「あれ、今日新月?」
ふと夜空を見ていた彼が口を開いた。ちらりと俺も見てみれば、確かに月の姿はそこに無かった。けれど、一月に一度は見られるんだから、そこまで反応することでもないと思うが。
「今月2回目じゃない?新月なの。」
彼が続けて言った。なるほど、言われてみれば、つい最近も新月を見た気がする。何か心に引っかかるものがあったので、スマホを開いて検索にかける。この現象はブラックムーンというらしい。新たな知識を得たので、彼にも共有してみる。天体が好きな彼はきっととっくに知っているが、それでも楽しそうに聞いてくれた。
2人で並んで、月のいない夜空を見上げる。月の光が無いせいか、星の瞬きがいつもよりはっきり見える。
月より星の方が多数なのに、月が明るいと星はほとんど見えない。多数に勝ってしまう少数な月は、なんだか邪魔だと言われそうな気がした。ヒーローが太陽に、ヴィランが月に例えられるのは、単に青空と夜空の色や明るさの関係だけではないのだろうな。なんてどうでもいいことを考えていた。月はその姿が見えなくなって、そのことを星々に喜ばれるのか。それなら、夜空にとって月は悪なのか。ちょっとした知的好奇心のような、そうでないような、微妙な想像を繰り返していた。
「でもさ、新月ってめっちゃよく見ると見えるよね。」
彼の言葉で、俺は思考を中断した。彼の見つめていた方向を見やると、月の輪郭だけが薄っすら見えた。
その姿を隠して尚、夜空は月を反映する。案外、夜空も月が好きなのかもしれない。
俺は月に対する認識を改めながら、彼の横に並んで、彼お手製のカクテルが入ったグラスを傾けながら夜空も向き合っていた。口に流れ込んでくる菫の香り。ジンとレモンジュース、バイオレットリキュールで作るらしいカクテルの名はブルームーン。ブラックムーンの対になるような、一月に2度訪れる満月の名前だ。自分がすごく風流なことをしている気分になって、俺は柄にもなく微笑んだ。案外、酒が回っているのかもしれない。
ベランダから見上げる夜空は、アパートの群れに囲まれて、小さく、狭く、けれど美しく在った。
テーマ:君と見上げる月…🌙
何も、わからないらしい。自分の名前も、生まれた土地も、俺のことも、何もかも。
記憶喪失。アニメやドラマの世界だけの話だと思っていた。まさか、自分が当事者になるなんて、思ってもいなかった。俺達が積み重ねてきた十数年が、お前の中から綺麗さっぱり消え失せてしまった。あの時間はいっそ、俺の見ていた夢だったんじゃないかとさえ思う。
アイツは、記憶を失っても案外平然としていた。そりゃあ、最初はアイツも混乱していた。当然だ。突然、知らない土地で知らない人間に知らない名前で呼ばれるんだから。それでも、数週間も経てば慣れたのかすっかり元通りだった。馬鹿らしいほど真っすぐで、お人好しで、光をそのまま擬人化したような奴。記憶を失って尚その輝きは失せないのだから、きっと彼の光は先天的なものなのだろう。
消されてしまったアイツとの思い出ばかりが脳裏を過ぎる。 それだけ、俺らが積み重ねてきた十数年は俺の中で大きく膨らんでいた。けれど、お前にとってはそうでもなかったのか。俺にとってのこの重みは、お前にとって、溜息一つで簡単に吹き飛ばせるような程度の重さだったのか。以前から好きだったゼリーを、以前とは違って果物を最後に残して食べるアイツを見ていたら、俺の意思に反して目に勝手に涙が浮かんでいった。
*
どうやら俺は記憶喪失になったらしい。とはいっても、自覚はほとんど無い。当然だ。「記憶を失った」なんて言われても、記憶喪失になった後の俺にとっては初めから存在しない記憶。それが失くなったと言われたところで、大した実感も悲しみも湧いてこない。
けれど、ずっと胸の中に燻っているものが一つだけあった。何かは分からない。けれど、それを忘れてしまったせいで、心に大きく穴が空いたっきり塞がらなくなったような、そんな喪失感があった。
アイツに会ってから、その正体を本能的に理解した。俺が一番失いたくなかった記憶、胸に空いた穴の正体。それはコイツだったのだ。でも、失った記憶はもう戻らない。ならば、これから積み重ねていけばいい。俺はまだ、そんな甘いことを考えていた。
俺が事の重大さを知ったのは、お前が居なくなりかけてからだった。俺の見舞いの帰り、突然飛び降りたって。そこで俺はハッとした。俺が失ったのは、数あるピースのうち一つだけ、なんて認識だ。でも、アイツにとっては?
アイツにとっては、十数年も俺と積み上げた全てを失ったんだ。これから積み上げていったって、失ったものが返ってくる訳でも無い。
俺達二人の間を繋いでいたものが、俺のせいで失われた。全部空白に置き換わって、アイツの心を蝕んだ。
俺はその日、初めて本気で記憶喪失になったことを悔やんだ。
テーマ:空白
まさか、こんなことになるとは。それ以外の言葉が出てこなかった。
殴って、蹴って、時に撃って、目標をひたすら処理していく。必要な奴だけを選んで捕縛し、後は全員処分して。捕縛した対象は、半ば拷問に近い尋問をする。それが俺の仕事だった。世の中にはコレを嬉々としてやる頭のおかしい奴も居るらしいが、少なくとも俺は無理だった。血が跳ねて顔にでも付けば汚いと思うし、対象の悲鳴なんて耳障りでしかない。まぁ、人を殺しておいて罪悪感も恐怖も無かった時点で俺もどこかおかしいのだが。とにかく、この狂った闇の世界において、俺は異常なほどまともだった。
それが仇となる日が来るとは思っていなかったが。その日、俺は新人の教育を命じられて地下室へ向かっていた。どうせまたどこかおかしい人間が来るのだろうと思ってはいたが、あそこまでとは思わないだろう。少なくとも、俺は思わなかった。
「あ!もしかして、今日僕を指導してくださる先輩ですか!?」
やたらハイテンションで話しかけられ、俺は悟った。またヤバイ奴が入ってきた、と。もしコイツが普通の一般人なら、この血の匂いと拷問器具、あちこちに飛び散った血痕と肉片の残骸を見ただけで恐怖に震え、人によっては吐いてもおかしくない。ここに来て笑っている時点で、コイツもどこか頭のネジが外れている。
指導を開始してみると、そいつは本当にイカれた人間だった。子犬のように屈託ない笑顔でついて回ってきたかと思えば、尋問の時は若干俺が引くほど冷静で冷酷だった。コイツの教育はすぐに終わった。素質がありすぎたのだ。
そうして、嵐のような教育期間が終わったことで俺はアイツから解放された。どうやらアイツは期待の新人としてこき使われているらしく、俺にもあまり付き纏わなくなった。
嵐か台風か、はたまた竜巻か何かのように俺の日常をぐちゃぐちゃにした奴も、いざ絡まれなくなると若干の寂しさを感じる。
俺は反社にしては思考が表社会の人間に近い。だからかもしれない。台風の日、激しく降り頻る雨を見て面倒だと感じたり怖くなったりする一方で、どこかワクワクしてしまうあの気持ち。アイツに対する感情は、たぶんそれに近しかった。
酔狂なことに、アイツは忙しくなってからも、僅かな暇さえあれば俺について回った。俺も俺で、そんなアイツに段々絆されていった。まさか、俺がここまで全てをめちゃくちゃにされて許すどころか、若干の愛おしささえ感じる日が来るとは思っていなかった。
俺の周辺をめちゃくちゃにしながら、ドタバタと忙しない日々を送るアイツは、なんだか可愛らしくて、俺は初対面で一通り荒らされた心を片付ける暇もなかった。隣に立つ台風みたいな奴を手放せなくなってようやく、俺も普通じゃなかったんだと自覚した。
テーマ:台風が過ぎ去って
その場に響いた冷たい銃声の後、俺は一人泣き崩れた。
ずっと、二人で一人だと思っていた。俺がこの組織に拾われて、お前とバディを組んだあの日から、ずっと。俺は、家族というものを知らなかった。家に帰れば、ヒステリックに泣き喚く母と、酒に溺れてそんな母に手を上げる父。薄暗い部屋に籠もって、死んだような表情をしている弟。はっきり言って、俺の家族はもう破綻しきっていた。父と母の「恋人」の金で生活し、碌な飯さえ貰えずに盗みを働く俺がどれだけ惨めだったのか、たぶん俺の両親は知らない。だって、自分達の性欲の果てに生まれた子供に興味なんて無かったから。
そんな生活に疲れ果てて、荒んでいた俺を拾ってくれたのが、今所属している組織の幹部だった。その人はやさしい人だった。気まぐれな猫を彷彿とさせる眠たげな猫目に、本心の読めない飄々とした笑みを常に湛えていた。低く甘く響くテノールボイスと若干間延びするようなゆったりとした話し方は、男のもののはずなのに、なんだか妙な色気があった。その態度はいっそ軽薄そうでさえあるのに、接してみると誰より周囲をよく見ていて、相手に気負わせずさり気なく行われる気遣いの数々は舌を巻くものがある。
だからこそ、信じられなかった。彼が、組織を裏切ったらしい。彼は既に捕縛され、尋問用の地下牢へと繋がれていると。俺に降りかかる不幸はこれだけに留まらなかった。ボスは無情にも、彼への尋問と裏切り者の処分を俺に命じた。まだ、人伝に死んだと伝えられたほうがマシだった。
心を殺し、淡々と自らの恩人に傷を付けていく。さっさと吐いてくれればいいのに、彼はなぜか頑なに口を割ろうとしなかった。流石に幹部の座に就き続けられる精神力は伊達ではなかったようだ。けれど、なんとか吐かせた。正直、十分ではなかったと思う。でも、もうそれ以上彼を苦しめたくなかった。
最後の最期、銃の照準を彼の心臓に合わせて引き金に手を掛ける。撃つ直前。彼の呟きが耳に飛び込んできた。否、飛び込んできて、しまった。
彼の本当の思惑に気付いた時にはもう遅かった。銃口を飛び出した銃弾を止める術があるはずもなく、彼の生命が零れ落ちていく。俺は呆然としたまま、しばらく立ち尽くしていた。
銃を撃ってからの記憶は曖昧だった。なんとか報告に行って、部屋で服を着替える暇もなくベッドに倒れ込んだ気がする。ふと部屋の中に彼の残影を感じてしまった瞬間、もうダメだった。彼に救われ、彼に導かれた俺の部屋は、忘れるにしてはあまりにも、彼の痕跡が残りすぎていた。
2人で並んで眠ったベッドの上、慰めてくれる人はこの手で殺めた。俺を構成していた全てを自ら破壊した俺は、2人だった頃の陽炎に喉を圧迫されながら、ひとりきりで、虚脱したように泣いていた。
テーマ:ひとりきり
割れんばかりの歓声に包まれ、俺達3人はステージの表舞台へと駆け出していった。メンバーカラーのスポットライトに照らされて、それぞれらしい登場の仕方で。衣装も、精確も、そして熱意も。何もかもがバラバラな俺達は、それでも一つのグループだった。
ある大手アイドルスタジオから発表された、期待の新人男性アイドルユニット。それが俺達だった。メンバーカラーは赤、青、緑。それぞれの好きな色で適当に決めたらこうなった。そう、適当なのである。ユニット名も適当、ライブのセトリも適当。俺達は、とにかく性格面での相性が悪かった。1人は、真面目でアイドルへの熱意も高い青担当。練習も毎回1人残って夜遅くまでしているらしく、本番でも抜群の歌唱力とキレのあるダンスで観客を魅了する。しかし、真面目すぎるが故に堅物で、融通が利かないのが玉に瑕だ。そんな彼と相性最悪なのが、軽薄そうでチャラチャラしている赤担当。天性の才能から来るダンスや歌は確かに舌を巻くものがあるのだが、いかにも遊び人といった風貌とヘラヘラした態度はつくづく相性が悪かった。アイドルへの熱意も赤担当の彼が一番低く、受かったからなったといえ曖昧な理由だけでアイドルをやっている。俺は、そんな2人の緩衝材のためだけに入れられたようなものだった。良くも悪くも全てが平凡、前2人のように、特別な才能も、目を瞠るような熱意も無い。顔だって2人の放つ別ジャンルの輝きの間では空気みたいなものだし、グループとしてのファンは居ても、俺単推しのファンはほとんど居なかった。
けれど、そんな俺達は意外なことに、それぞれのメンバーを一人で推す、というよりはグループ箱推しのファンが多かった。一人一人の個性が強すぎるせいで、通常ならば単推しのファンが多そうなものだが。
ステージの上でだけ、俺達は仲良くなれる。ライバルとして、親友としての振る舞いができる。ダンスや歌の相性だけは抜群なのだ。歌ならば、低く、指示通りに歌う青の彼と、少し高く、アレンジが多い赤の彼。そんな2人の間を、俺が繋ぐ。ダンスでは、手本通りの振り付けを完璧にこなす青と、かなり自己流で踊る赤を俺がカバーしながら自然に見せる。はっきり言って、相性は最悪だが、この3人でしか成立し得ないユニットでもあった。
メンバーカラーのスポットライトは、ステージの上に俺達が上がりきると中央に集中する。
三原色のそれは、重なり合って何より眩しい白となる。バラバラな俺達でも、俺達でなければこの白で観客を照らすことはできないから。
俺達は3人、背中合わせで、振動するスピーカーを、揺れ動く白色のペンライトを見つめていた。
テーマ:Red, Green, Blue