人間とは強欲なものである。初めは遠くから眺めるだけで満足していたものが、次第に近くで見たくなり、触れたくなり、手に入れたくなる。俺はそんな人間には絶対になりたくなかった。
小さく時からそうだった。どんなに好きでも、どんなに欲しくても、押し殺して遠巻きに眺めて満足したフリをしていた。欲が無いなんて言われもしたが、あるものを必死に見ないようにしているだけだった。それでも、なんとか押し殺せていたんだ。物をねだらない、迷惑もかけない、皆が思い描くいい子になれた。その事実に、温い快楽を得ていた。だけど。そんな生温い快楽を一瞬で塗り替えるような、全てを塗り潰す圧倒的な光に、出会ってしまった。
人生でここまで何かを欲したのは初めてだった。「喉から手が出る」という慣用句の意味を、俺はこの日初めて心の底から理解した。網膜を焼かれ、心臓を丸裸にされて鷲掴みにされるような感覚。自分さえ知らなかった自分が、一瞬にして暴かれるその快楽は、周囲を灼熱とさえ錯覚させるような強烈なものだった。
もっと見たい。手に入れたい。何としてでも欲しい。
体中の全細胞がそう訴えかけてくるようだ。あれはきっと、欲望なんて言葉では足らない。もっと本能的で、もっと醜い何かだ。俺は認めたくなかった。そんな感情が自分の中に芽生えたことを。芽生えるだけで飽き足らず、育った蔓が心根に絡み付いていたことも。
それは、進級してクラスが変わった初日のことだった。いつも通り、ありきたりなテンプレに沿って行われる30人分の自己紹介。その程度に思っていた。だが、それはある一人の自己紹介で全て覆った。控えめな音を立てて席から立ち上がったのを見た瞬間、俺は体中の血液が沸騰したかのように感じた。世界から音が無くなって、その人の声しか聞こえなくなる。テンプレから外れるわけでもない、至って普通の自己紹介。それでも、すらりと長く細い手足が、伏し目がちな切れ長の目が、薄く赤い唇から紡がれる少し掠れた声が、俺の視線を縫い留めた。話してみたい、自然と、そう思っていた。その目で、声で、俺の存在を認めてほしい。ある種の承認欲求が堰を切ったように溢れて止まらない。
自己紹介が終わってすぐ、俺はそいつの席に近付いて行った。頭はずっと、これまで押し殺してきたものを溢れさせまいと警鐘を鳴らし続けている。けれど、心も体も、もう止まってはくれなかった。あと一歩、もう一歩だけ。
神に触れてしまったら、神罰でこの身を焼き尽くされるかもしれない。でも、もうそれでも良かった。この光に焼き尽くされるならば、それでももういいか、と本気で思ってしまった。
テーマ:もう一歩だけ、
がたん。がたん。一定のリズムを刻む電車内で、僕は隅の席に座って半透明な壁にもたれかかる。平日の真っ昼間だからなのか、はたまた田舎だからか、車内には数名のお年寄りが居るだけでがらんとしている。制服を着て、自転車に乗って。いつも通り、学校へ行こうとした。僕は通学に電車は使わないから、いつも駅は近道として通り抜けるだけ。今日だって、いつものように素通りしようとした。けれど、チカチカと光る電光掲示板がやけに気になって目についた。行き先はうっすら聞いたことがあるくらいの街で、乗口は3番ホーム。今から切符を買えば、余裕を持って乗れるだろう。僕は、吸い込まれるように自転車を駐輪場に停めた。
駅は通勤通学の社会人やら学生やらで混み合っていたが、僕の乗る電車はそのラッシュより少し遅いようで、ホームはほとんど誰も居なかった。勢いで切符まで買ってしまったが、何がしたいのか自分でもまだ分からない。ただ学校がサボりたいだけかもしれないし、その街に強く惹かれる何かがあったのかもしれない。どうせ学校はもう遅刻だ。無断欠席になるだろうが、もう知ったこっちゃない。半ば自暴自棄で、到着した電車に乗り込んだ。
電車に揺られて4,5駅進んだ。終点に着いて、電車を降りる。駅を出ると、当然そこは知らない景色が広がっていた。駅周辺から少し外れて、シャッター街になった商店街を歩く。制服のままの自分は、なんとなく除け者にされているような感じがした。あてもなく彷徨って、昔からありそうな古びたスーパーに入った。ローカルスーパーなのだろう、中には数名の老人と主婦らしき女性が数名居た。制服を着た学生がこんな時間にスーパーに居るのは確かに異質だろう。ちらちらと視線を感じる。適当に歩いて、お菓子コーナーを覗いた。おばあちゃんの家にあるようなお菓子が並んでいて、その横に幼児向けのお菓子が並んでいる。その中間である僕らが好むようなものは少なかった。
結局、初めて見た謎のジュース一本を買って店を出る。飲んでも何味かよく分からないそれを持って、気の向くままに散歩を続ける。ふと、鼻先を食欲をそそる匂いが掠めていった。釣られるように歩いていくと、肉屋があった。本当に、アニメでしか見ないような昔ながらの肉屋だ。テンプレ通り、コロッケが売っていた。うっすら憧れていた状況に、対して空腹でもないが買ってしまう。一口齧ると、美味しすぎない絶妙な美味しさが口内を満たした。
帰ってから親にしこたま叱られたし、翌日は学校でも叱られた。でも、僕は満足だった。見知らぬあの街のあの光景は、学校でも家でも満たせない何かを、確実に満たしてくれたのだから。
テーマ:見知らぬ街
『もういいかい』
携帯から鳴り響く幼い子どもの声から逃れようと、俺は必死に電源ボタンを長押しし続ける。しかし、電源は落ちないし、通話画面から戻ることさえできない。こんなことになるのなら、あんな馬鹿な真似しなきゃよかった。俺は、決して触れてはいけなかったものに触れてしまった。遠雷と一緒に、遠くから恐怖が迫り来ている。
大学生になって約半年。キャンパスライフが板に付いてきた俺は、毎日のように行われるサークルの飲み会に参加するのがマイブームだった。酒に弱い方でもないし、友人と参加したサークルは皆が陽気で毎日が楽しかった。飲み屋街を歩き回って、適当な店で飲む。くだらない話をして、夜中になって家に帰る。典型的な堕落した大学生活だろう。
その日も、いつも通り飲んでいた。その日飲んだ店は少し変わった店で、お化け屋敷をテーマにした居酒屋らしい。薄暗い店内に、どこか不気味な装飾品。メニューのフォントもおどろおどろしいものになっている。雰囲気のある店にアルコールの力も加わって、俺らのテンションはおかしくなっていった。程よく酔いが回った頃。サークル長が、せっかくだし肝試しにでも行こうと言い出した。山沿いの店だったので、全員がスマホのライトで足元を照らしながら山道を進んでいく。真夏だというのに少し冷えたような空気が、不気味さをより強調していた。
しかし、そこでは拍子抜けするくらい何も起こらなかった。なんなら、近所の子供たちが作ったらしい秘密基地まで見つかる。微笑ましい光景に、俺らもなんだか少年心がくすぐられた。気付けば、子どもの頃に戻ったように遊んでいた。鬼ごっこをして、それからかくれんぼをしようということになった。ジャンケンで負けた俺が鬼になって、目を瞑って数を数える。普段なら、夜の山でかくれんぼなんて恐ろしいことできっこない。でも、酒の力は強力だった。俺が数を数え終わり、サークルのメンバーを探す。ふと、茂みが揺れたのが視界の端に見えた。
「見つけた!」
何の躊躇もしないで覗き込むと、そこに居たのはサークルのメンバーではない、小さな女の子だった。時刻はもう真夜中といっていい。不自然には思ったが、なぜか不気味には思わなかった。迷子か?とその子の手を引き、他のメンバーを見つけて事情を説明し、さっさと街へ下りる。女の子の手は、やけにひやりとして冷たいのが心地よかった。メンバーと別れ、女の子を交番へ連れて行こうとした時にはもう、その子は俺の後ろには居なかった。
狂ったように鳴り響く携帯のコール音と、クスクスとずっと聞こえるあの女の子の笑い声。本来なら電話番号なり登録した名前が表示される欄に書かれた文字は、「もういいかい」。俺はそこで、もう選択肢なんて無かったことを悟った。震える手で、通話に応答する。
一瞬の沈黙の後、鳴り響いた轟音の遠雷が、女の子の声と重なって聞こえた。
『みいつけた!』
テーマ:遠雷
現在時刻は午前3時。丑三つ刻とも称されるこの時間帯が、僕は苦手だった。なんとなく一番幽霊なんかが出やすそうだし、何より暗い。日が完全に沈みきって、昇るまでにもまだ時間がある。太陽と縁が遠い時間。そんな時間が、苦手だ。でも僕は、どうしても外に出なければいけなかった。いつもなら、こんな時間に外に出ようなんて思わない。でも、今日は違う。彼と約束してしまった。
『じゃあ、明日の午前3時。3時に、あの山に居るから。』
約束とも言えないような気もするが、そんなことはどうだっていい。息を切らして、心臓を弾ませて、僕は山まで走った。夜の山は真っ暗で、懐中電灯の灯りを消すと、自分が目を開けているのか閉じているのかも分からなくなりそうだ。辛うじて、街に灯る残業の光だけが、それを区別させる。少し先を見ると、懐中電灯の光さえ届かない暗闇が広がっている。こんな所まで来て、今更不安が脳裏を過ぎった。あんな、口約束にも満たないような発言。彼は冗談のつもりだったのでは?ここに彼は居ないのでは?そう思うと、足は止まりそうになった。でも、そんな自分を必死に繋ぎ止めて、僕はひたすら山道を進んでいく。藁人形でも打ち付けられていそうな木々を見ないように、ずっと前だけを見続ける。そうやって無心で登り続けていると、視界に頂上を示す石碑と立札が見えた。辺りを見渡すが、暗さも相まって彼の姿は見えない。しばらく、頂上を彷徨っていた。
「こっち。」
ふと、声がした。声の方に明かりを向けても、誰も居ない。彼を探して、声がした方向にひたすら歩いていった。
その刹那。閃光が、僕の目を焼いた。夜空を切り裂くように現れた、尾を引きながら青白く輝く何か。炎のように見えたそれに、僕はしばらく惚けていた。
その光を逆光に、彼が立っている。暗い紺色の着物に、青い羽織。穏やかに、しかしいたずらっぽく笑うその顔の真上には、小さく震える狐の耳が並んでいる。
狐火。それは、狐が操るという妖の灯。このひとは、間違いなく僕の太陽だった。本物の太陽にも成り変われるのだ。ちっぽけな人間一人の太陽になるくらい、どうってこともないだろう。
僕はこの日、初めて知った。暗く真っ黒な夜空でも、その色の本質は変わっていないことを。
テーマ:Midnight Blue
暖かな日差しが差し込む屋上で、俺は何をする訳でもなく寝そべっている。本来、今は授業中。つまりサボりである。こんなに暖かい外がいけない、なんて責任転嫁しながら、俺はひたすらに惰眠を謳歌していた。一人だけのだだっ広い空間というのは案外落ち着くもので、田舎特有のキジバトの鳴き声をBGMに俺は眠りに就こうとしていた。
そんな心地よい静寂を切り裂く者が1名、屋上へ飛び込んできた。勢いよく開け放たれたドアに驚いて体を起こした俺と、彼の目が合う。数秒の沈黙の後、彼が口を開いた。
「……ここで猫見なかった?」
「は?」
思わず冷たい返事が出てしまった。だって、意味が分からない。とりあえず、猫は見なかったことを伝えた。彼はしばらくがっかりした様子だったが、数分もすれば持ち直したようだ。無遠慮に俺の横に座って、返事もしない俺にひたすら話しかけてくる。コイツから逃げたであろう猫の気分がよくわかった。キャンキャンとよく吠える子犬みたいな奴だ。無愛想で話下手、オマケに不良と恐れられる俺に、ここまでズカズカと近付いてきたのはコイツが初めてだ。ふと、遠くから誰かの怒鳴り声が聞こえる
「……お前、もしかしてここ来るまでに先生に見つかった?」
俺がそう聞くと、彼は全く悪びれもせずに頷く。つまり、この怒鳴り声は先生のものだろう。今は授業中で、ここは本来立ち入り禁止の屋上。ダブルアウトだ。どうするか、隠れる?そんなことを考えていたら、突然手首を掴まれた。
「よし、逃げよう!」
待て、なんて言う間もなく俺は彼に引っ張られ、屋上へ繋がる階段を飛び降りるように駆け下る。そのまま校内を走り回りながら、物思いに耽っていた。素行不良に頭一つ飛び抜けた身長、そのせいで怖がられ、俺の周りにはいつも人が居なかった。そんな俺の手を、コイツは迷わず取りやがった。そう思うと、破かれた屋上の立ち入り禁止の張り紙も、背後から聞こえる先生の怒鳴り声も、手首に伝わる子ども体温も、全てが喜劇のように見えてきて。
もう一階下ろうと階段を何段も飛ばして駆け下りながら、気付いたら大笑いして彼の手を掴み返していた。
テーマ:君と飛び立つ