いつもお前はそうだった。どうしようもないくらいお人好しで、他人に甘い癖に自分に厳しい。そんなんじゃすぐ潰れるぞと何回言っても直らなくて、目が離せなかった。戦場では、優しさは弱さと同義だ。味方を庇おうと思えばその分隙になる、命を救おうとすればそこに付け込まれる。それが、戦場というものだ。誰が悪い訳でもない。そうしないと、生きていけないから。それでも、お前は優しかった。傷付いた味方を見捨てられなくて、お前は右目を失った。空腹で泣き喚く子供に食糧をみんなやってしまうから、お前はいつも空腹だった。なのに、お前は笑っていた。誰よりも幸せそうに、ここが戦場だと忘れてしまいそうなくらいに。無愛想で、血を浴びながら平然と立っているような俺に声をかけたのはお前くらいだった。お前のせいで、俺は冷酷になりきれなくなった。
戦況が悪化して、俺達は辟易していた。攻め込んでも倍の軍勢に押し戻され、一人、また一人と仲間が死んでいく。優しいお前はその度に泣いて、一人が死ぬ度に弱っていく。そんな優しいお前と居たから、俺まで弱くなってしまった。
腹を貫かれる痛みが、燃えるような熱さが、俺の頭を支配していく。弱りきった味方を庇って敵に撃たれるなんて、前の俺ならしなかった。
でも、お前だったから。弱りきって狙われたのがお前だったから、俺は庇った。お前の優しさで、俺は救われた。でも、優しいお前のせいで、俺は死ぬんだろう。だから、優しいお前の隣にいた冷酷な俺として、最期に最悪の置き土産をやろうと思って、お前を傷付けると分かっていて、それでも生きて欲しくて。俺は、お前の優しさを壊した。
「お前の優しさは、罪だったよ。」
テーマ:やさしさなんて
真っ暗な部屋の中、電子機器の眩い光だけが満ちている。俺はそんな中、目の前のモニターから放たれるブルーライトを真正面から浴びていた。俺が部屋に引きこもってから、そろそろ1年が経つ。母さんはもう諦めたようで、食事を部屋の前に置いていく時に掛けられる一言以外は声も聞いていない。高校入学初日、中学までの陰気な自分と決別したくて、わざわざ遠くの高校を選んだ。髪型も整えて、大丈夫だと何度も自分に言い聞かせて。でも、ダメだった。自己紹介、席を立った瞬間に自分に集まった視線に、息が詰まって声が出なかった。俺が長らく黙ったままだから、怪訝そうな視線が余計に突き刺さってきて。入学初日から、俺は自己紹介で黙りこくった挙げ句泣き出した奴になってしまった。翌日から学校に行きたくなくて、部屋から出ないようにした。窓もカーテンも閉め切って、家族とさえ顔を合わせないように生活した。いつの間にか昼夜は逆転していて、もう普通の生活はできないんだと悟ったとき、俺はまた息が詰まってベッドで震えていた。何かをしていないと、世間から後ろ指を差されている気がしてならなくて、大して興味も無かったネットゲームにのめり込んで。すぐ近くのはずの天井がぼやけて見えるのが、すっかり下がりきった視力のせいなのか、涙のせいなのかも分からないような生活を1年続けた。
ゲームをやる気力さえ失せてきて、俺はベッドに倒れ込んだ。部屋を照らしていた唯一の光が消えると、俺の思考もぐるぐると悪い方へ傾いていく。じわり、とまた涙が溢れそうになった時、ふと扉がノックされた。始めは母さんが夕飯でも持ってきたのかと思ったが、それにしては時間が早すぎる。仕方がないので、半分出し方も忘れかけたような声で返事をしてやると、返ってきたのは予想もしていなかった声。
「にゃあ!」
飼い猫の声だった。俺の居る2階には入ってこられないはずなのに、どうして。そう思いはするが、あまりにしつこいので少しだけ扉を開けてやる。普段なら絶対に開けないが、今日はどうしてか気が向いた。そいつは俺の部屋を我が物顔で徘徊し、当然のようにベッドに居座る。追い出してやろうかと考え始めた頃、猫はふと窓の方へ向かった。俺が止める間もなく、猫はカーテンにじゃれついて開け放つ。月明かりが部屋に差して、俺は眩しさに目を細めた。猫の暴走は止まらない。どこで知ったのやら、窓の鍵を開けだした。流石に俺も止めに入るが、猫が窓を開ける方が先だった。外の風が、光が、部屋に満ちていく。こんなにも簡単に俺の殻を破ったそいつは、月明かりに照らされて、若干腹の立つドヤ顔でこちらを見つめていた。
呆気に取られながら、1年振りの外を見つめる。いつの間にか、季節は夏になっていた。久しぶりに感じる暑さと生温い風も、今だけはどこか心地よかった。
テーマ:風を感じて
目の前に広がる、どこまでも青い水。視界を泳ぐ魚の群れに、ひらひらと漂うクラゲ達。水族館の大水槽のようなそこに、ただひたすら2人で沈んでいく。俺を見つめるお前の目は、何か恐ろしいものでも見るかのようで。ずっと連れ添ってきた片割れのそんな目が気に食わなくて、俺はその頭を押さえつけた。がぼ、と2人の口から泡が逃げ出しては上に浮いていく。酸欠なのか錯乱なのか、もう訳が分からないままふわふわとした感覚に身を任せる。
ふと、誰かに名前を呼ばれた気がして顔をそちらに少し向ける。違う、これは俺を呼んでいるんじゃない。誰かが彼を、呼んでいる。否、呼ぶなんて生優しいものじゃない。ほとんど絶叫に近いそれが妹のものだと気付くのに、そう時間はかからなかった。
ざばりと水から顔を上げる。相変わらず頭はふわふわしたままだ。ぼんやりと辺りを見渡すと、そこは家の風呂場だった。あの魚の群れも、クラゲ達もいない。ああ、あの水槽も、魚もクラゲも彼も、全部俺の夢だったのか。
荒い呼吸音に気を引かれ、ドアの方を見やる。妹は、顔を真っ青にして彼の名前を呼びながらへたり込んでいる。まただ、また、彼と同じ化け物でも見るような目でこっちを見てくる。どうしてそんな目で見てくるのか気になって、水から上がろうとした。足に伝わったのは、ステンレスの浴槽の床ではない、柔らかな感触。ぐに、と沈み込む感覚に顔を顰めて浴槽の中を見やる。瞬間、ぼんやりしていた思考と視界の霧が晴れた。血の気が引いていく。
彼の存在だけは、夢ではなかった。
テーマ:夢じゃない
やってしまった。
目の前に広がる惨状の原因が自分であることに、今更後悔と吐き気が込み上げてくる。右手に握ったナイフから、まだ生温かい体液が滴る。外は新月なのか真っ暗で、星がよく見える。窓から見える景色の綺麗さと、室内に立ち込める鉄臭い匂いがアンマッチで目眩がした。なんとか息を整え、後始末をしようと体の向きを変えた瞬間だった。
「…………え?」
目が、合ってしまった。いつも自分を導いてくれる、大切な幼馴染。今だけは、会いたくなかった。どうしてこんな時間に家に来たのか、見られてしまった、どうしよう、と様々な思考が頭を巡って言葉が出ない。1秒が1時間にも感じられる静寂を、彼が先に破った。
「……後処理、手伝うよ。」
一瞬、全ての思考が停止する。自分を導いてくれたはずの彼が、手伝う?何を?思わず彼の顔を見上げると、彼は笑っていた。夏休みの課題の手伝いを申し出るのと変わらない調子で、犯罪の片棒を担ごうとしている。ああ、でも。
「…………うん、お願い……」
いつも僕を導いてくれた、いつも正しかった彼が言うのなら。これはきっと、おかしなことではないのではないか。僕の手を引いてくれた温かい手が、命を失った肉の塊を解体する。僕の前を歩いてくれた足が、躊躇なく血溜まりを踏んでいく。2人がかりで始末をして、どうにか日が昇る前に大まかな掃除が終わった。解体したものは山に運んで、場所をずらして2人で埋めた。血で汚れた服を焼きながら、彼の横顔をぼんやりと眺める。彼が言うなら、間違いも正しいことになる。僕の心の羅針盤は、とっくに見当違いの方を指していた。
テーマ:心の羅針盤
「おにーいさん!」
ぴょこんと建物の影から顔を覗かせたのは、まだあどけなさの残る顔立ちをした高校生くらいの男の子。僕と初めて出会った時から、飽きもせずずっとここに通い続けている。
「うん、いらっしゃい。今日は何してたの?」
僕にとっての唯一の楽しみは、彼と話すこの時間だった。きっと学校帰りなのであろう夕方に立ち寄る彼と、他愛のない話をするひととき。僕は学校に通ったことがないから、そういう普通の日常の話は面白くてたまらない。大して面白くもない僕の話も楽しそうに聞いてくれる彼の存在は、眩しくてたまらなかった。見晴らしのいい、僕の住処の裏手側で話し込んでいるうちに、日が暮れてしまう。
「おや、もう日が落ちてきたねぇ。もう帰りなさい。」
僕がそう言うと、彼は不機嫌そうに唇を尖らせてぼやく。
「帰ったら課題しなきゃいけないし、もう俺ずっとここに居たい!」
ああ、困ったな。そんなことを言われると、本当に帰したくなくなってしまう。しかし、過去に気に入った子を帰さなかったら、「神隠しだ」と恐れられてしまった。だからそんな仄暗い感情を押し殺して、努めて優しく、困ったように微笑んだ。
「ダメだよ、ちゃんと帰らないと。親御さんも心配するよ?」
そう言われて、彼は渋々と鞄を持って出口へ向かう。そこに着くまでの道中で話をすれば、彼もすっかりご機嫌になったようだ。
「またね!」
そう言って無邪気に笑いながら、彼が鳥居をくぐって出ていく。僕はここから出られないけれど、明日の黄昏時、彼はきっとまた来てくれるから。
「……うん、またね。」
僕も穏やかに微笑んで、君を見送ることができるんだ。
テーマ:またね