ここは、どこだろう。
見慣れた通学路、曇ってろくに見えもしないカーブミラー。確かに毎日見ていた景色のはずなのに、何かがおかしい。
肉屋の横の路地裏。あったはずの鉢植えが無い。
八百屋の飼い猫。あいつは黒猫じゃなかったか?
小さな疑念が積み重なって、それは確かな確信に変わっていく。
俺の今居るこの世界は、俺が居るべき世界ではない。俺が今見ている街は、家は、部屋は、俺の物ではない。今まで信じていた世界に裏切られた俺の頭の中は、もうぐちゃぐちゃだった。意味がわからない。どうして?元の世界は?感情の濁流に飲まれ、俺は押し潰されそうになる。俺はいつからここに居た?いつ紛れ込んだ?ここでの生活は嘘だったのか?今の俺の正体は、何なんだ?疑心暗鬼になって、自分の存在の輪郭がぼやけていく。何もかもが信じられなくなって、もう何も見たくなくて、目を瞑った。
それから、どうやって家に帰ったのか、覚えていない。気が付いたら布団の中に居て、気絶するように眠っていた。目が覚めたら、俺の覚えている世界に戻っているだろうか。僅かな期待を抱いて眠ったことだけを、明確に覚えていた。そんな期待は、朝起こしに来た母の顔の黒子に気付いた瞬間本当の意味で夢になってしまったが。
もう、感情がめちゃくちゃで収拾がつかない。今すぐにでも叫び出したいが、感嘆符程度ではこの感情をまとめられない。
脳内を満たしていく諦観と、ごく僅かな絶望が、俺をこの世界に縛り付けていることを、俺は知らなかった。
テーマ:!マークじゃ足りない感情
ぺらり、とページをめくる。僕の知らない君がまた増える。また1枚めくる。僕が見たことのない、幼い君が笑っている。背景に写る海も山も、学校も。僕は、見たこともない。僕が知っているのは、所詮高校生からの君だけだ。中学生の君も、小学生の君も、保育園児の君も、僕は知らない。今生きている君を作り上げた景色を知らない僕が腹立たしくて、アルバムを乱雑に閉じて君に返した。
「ん?ああ、見終わった?」
へらりと笑うその顔は、さっき見た写真のものと大差ない。きっと、君の本質は変わっていないのだろう。
「……うん。ありがと。」
笑って返事を返す。笑顔は引きつっていなかっただろうか。幼い君も、今の君も。なんなら、未来の君さえも、僕のものにしてしまいたい。思考に暗雲が立ち込め始めた辺りで、僕は無理矢理考えるのをやめた。ベッドの上で、上機嫌に鼻歌を歌いながら漫画を読んでいる君を見上げる。雲の絶え間から差す日光が眩しくて、目を細めた。
過去の君は、もう絶対に手に入ることはない。でも、今の君は、未来の君は、手に入れることができる。君が見てきた景色をなぞりたい。君の横で同じ景色が見たい。君が見る景色を作りたい。欲深い僕は、僕の知らない過去の分、君の未来を欲しがってしまう。高校を卒業しても、大学生になっても、社会に出ても。僕は、眩しい君の影として、ずっと横で見ていたい。
雲はやがて厚くなり、絶え間から差していた陽光も潰えてしまった。
テーマ:君が見た景色
息が詰まる。
頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱されて、思考回路が焼き切れていく。思い出の断片だったものが、刃となって心のやわらかい部分に突き刺さっていく。お前と笑い合ったこの口で、お前の顔を曇らせた。お前と肩を組み合った腕で、お前の体に傷を残した。俺とお前がした、初めての大喧嘩。お前の発言がどうしようもなく俺の癪に障って、強い言葉で言い返した。お互い、頭に来ていたんだと思う。一度溢れた怒りは、堰を切ったように止まらなくなってしまった。言い争いと呼ぶこともできないような、汚い言葉同士での罵り合い。散々言い合って、顔も見たくなくなって飛び出るようにお前の家を飛び出した。
家に着いて、しばらくは腸が煮えくり返るような怒りが俺を支配していた。親にお前のことを聞かれただけで腹が立って、つい怒鳴ってしまうくらいには。でも、夜になって一人暗闇に身を浸してしまうと、とてつもない後悔が俺を襲った。もう二度とお前は俺の名前を呼んでくれないのではないかと、怖くなった。物心ついた時から、気付いたら横にいたお前。そんな奴が、急にふと見えなくなったような不安感が高まって、体の芯から勝手に冷えていく。謝りたい、とも思ったが、謝った程度で許してもらえるのだろうか。もう、どうしてあんな喧嘩をしたのかも覚えていない。そんな状態で謝ったって、到底許されるとは思えない。俺はどうしても眠れなくて、呻き声をあげながら布団に包まった。ああ、この頭の中を、絡まった思考を、全て言葉にできたらどれだけ楽だっただろうか。「ごめん」の一言にこの思考の全てを詰められる気はしなくて、喉に透明な塊が詰まったように息ができなかった。
テーマ:言葉にできないもの
今年もまた、この季節がやってきた……
そう、花火である。お互いに腐れ縁と言い合う仲の幼馴染を横目に、手持ち花火をありったけ買い込んで帰路につく。なんだかんだ言って、コイツと過ごすこういう時間は嫌いじゃない。馬鹿で女好きの癖にモテない、どうしようもないタイプの人間だが、一緒に居て気が楽なのだ。俺の家に着いて、適当に靴を脱いで上がる。コイツがお邪魔しますの一言も無しに入ってくるのは、ここがコイツにとっての第二の家みたいなものだからなのだろうか。蒸し暑い外を歩いていた体に、エアコンが放つ冷たい風が染み渡る。汗のせいで濡れた体では、少し肌寒いくらいだ。
夜になるまで、グダグダと適当に時間を潰す。特別なことも、面白い話も何も無い。ただ隣に座って、お互いにスマホの画面だけを見ている。そんな距離感が、やけに心地良いのだ。面白かった動画を共有して、2、3言話す。そうやって時間を潰しているうちに、日は暮れた。俺達は暗くなった途端に外に出て、去年のロウソクの余りを引っ張り出して火を点ける。
色とりどりの花火は、男子高校生2人で遊ぶには少しはしゃぎすぎな気もしたが、そんなことは気にしない。俺達は男子高校生らしく、ススキ花火を両手に持って、危険だと分かりながらそれを振り回してしまうのだ。枯れ草を焼き払い、花火をお互い向けあって威嚇する。そんなことをしてゲラゲラ笑っていると、あれだけあった花火はあっという間に終わってしまった。最後はやっぱり、定番の線香花火で締めることにした。
ぱちぱちと火花が弾ける音をBGMに、またどうでもいい話をする。
「来年は彼女と花火するから!1人でやることになっても恨むなよ!」
去年も同じセリフを聞いた気はするが、知らないフリをしてやった。気が付いたらどちらが先に落とすか、なんて定番の勝負が始まっていて、俺達は線香花火を動かさないことに全力を注ぐ。ちらりと奴の顔を盗み見すると、ばちりと目が合った。考えることは同じだったようだ。妙にツボにハマって、2人して笑い出す。俺達の火が落ちるのは、ほとんど同時だった。どっちが先だったか言い争いながら、後片付けをする。ほんのり残った煙の匂いが、来年の夏にも漂っているような気がした。
テーマ:真夏の記憶
「あっっっつい!!」
体温をゆうに超える気温に、じっとりと纏わりつく湿度。そのどちらもが、俺の不快感を刺激してやまない。あまりの暑さに悲鳴を上げ、俺は買い食いを決行することにした。コンビニに入ると中はエアコンがよく効いていて、汗が引いていくのを感じる。若干寒いくらいの室内で、俺は目当ての棚まで一直線に歩いていった。今求めるものは、その冷たさと甘さで俺を癒してくれるアイスクリームただ一つだ。冷凍庫にぎっしりと詰められたアイスの中で、俺が選んだのは2人で分けることを想定されたアイス。味はホワイトソーダにした。誰かと分けて食べる訳ではない。2人分を1人で食べる、そこにロマンがあるのだ。
外に一歩踏み出した瞬間、俺の体を再び熱気が包む。湿度に日差しのダブルコンボで、さっき出たばかりだというのにもう店内の涼しさが恋しい。そそくさと店の裏の影に逃げ込み、アイスの包装を破った。くっついている2つを分け、1つを開ける。この暑さだと溶けるのも早いのか、少し吸い上げただけで簡単に中身は出てきた。ホワイトソーダの爽やかかつまろやかな甘みに癒されつつ、手持ち無沙汰で辺りを見渡す。蜃気楼でどこもかしこも揺らめいて見える中、ふと目の前を通った毛玉に気を取られた。
「あ、猫……」
その猫は相当頭が悪いらしく、さっきから何度も挑戦して、届かないと分かっている木の上の鳥を狙っている。ぴょんぴょんとその場で跳ねる猫が面白くて眺めていたら、いつの間にかアイスが溶けてしまっていたらしい。ぽたぽたと地面に溢れたアイスを見て、なんだか若干損した気分になった。俺もあの猫のことを馬鹿にできないくらいには頭が悪かったかもしれないな、と思いつつ、1つ目を食べ終わって2つ目を開けた。既に溶けたそれは開けた瞬間溢れて手を汚す。慌てて口に含むと、7割液体のアイスが口に流れ込んでくる。ほぼ飲み物となったそれを飲みながら地面に溢れたアイスに視線を落とすと、蟻がそこに寄ってきていた。一匹が寄ると、それ以外もどんどん寄ってくる。アイスの池は、いつの間にか蟻の補給所となっていた。こいつらの餌になったなら、俺が零したアイスも無駄にはならなかっただろう。そう思ってもまだ若干拭えない損した気分を抱えたまま、俺は食べ終わったアイスのゴミを捨てに涼しい店内に吸い込まれていった。
テーマ:こぼれたアイスクリーム