった時点で俺もどこかおかしいのだが。とにかく、この狂った闇の世界において、俺は異常なほどまともだった。
それが仇となる日が来るとは思っていなかったが。その日、俺は新人の教育を命じられて地下室へ向かっていた。どうせまたどこかおかしい人間が来るのだろうと思ってはいたが、あそこまでとは思わないだろう。少なくとも、俺は思わなかった。
「あ!もしかして、今日僕を指導してくださる先輩ですか!?」
やたらハイテンションで話しかけられ、俺は悟った。またヤバイ奴が入ってきた、と。もしコイツが普通の一般人なら、この血の匂いと拷問器具、あちこちに飛び散った血痕と肉片の残骸を見ただけで恐怖に震え、人によっては吐いてもおかしくない。ここに来て笑っている時点で、コイツもどこか頭のネジが外れている。
指導を開始してみると、そいつは本当にイカれた人間だった。子犬のように屈託ない笑顔でついて回ってきたかと思えば、尋問の時は若干俺が引くほど冷静で冷酷だった。コイツの教育はすぐに終わった。素質がありすぎたのだ。
そうして、嵐のような教育期間が終わったことで俺はアイツから解放された。どうやらアイツは期待の新人としてこき使われているらしく、俺にもあまり付き纏わなくなった。
嵐か台風か、はたまた竜巻か何かのように俺の日常をぐちゃぐちゃにした奴も、いざ絡まれなくなると若干の寂しさを感じる。
俺は反社にしては思考が表社会の人間に近い。だからかもしれない。台風の日、激しく降り頻る雨を見て面倒だと感じたり怖くなったりする一方で、どこかワクワクしてしまうあの気持ち。アイツに対する感情は、たぶんそれに近しかった。
酔狂なことに、アイツは忙しくなってからも、僅かな暇さえあれば俺について回った。俺も俺で、そんなアイツに段々絆されていった。まさか、俺がここまで全てをめちゃくちゃにされて許すどころか、若干の愛おしささえ感じる日が来るとは思っていなかった。
俺の周辺をめちゃくちゃにしながら、ドタバタと忙しない日々を送るアイツは、なんだか可愛らしくて、俺は初対面で一通り荒らされた心を片付ける暇もなかった。隣に立つ台風みたいな奴を手放せなくなってようやく、俺も普通じゃなかったんだと自覚した。
テーマ:台風が過ぎ去って