カラカラと、人気の少ない道で自転車を押しながら進んでいく。時折すれ違う、犬を連れた年寄りを見て、太陽で熱されたアスファルトが犬の肉球を焼いてしまわないか心配する。老人が角を曲がったのを確認してから、自転車を停め地面に手で触れてみる。熱い。家事もろくにしない俺の手では、5秒が限界だった。本当にあの犬は大丈夫だろうか。自転車をまた押しながら、犬の心配ばかりしていた。あまりに強い日光に、街中全てが霞んで見える。屋根瓦の近くは揺らいで見えて、真夏の暑さを目からも感じてしまった。
あまりの暑さに耐えきれなくなって、少し休憩することにした。丁度近くに神社があったので、日陰を求めて俺は鳥居をくぐった。さすがに罰当たりかと思って、自転車は鳥居のすぐそばに停めておいた。境内はアスファルトで覆われた地面も、真上から照り付ける太陽も無い。青々とした木々が心地よい木陰を作り、地面にはひやりとした玉砂利が敷かれている。なんとなく現世から切り離されたように感じる光景は、火照った体を冷ますには十分だった。
ふと、本殿の横の人影に気付いた。俺より随分小さくて、しゃがみ込んでいるような人影。近付いてみると、まだ小学校低学年くらいだろうか、丸い頬にぷっくりとした手、体の割に大きな頭。可愛らしい男の子だった。周辺に親も見当たらなかったので、迷子かと思って声をかける。
「君、一人?お父さんとかお母さんは?」
俺が話しかけても、男の子は首を傾げるばかりで何も話さない。俺が反応に困っていると、男の子が俺の手を引いてどこかへ向かっている。どこへ行くのか尋ねるが、当然のように返事は無い。されるがままに着いていくと、本殿の裏手、竹林の中でようやく男の子が止まった。
「お兄ちゃん、僕と遊んでよ。」
突然男の子が話すので、俺は面食らってしまった。普通に話せるじゃないか、とか色々言いたいことはあったが、部活も入っていない俺はどうせ暇だし、と付き合うことにした。
鬼ごっこやらかくれんぼをしていると、次第に日が落ちてくる。さすがに俺も帰らないとまずいと思い、男の子にそれを伝えた。男の子はしばらく駄々をこねて俺を引き止めようとしたが、また来ると約束するとようやく納得してくれた。
男の子に別れを告げ境内から出ると、辺りはとっぷりと日が暮れて夜だった。スマホで時間を見ようとして、俺は目を見開く。俺が神社に入ってから、2日が経っていた。雨が降ったのか、地面はしっとりと濡れていて冷えている。呆然としている俺の目の前を、散歩中の犬が横切った。もう、肉球を火傷する心配はないだろう。我に返って境内を振り返ると、男の子が笑っていた気がした。遠くで、パトカーの赤いランプと俺の名前を叫ぶ親父の声がする。「またね」と脳内に響いた男の子の声は、晩夏の鈴虫の声と重なって俺の脳裏に焼き付いた。
テーマ:きっと忘れない
「ねぇ、なんで泣いてんの?」
それが、僕達の出会いだった。小学校低学年の頃、いじめられて中庭の隅で泣いていた僕に、君が声をかけてくれた。ぶっきらぼうだし、今思えば無神経な一言。いじめられるのが悲しくて、辛くて泣いていると答えたら、君はしばらく何かを考えてから、「待ってて」とだけ言ってどこかへ行ってしまった。君がいじめっ子達を殴って問題になったと知ったのは、その翌日だった。君は先生にも親にも、いじめっ子達の親にも酷く叱られていたのに、僕に向けてピースしながら笑っていた。
中学生になっても、僕達は一緒に居た。僕はいじめられなくなったし、君は不良として名を馳せるようになった。それでも、僕と一緒に居る時だけは笑ってくれるから、僕は君の側に居た。こんな時間が、ずっと続けばいいと思った。
でも、それは突然崩れてしまった。しゃぼん玉が割れるみたいに、ある日突然無くなってしまった。君は信号無視の車に轢かれて死んだ。正直葬式の記憶は曖昧で、よく覚えていない。唯一覚えているのは、遺影の君は無愛想な真顔のままで、あの笑顔は本当にもう見られないんだと思ったら涙が溢れて止まらなかったことくらいだ。
僕はもう君の年齢をとうに追い越して、今は子どもが一人いる。妻は君を失って地の底に居た僕に手を差し伸べてくれた人で、君みたいに優しかった。妻と子育てをしていると、忙しくて君を失った悲しみから目を背けることができた。君の死と向き合いたくなくて、それだけのために僕は子どもに尽くした。子ども想いのいい親だと言われた事もあるが、僕はそうは思えなかった。君を忘れるために都合良く子どもを利用した、酷い親だと思った。でも、子どもが大きくなってくると、手がかからなくなる。そうすると、君を思い出す余白ができてしまった。ふと君が居ない事実を突き付けられて、涙が溢れてきた。ある日、一度だけ子どもの前でそれが起こった。
「お父さん、なんで泣いてるの?」
子どもが言ったその一言に、僕は目を見開いた。いつかの君との出会いを、思い出した。僕はその日、初めて子どもに君の話をした。それで泣いてたの。という子どもの声に、それもあるけど、と付け加えた上で、僕は少し腫れた目で笑って答えた。
「ちゃんと話せて嬉しかったから。」
テーマ:なぜ泣くの?と聞かれたから
俺にとって、足音はいつも恐怖の対象でしかなかった。
階段を乱雑に上ってくる足音がすれば、酒に酔った父がまた激昂しているのではないかと怯える。静かに忍ぶような足音がすれば、幽鬼のように青白い顔をした母が、思い出したように俺の様子を見に来たのではないかと部屋の隅にうずくまる。足音はいつも、俺に閉塞感と不安感を与えるものでしかなかった。そのはずなのに。
息の詰まるような実家を飛び出るように、関西の高校に進学して一人暮らしを始めた。あの父親が学費を払ってくれる訳が無いし、母親はあんな様子ではまともに働くことなんてできないだろう。俺は学費を稼ぐためにバイトを掛け持ちし、放課後遊ぶ間もなく働いた。普通の人から見れば、不幸なのかもしれない。でも、あの実家で過ごすより、こうして働いてたくさんの人と話す方が俺はずっと幸せだった。そんな生活が変わったのが、今から丁度1年前。
激しく雨の降る日だった。バイト帰りの俺は、補導ギリギリの時間に家に向かっていた。彼は、その道端で死んだような目をして立っていた。疲れ切った顔色に、一縷の光さえ通さない澱んだ瞳。
「……傘、無いんですか。」
どうしてか、声をかけてしまった。社会に絶望したような顔で、傘も差さずに立ち尽くしているから。それが、俺達の出会い。実家から逃げた俺と、社会から逃げたかった彼の初対面だ。紆余曲折あって、俺は彼を傘に入れて家まで送っていくことになった。初めは俺が一方的に話していたが、家に着く頃には彼もポツポツと話してくれるようになっていた。誰がどう考えてもブラックな会社のこと、どうしようもなく腐り切った上司達のこと。聞けば聞くほど、彼が纏う影は暗く見えた。
彼の家に着いて、俺は呆然とした。古びたマンションの一室。ドアを開けた瞬間広がったのは、到底人が住めるとは思えないようなゴミ屋敷。あ、この人放っておいたら死ぬ。本気でそう感じた。それで、俺は彼を言い包めて彼の家に転がり込み、バイト終わりに家事をするようになった。彼は本来穏やかで柔和な性格のようで、年に数度休みが取れた日には、少しだけクマの薄れた顔で甘い物を買ってきてくれたりした。
彼に出会って、俺は初めて怖くない足音を知った。怒鳴りつけるような乱雑なものでも、何かを恐れるような忍んだものでもない。古いマンションの壁越しに聞こえる、少しふらついた革靴の足音。俺はきっと明日もバイト漬けの貧乏学生だし、彼は明日からもブラックな企業に勤め続ける。それでも俺達は、脆い足音の響くこのぬるま湯のような生活をやめたくないと、薄暗い室内で揺蕩っていた。
テーマ:足音
ざばり、ざばりと波が砂をさらっていく。白波がいくつもいくつも浜辺に打ち寄せては引いていく。そんな規則的な海のルーティンを、俺が蹴り上げる海水が乱していた。かき消されたそばから増える足跡に、向かってくる波を打ち消すように広がる水の波紋。俺の痕跡は、確かに波に逆らっていた。世界に取り残されたような異物感にため息を吐く。白い息は、潮風に混じって溶けていった。突き刺さるような冷たい海水で、足の感覚が奪われていく。爪先が痺れるように痛かったが、冷たさで麻痺してしまって今ではもうわからない。あの時は、ここはこんな風に寂しくて暗くて色の無い世界ではなかったはずなのに。
見渡す限りの青。ギラギラと照り付ける太陽を海が反射して散乱させる。水平線の向こうで育っていく入道雲に向かって飛んでいく海鳥たちは、鳴き声を残して空の彼方へ消えていった。クリーム色の砂浜に残るのは、2人分の足跡。瞬きをして目を開く。顔を上げた目の前に居たのは、間違い無く彼だった。記憶も残っていないような頃からずっと隣に居た俺の片割れ。人と話すのが苦手な俺と違って、彼は明るくて真っ直ぐで、誰にでも懐く犬のようだった。目の前の彼が、そのヒマワリのような笑みをこちらへ向けて手を差し出してくる。俺はその手を取ろうとして手を伸ばした。
その手が空を切って、俺は現実に戻ってきた。目の前に広がるのは、灰色の空とそれを映した白い海だけ。色の無いこの世界に、戻ってきてしまった。海から引き上がると、足は霜焼けで真っ赤になってしまっていた。このモノクロの世界にぽつんと広がった色は、異物のようにしか思えなかった。彼が居た海は、あんなにも色とりどりで眩しかったのに。俺の頬を伝う涙が、波の届かない砂浜に雫の跡を残していく。この跡を波がさらってくれれば、あの夏に囚われたまま止まってしまったお前の時が、動きそうな気がした。お前が居ないまま進んでしまった季節は、はらりと雪を舞わせてくる。世界は確実に進んでいるのに、あの夏死んだお前だけが、お前に照らされていた俺だけが、網膜の裏に焼き付いた青に囚われていた。
テーマ:終わらない夏
「俺さ、死んだら鳥になりたいな。」
ジワジワと蝉が鳴きわめく真夏、扇風機の風に吹かれたお前はそう言った。帰省した実家の縁側は、沈みゆく西陽に照らされて、茜色に染まっていた。居間に座る俺を振り向いて言ったお前の顔は、逆光になっていてよく見えない。笑っていたような気もするし、真剣な顔だった気もする。今となってはもう、確認のしようも無いが。
目の前で行われる読経が遠く聞こえる。俺は間違いなくここに居るのに、どこか他人事のように感じられる。飽きるほど見たお前の笑顔が、今はもう写真でしか見られないという事実が、信じられなかった。周りからは、見覚えのある大人達のすすり泣く声が聞こえる。普段は明朗快活なお前の父さんが泣いている姿を、俺は初めて見た。焼香の列に並び、自分の番が来る。手は機械のように焼香を挙げるのに、俺の意識は煙に燻されるお前の遺影を、ただ呆然と眺めていた。実感が湧かない。今だって、お前が俺の後ろに並んでいて、似合いもしないかしこまった喪服を着て俺に囁きかけてくる気がしてしまう。今後ろを向いたって、ハンカチを片手に添えた近所のおばさんしか居ないのは分かりきっているのに。
俺よりずっと身長が高かったお前が、今は俺の胸に収まってしまいそうな壺一つになってしまった。お前を見送り終わっても、横に居るお前の陽炎が俺の心を弄ぶ。街の至る所に残ったお前との時間の残影が、お前がもう居ない事実をかき消してしまいそうだ。お前の痕跡を辿って、意味も無く歩き続けて、やがて着いたのは海だった。夏になると、いつもここへ2人で来た。いつまでも子供っぽいお前は、来る度に靴と靴下を脱ぎ捨てて海に浸かり、俺目掛けて水を蹴り飛ばしてきた。今はもう、あの水しぶきは飛んでこない。あの時はあんなにうざったらしかったのに、飛んでこなくなると寂しくてたまらない。海水と同じ味をしたそれが頬を伝った時、カモメが鳴いた。初めは無視していたが、あまりに鳴くので音の根源を見上げる。見上げたカモメは、俺の真上をぐるぐると旋回しながら飛んでいた。珍しい光景に思わず涙が収まる。そうしたら、そいつは満足したように一声鳴いて海の向こうへ飛び去って行った。水平線に吸い込まれるように飛んでいく姿はどこか楽しそうで、お前のいつかのセリフが俺の脳裏を掠めていった。
テーマ:遠くの空へ