俺にとって、足音はいつも恐怖の対象でしかなかった。
階段を乱雑に上ってくる足音がすれば、酒に酔った父がまた激昂しているのではないかと怯える。静かに忍ぶような足音がすれば、幽鬼のように青白い顔をした母が、思い出したように俺の様子を見に来たのではないかと部屋の隅にうずくまる。足音はいつも、俺に閉塞感と不安感を与えるものでしかなかった。そのはずなのに。
息の詰まるような実家を飛び出るように、関西の高校に進学して一人暮らしを始めた。あの父親が学費を払ってくれる訳が無いし、母親はあんな様子ではまともに働くことなんてできないだろう。俺は学費を稼ぐためにバイトを掛け持ちし、放課後遊ぶ間もなく働いた。普通の人から見れば、不幸なのかもしれない。でも、あの実家で過ごすより、こうして働いてたくさんの人と話す方が俺はずっと幸せだった。そんな生活が変わったのが、今から丁度1年前。
激しく雨の降る日だった。バイト帰りの俺は、補導ギリギリの時間に家に向かっていた。彼は、その道端で死んだような目をして立っていた。疲れ切った顔色に、一縷の光さえ通さない澱んだ瞳。
「……傘、無いんですか。」
どうしてか、声をかけてしまった。社会に絶望したような顔で、傘も差さずに立ち尽くしているから。それが、俺達の出会い。実家から逃げた俺と、社会から逃げたかった彼の初対面だ。紆余曲折あって、俺は彼を傘に入れて家まで送っていくことになった。初めは俺が一方的に話していたが、家に着く頃には彼もポツポツと話してくれるようになっていた。誰がどう考えてもブラックな会社のこと、どうしようもなく腐り切った上司達のこと。聞けば聞くほど、彼が纏う影は暗く見えた。
彼の家に着いて、俺は呆然とした。古びたマンションの一室。ドアを開けた瞬間広がったのは、到底人が住めるとは思えないようなゴミ屋敷。あ、この人放っておいたら死ぬ。本気でそう感じた。それで、俺は彼を言い包めて彼の家に転がり込み、バイト終わりに家事をするようになった。彼は本来穏やかで柔和な性格のようで、年に数度休みが取れた日には、少しだけクマの薄れた顔で甘い物を買ってきてくれたりした。
彼に出会って、俺は初めて怖くない足音を知った。怒鳴りつけるような乱雑なものでも、何かを恐れるような忍んだものでもない。古いマンションの壁越しに聞こえる、少しふらついた革靴の足音。俺はきっと明日もバイト漬けの貧乏学生だし、彼は明日からもブラックな企業に勤め続ける。それでも俺達は、脆い足音の響くこのぬるま湯のような生活をやめたくないと、薄暗い室内で揺蕩っていた。
テーマ:足音
8/18/2025, 1:19:42 PM