何も、わからないらしい。自分の名前も、生まれた土地も、俺のことも、何もかも。
記憶喪失。アニメやドラマの世界だけの話だと思っていた。まさか、自分が当事者になるなんて、思ってもいなかった。俺達が積み重ねてきた十数年が、お前の中から綺麗さっぱり消え失せてしまった。あの時間はいっそ、俺の見ていた夢だったんじゃないかとさえ思う。
アイツは、記憶を失っても案外平然としていた。そりゃあ、最初はアイツも混乱していた。当然だ。突然、知らない土地で知らない人間に知らない名前で呼ばれるんだから。それでも、数週間も経てば慣れたのかすっかり元通りだった。馬鹿らしいほど真っすぐで、お人好しで、光をそのまま擬人化したような奴。記憶を失って尚その輝きは失せないのだから、きっと彼の光は先天的なものなのだろう。
消されてしまったアイツとの思い出ばかりが脳裏を過ぎる。 それだけ、俺らが積み重ねてきた十数年は俺の中で大きく膨らんでいた。けれど、お前にとってはそうでもなかったのか。俺にとってのこの重みは、お前にとって、溜息一つで簡単に吹き飛ばせるような程度の重さだったのか。以前から好きだったゼリーを、以前とは違って果物を最後に残して食べるアイツを見ていたら、俺の意思に反して目に勝手に涙が浮かんでいった。
*
どうやら俺は記憶喪失になったらしい。とはいっても、自覚はほとんど無い。当然だ。「記憶を失った」なんて言われても、記憶喪失になった後の俺にとっては初めから存在しない記憶。それが失くなったと言われたところで、大した実感も悲しみも湧いてこない。
けれど、ずっと胸の中に燻っているものが一つだけあった。何かは分からない。けれど、それを忘れてしまったせいで、心に大きく穴が空いたっきり塞がらなくなったような、そんな喪失感があった。
アイツに会ってから、その正体を本能的に理解した。俺が一番失いたくなかった記憶、胸に空いた穴の正体。それはコイツだったのだ。でも、失った記憶はもう戻らない。ならば、これから積み重ねていけばいい。俺はまだ、そんな甘いことを考えていた。
俺が事の重大さを知ったのは、お前が居なくなりかけてからだった。俺の見舞いの帰り、突然飛び降りたって。そこで俺はハッとした。俺が失ったのは、数あるピースのうち一つだけ、なんて認識だ。でも、アイツにとっては?
アイツにとっては、十数年も俺と積み上げた全てを失ったんだ。これから積み上げていったって、失ったものが返ってくる訳でも無い。
俺達二人の間を繋いでいたものが、俺のせいで失われた。全部空白に置き換わって、アイツの心を蝕んだ。
俺はその日、初めて本気で記憶喪失になったことを悔やんだ。
テーマ:空白
9/13/2025, 5:05:45 PM