自分の世界は完全に原色でできていると、信じていた。絵の具をチューブから絞って、混ぜて、そのまま塗った色。そんな色で世界は彩られていると、思っていた。
俺は、絵を描くことしか能がなかった。勉強をやらせても結果はさっぱり、スポーツをやっても上達の道すじすら見えない始末。社交も苦手で夜型人間。誰もが認める社会不適合者だった。それでも、絵が描けたから、なんとかなってきた。成績は1か2、よくて3が並ぶ中、美術だけは余裕で5。受験の時だって、絵で貰った賞を使って自己推薦で合格した。人と話すのが苦手でも、絵を描いていれば勝手に話しかけてくれたし、俺も絵のことならいつもより少しだけ上手く話せた。絵だけあれば、上手くいっていた。
そんな風にして、微温湯のような人生を歩んできた罰なのだろうか。ある日、俺の全ては崩壊した。事故だった。俺は、道路の反対側で起こった事故に巻き込まれて制御を失った車に轢かれた。不幸中の幸いか、命に別状はなかった。否、生物としての生命活動には別状が無かっただけで、俺という個人としてはもう、死んだも同然だった。
俺は、両腕に障害が残った。轢かれた割に原型は保っていたようで切断にはならなかったし、若干拙くはなったが、ひらがな程度の簡単なものなら書ける。でも、もう絵は描けなかった。入院先の病院で、看護師に無理を言って筆を取った。キャンバスにできていくのはただの絵の具で引かれた線の集合体で、到底絵とは言い難いものだった。
絶望。その一言に全てが詰まっていた。とうとう俺は、生きる意味さえ失った。世界から色彩が消えていく。皮肉にも、そのことに気付けないほど、病室は白一色だった。
俺の世界は、原色なんかじゃ塗られていなかった。繊細で複雑で、奇跡みたいなバランスで幾重にも重ねられたフィルターの層でできていたんだ。そして、それを固定するのが絵筆だった。けれど、俺はもうその筆を折ってしまった。世界に色を齎していたフィルターはバラバラになって、無色透明な世界だけが残る。前は確かに感じていた季節感を感じなくなった時、本当に色を失ったんだと実感した。夏に近付いて青々としていく夏草も、萎れて茶色くなっていく花束も、紅葉して赤や黄色に染まっていく山も、俺にはもう単なる白黒の単調な濃淡にしか見えなかった。
透けて、透けて、透き通って。俺はこんなにも無味乾燥な人間になったというのに、世間は何も変わりやしなかった。あれだけ好きだった色を、もう感じられない。網膜に焼き付いた赤が、青が、黄色が、心の傷だけをやけに鮮やかに傷付けていく。
俺はそれに耐えきれなくて、もう晴れ渡った青空なのか、はたまた満月の光る夜空なのかも分からない空に飛び込んで、皮肉にも前と変わらない見た目をした横断歩道にこの身を打ち付けた。
最後の最期、一瞬だけ。白黒の地面に広がった赤と、登りかけた朝日の橙色、それを反射するビルの窓の濃紺が、ボロボロになったフィルターを通したみたいに、変に一部だけ色付いて見えた気がした。
テーマ:フィルター
「ヤベー!さっきすれ違った女子めっちゃいい匂いした!」
「お前キモすぎ」
男子高校生が繰り広げる、どこにでもありふれた低俗な会話。大人から見れば、青くて眩しくて少しだけ痛い、青春の美しき1ページに映るのかもしれない。けれど、当事者もそう感じているとは限らないのだ。
昔からそうだった。俺の良いと思ったものは、皆にとって「ありえないもの」だった。俺はいつも少数派で、多数決で自分の要望が通ったことは一度も無い。俺の考え方は、きっと普通の人とどこか違うんだろう。とどこかで諦めて、冷めた目で世界を見つめていた。
とはいえ、これまでは少数派で困ることはそんなに多くなかった。少しだけ残念に思うことはあっても、本気で多数派になりたいなんて望んだことも無かった。ケーキの味だとか、遊びの種類だとか、精々その程度のことだった。だから、ここまで本気で、「普通」を望んだことが無かったんだ。
もし俺が普通だったら、胸を張って堂々とお前の横に並べたのだろうか。もし俺が普通だったら、もっとちゃんと顔を上げてお前の顔を見られたんだろうか。ぐるぐると考えは巡って、俺の視線をさらに床に押し付ける。こんなもしもを考えている時点で、普通とは程遠いというのに。
女の子を好きになれなかった。小さくて柔らかくて、華奢でふわふわしたような子を可愛いと思うことはあっても、所詮可愛い止まりなのだ。そこから「好き」に繋がらない。かといって、男子が好きかと問われれば、それもまた何か違う気がする。好きな人なんてできたことが無かったから、気が付かなかっただけかもしれないが。
お前に出会って初めて、俺は恋愛感情を正しく理解した。それと同時に、また世界のレールから外れたようなものすごい自己嫌悪と焦燥で死にそうになった。
今日もまた、俺はお前の男子高校生らしい話を聞き流す。お前が嬉々として語る隣のクラスの可愛い女子より、頬を紅潮させて興奮した様子で話すお前を可愛いと思ってしまった。友人数名とお前が、所謂恋バナをしているのが耳に入る。俺はクールを気取ってスマホに視線を落とすが、その画面には何も映っちゃいない。
もし、俺が、あるいはお前が、可愛くて華奢で、いい匂いがして柔らかい女の子だったら。俺は、「普通」の仲間入りができたのかもしれないのに。
ありもしない空想を思い描きながら、俺はまた間違いを恐れて何も言えなかった。
テーマ:仲間になれなくて
君は晴れ男だった。君が参加する行事はいつも晴れていて、空は一片の雲さえ見当たらなかった。それに、いつも皆の中心にいて、側にいる人を皆照らす、本当に、太陽みたいな人だった。
僕はその反対で、誰より酷い雨男だった。遊びに誘われても、僕がいるといつも雨だからいつからか誘われなくなった。話すのも下手だから、僕に話しかけてくれるのなんて本当に君くらいだった。雨さえ照らせるほどの光を持ったのは、太陽だけだったんだ。
だから、皆錯覚していた。太陽はいつまでもそこにあって、いつまでも温かく、優しく僕らを照らしてくれると。僕は知らなかった。太陽が時に、この身を焦がすほどの熱でもって呪うことを。太陽には、近付きすぎちゃいけなかったんだ。
そのことに気が付いたのは、君が居なくなってからだった。あれだけ明るかった君が、僕の頭くらいの壺に収まってしまった。いつもカラフルな色に囲まれていた君に似合わない、白と黒がその場に広がっていた。僕は、君が居なきゃダメなんだ。
君の葬式は雨だった。晴れ男だった君は、死んだら効力を失うらしい。雨男の僕が参加したせいか、晴れ男の君が死んだことを天が悲しんだのか、先が霞んで前も見えないくらいの大雨だった。
太陽が滅んでしまってから、僕は仄かに残った熱で酷く焼かれた。君が綺麗に埋めてくれた穴の中身が全部焼け落ちて、その灰さえ残さず風がさらっていってしまった。僕には何が遺されていたのか、もう分からない。
あれだけ眩しかった君を失っても、皆はすぐに立ち直った。他に埋めてくれるものがあったから。でも、僕は違った。君の遺した熱が冷めてしまわないように守りたいのに、僕が降り続かせる雨はそれを許さない。僕が生命活動を続ける限り、君は僕の中から失われていく。そんなの、許せないじゃないか。
月は太陽に照らされて、ようやくその姿を見せられる。でも、その光は永遠じゃない。間に別の邪魔者が入って、その温かな光を遮ってしまう。非力で無力でどうしようもない月は、太陽に焦がれながら邪魔者の陰に食われるしかない。けれど、それだけじゃ嫌だった。
晴れだけじゃ田畑は乾ききって枯れてしまう。けれど、雨だけでは川も海も暴れ狂って、他の全てを飲み込んでしまう。僕と君は、どちらか一方が欠けたら終わりだったんだ。
だから、僕は君に逢いに行くことにした。
テーマ:雨と君
トントンと紙の端を軽く机で揃え、教卓に置いておく。教師としてこの学校に来て、早半年が過ぎた。元々この学校の出身だった俺は、ここに赴任が決まった時、正直面倒だと感じた。
市内でも群を抜いて治安が悪いと有名な地区の、偏差値もあまり高くないような学校だ。当然、内部は荒れに荒れていた。そこら中で不良の集団が屯し、辺りを見渡せば一組は喧嘩中のヤンキーが目に入る。当たり前のように授業は授業とも呼べないような物に成り下がり、教師の地位は奴隷なんかと同等だと思えるほど低い。強ければ偉い、弱者は踏み躙られて当然。そんな学校だった。
学生時代、俺は例に漏れず荒れていた。毎日喧嘩やら恐喝に浸り、気に入らなければ殴って捻じ伏せた。授業なんてろくに聞いてもいなかったし、ノートなんて買った記憶すら無い。
そんな俺が教師になって戻って来るなんて、あの頃は考えもしなかった。この学校に配属された当初、俺はやはり教師としての洗礼を受けた。教室に入ろうとした瞬間かけられた水に、教室を埋め尽くした笑い声。ああ、戻って来たんだ、とそこで初めて心底実感した。
けれど、不良というのは案外扱いやすいものだった。良くも悪くも、馬鹿で暴力が好きな彼らは単純なのだ。少しだけそれっぽいことを言って、仲間意識を植え付ける。それだけで、彼らは俺の授業を熱心に受けるようになった。国語の授業としては失格なくらい汚い言葉で教えたが、元々この学校に居た俺にはそれが合っていたらしい。丁寧に教えるよりも、ずっと分かりやすく教えられた自信がある。
放課後、誰も居なくなった教室。俺が来た当初は荒みきり、スプレーの落書きとゴミが散乱していた床は、今や古びてはいるが清潔感を保っている。ひび割れて穴が開いていた壁も、生徒達に少し言えば自分から直すようになった。誰もいないのに、この教室には生徒達の息吹が溢れている。
ロッカーには一人一人の性格がよく表れていて、今ではもう見るだけでなんとなく誰のロッカーか分かるようになった。夜の学校は寂しいはずなのに、この教室があまりにも彼ららしくて、俺は寂しさを感じる暇さえありそうになかった。
テーマ:誰もいない教室
空は晴れ渡り、少し色付き始めた木々の葉は、それでもまだ青さを保っている。視界に広がった、まるで宇宙から見下ろした地球そのもののような色。雀の鳴き声が飛び交う中、この頃下がってきた気温を感じさせる秋風に吹かれながら、僕は玄関に鍵をかけた。行き先は駅だ。そんなに本数の多い路線ではないから、少し早めに家を出る。
無事電車に乗り、目当ての駅で降りる。昨日まで降り続いていた雨が止んだらしい、なんだか空気もいつもより澄んでいるような気がした。未だ乾かない水溜まりに空が反射して、道の向こうの海と繋がって見える。自分まで海の中心にいるような一面に広がった青。そのせいで深海へ沈んでいくような錯覚を覚えながら、僕は見慣れた田舎道を進んでいった。気分は晴れ晴れとしていて、心なしか体も軽い気がする。普段より少しだけ速く、目の前の坂を駆け下りた。
自分の真横に広がる山々の木が、今日はやけに喧しい。風に吹かれて、ざあざあと揺らぐ音がした。視界に広がっていた緑色の草むらは、段々と田園風景へと変化していく。
頭を垂れ、軽やかな鈴の音のような音を立てて稲穂が揺らめいている。黄金色に染まった田んぼは、先ほどまでの晩夏の残る風景を塗り替えて秋の訪れを僕に報せた。
この辺りは気温が下がるのも早かったようで、もうすっかり秋景色だ。黄色に色付いた銀杏は、今朝僕が見たものよりずっと鮮やかだった。小さな子どもが2人並んだデザインが描かれた標識も、古びてしまって銀杏の黄色にかき消されてしまいそうだ。あまりにも綺麗で、僕は歩く速度を少し落として見惚れてしまった。
ふと、桜の大木が目に入る。そろそろ目当ての場所に着く合図だ。桜の葉は紅葉して真っ赤になっていた。葉が散る寸前のこの色は、儚くも美しい桜の花を思わせる。丁度春にこの桜を一緒に見た幼馴染に久しぶりに会えるのだ。僕の気分は上々で、桜の葉と同じくらい、僕の頬も紅潮していた。
ちらちらと、視界に人工的な赤色が混じる。至る所に、真っ赤なカラーコーンが置かれていた。普段はあまり見かけないような、新品に近いそれは、周囲の自然らしい少しくすんだ色とは違って、本能が危険だと訴えるような色をしていた。
目当ての場所、幼馴染のアイツの家。普段ならば、植えられた松の木の落ち着いた緑色が迎えてくれる玄関。しかし、今日はいつもと違っていた。いつの間にか切ってしまったらしい、松の木は見当たらない。代わりに目に飛び込んできたのは、立ち入り禁止の黄色いテープと、赤く明滅するパトライト。頭が真っ白になった。
開いたドアの隙間から、アイツが僕を見ていた。見開かれた目に生気は無くて、その目は濁りきっている。見慣れた玄関には、何か、真っ赤な液体が広がっていた。
その赤に縫い付けられたように、僕の身体は動かなくなる。顔から血の気が引いて、顔が真っ青になるのを、どこか客観的に、ぼんやりと感じていた。
テーマ:信号