ジリジリと照りつける太陽の下、俺達は一面の青に魅入られていた。
「海だー!!」
俺が真っ先に海へ駆け出すのを、呆れたように彼が見つめる。ぶつぶつと文句を言ってはいるが、どこか楽しそうな空気を纏っている。焼けるような熱さの砂に思わず悲鳴をあげると、彼はクスクスと控えめに笑う。その顔に一瞬見とれてしまったせいで、また砂に足を焼かれてしまった。学校帰り、思いつきで来てしまったので、着替えも何も持っていない。制服のスラックスの裾を捲り、靴と靴下を脱いで海に浸かる。ひやりとした感触が心地いい。
「……なんか、フラれたのどうでもよくなってきたわ……」
彼がそんなことを呟いた。そう、今日は好きな人に告白して見事に玉砕した彼を慰めるために海に来ていたのだ。
「でしょ?やっぱ海来たの正解だったじゃん!」
いつも通りを心がけて軽口を叩く。彼が少しでも元気になるように。でも、彼は露骨に気遣われるのを嫌がるから、極力普段通りに振る舞った。しばらく海を堪能してから、足を拭いて靴を履き直す。
「うわ、砂入ったかも……ジャリジャリする……」
不快感に顔を顰めると、たまらないといった様子で彼が笑った。珍しく、顔が赤くなるほど笑っている彼の顔をつい見つめてしまったのは仕方ないことだろう。海が夕焼けで赤く染まって、白波を立てて広がっている。ふつふつと沸き上がる泡に、幼い頃読んだ絵本の一節が蘇った。
『自分のからだがとけて、あわになっていくのがわかりました』
失恋した彼が、もしこの海に溶けて泡になってしまったら。
「……俺も泡になりたいなぁ。」
思わず声に出てしまった。彼が怪訝そうな顔でこちらを見ている。けれど、一度望んでしまったらもう、抑えることはできない。
「……なんで?」
「……いやぁ、泡になったら課題やらなくていいじゃん?」
咄嗟に並べた、普段通りの冗談。本当の理由なんて、彼にら知られたくない。呆れたように笑って、彼が砂浜から上がっていく。
泡同士ならきっと、くっついて一つになることもできるのだろう。それに、
「……お前が居ないとつまんないからな。」
独り言として呟いたそれが、あまりにも柄に合わなくて。
「……もー!置いてかないでよ!」
ゲラゲラ笑いながら、彼の背中を追いかけることにした。
テーマ:泡になりたい
8月半ば、ジメジメとした湿気と照りつける太陽が暑さをより一層強烈なものにしている。そんな中、俺はここに戻ってきていた。どこまでも続く田園風景。よくある田舎だ。
「暑……また気温上がったんかな?」
日陰も無いような場所に居る俺も悪いが、仕方ない。ここで待つしかないのだ。去年の同じ時期に会ったっきり、丸々一年会っていない幼馴染。彼に会うためだけに、わざわざこの暑い中待っているのだ。ぼんやりと発達していく入道雲を眺めていると、ふと玉砂利を踏む音がする。顔を向けると、案の定彼だった。この時期にここを訪れる人は多いが、彼の足音を聞き間違えるわけがない。
「……久しぶりだな。」
「おう、久しぶり!なんかまたデカくなった?」
俺が軽口を叩くが、無口な彼は返事もしてくれない。ジワジワと蝉が鳴く中、目の前に東京土産らしい小洒落た菓子が置かれる。真夏でも傷まないよう配慮してか、中身はクッキーのようだ。彼が黙って箱を開けると、綺麗に並べられた袋がいくつも目に入る。
「くれんの?サンキュ!」
色とりどりのクッキーから顔を上げ、彼と向き直る。小さい頃は俺の方が大きかった身長も、いつの間にか抜かされてしまった。
お盆の田舎。その空気は、線香の香りで満たされている。俺が物思いに耽っている間、何やら忙しなく動き回っていた彼がようやく止まる。
「……ここに帰ってきてもお前が居ないの、まだ実感沸かねぇよ。」
彼の視線は、俺を見ているようで見ていない。線香の煙が邪魔をして、俯いてしまった彼の顔はよく見えなかった。
一年ぶりに見た幼馴染の姿は、やっぱり前より大きくなっている。俺とお前の差は、広がるばかりで埋まりやしないんだろう。
「……俺を置いていくなよ……」
そのセリフだけは、誰のものなのか分からなくなってしまった。
テーマ:ただいま、夏。
エアコンの低いモーター音が、外から聞こえる蝉の声を掻き消す。他に聞こえるものといえば、時折響くページをめくる音くらいだ。
「……っあ゙ぁ!もう!終わんねぇよコレぇ……」
そんな静寂を、俺は構わず破った。8月も終わりに近付き、夏休みも終盤に差し掛かった頃。俺の目の前には、ほとんど白紙の提出課題が並んでいた。始めは余裕だろうと高を括っていたものの、いざ始めると、途方もないその量に心が折れそうだ。
「……うるさい。そこまで溜め込んだお前が悪い。」
「ひどい!ちょっとくらい手伝ってくれてもいいじゃん……」
鬼教官さながらの冷たさで追い込まれ、俺は泣く泣くペンを持ち直す。こういう時、冷徹な幼馴染は頼りになるのだ。俺がサボろうとすれば、端的かつ棘のある言葉で机に縛り付けてくる。
そんな風にして、ようやく終わりが見えてきた時。さすがに疲れた俺が泣き事を零す。
「うえぇ……もう文字なんて見たくもない……」
椅子から流れ落ちるようにして姿勢を崩した俺を、彼は横目でちらりと見た。これだけグダグダになっている俺を見ても、読書の手を止めやしない。仮にも幼馴染に対して、いくらなんでも冷たすぎるのではないだろうか。課題と向き合うのに飽きた俺がブツブツと文句を垂れ流し続けると、さすがに鬱陶しかったのだろう。彼は本に栞を挟んで、一瞬だけその視線を俺に向けた。
「……終わったらアイス奢ってやる。」
ぶっきらぼうに、窓の外なんかを眺めながら言われた一言。それでも、つれない幼馴染からの貴重な誘いだ。俺のやる気を引き出すには十分だった。
「……言ったな?……しゃーない、もうちょい頑張るかぁ……」
俺はぬるくなった炭酸飲料を飲み干し、椅子に座り直す。「……高いのは買わねぇからな。」
そんなことを呟く無口な彼の顔が、珍しく緩んでいた事には気が付かないフリをして。
テーマ:ぬるい炭酸と無口な君
「じゃあ、行ってくるね。」
そう言って僕は、この船に乗り込んで旅立った。どう考えたって無謀な話なのは分かっていた。でも、お前に語った夢を、どうしても叶えたくなってしまった。今、僕の前に広がっているのは、正しく地獄。分厚い雲に覆われ、時折雷が光る空。吹き付ける雨風に、荒れ狂う波。元より、こんな沖に出ることを想定されていない船が、沈まないはずがない。僕はきっと、これで死ぬのだろう。方向さえ分からずに流され続けたから、死体が見つかるかさえ分からない。それならいっそ、賭けに出てみようか。グラグラと不安定な船内で、僕は紙とペンを手に取った。激しく揺れる船内で綺麗な字なんて書けなかったが、それでもよかった。僕の想いを込められるだけ込めて、空気と一緒に瓶に詰める。バキ、と大きな音がして、船内に冷たい海水が流れ込んで来た。
「ああ……もうダメだろうなぁ……」
そう呟いて僕は、瓶を窓から放り投げた。どうか、この船と一緒に僕の体が沈んでも、この想いだけは届いてほしい。そんな願いを抱いて、僕は波にさらわれた。
*
朝、俺は起きて真っ先に砂浜を見に行った。あの日、無茶な旅に出たお前が帰ってきたんじゃないかと期待して。昨日の海は大荒れで、村の大人達さえ船を出さないほどの嵐だった。薄々と分かってはいた。きっともう、お前は海の底に居るんだろうと。なのに、見つけてしまった。普段なら絶対に気にかけない、ありふれた小瓶。今日はやけにそれが目について、つい拾い上げてしまった。きっともう死んでいるお前が唯一遺した、お前の生きた想い。
『もっと、お前と生きていたかった』
「……死ぬ前に言えよ……」
荒れた海で書いたのだろう。几帳面なお前の字とは思えないほど汚い字で、ひたすらに書き連ねられている。海水が染み込んで所々染みになっている手紙を、俺の頬を伝った塩水がさらに濡らしていく。普段ならお前が拭ってくれたのにな、なんて考えながら、俺は朝日の昇る海辺で泣き崩れた。
テーマ:波にさらわれた手紙
あれから一年が経った。お前が冷たくなって帰ってきてから、一年。街は、一年前と変わらない夏景色に変わっていた。色褪せた商店街の看板に、日陰に集まった野良猫たち。山の方から響く蝉の声も、溶けかけたアイスの味も、何一つとして変わらない。ただ、一つを除いては。学校でも、帰り道でも、何なら家に着いたって。隣の見晴らしが良すぎて落ち着かない。前はウザいとさえ思っていたあの温度が、今は恋しくてたまらない。
「……勝手に居なくなるなよ……」
部屋で一人、ベッドにうずくまる。お前が居なくなっても変わらず回り続ける季節が怖くて仕方ない。街中に散らばったお前の陽炎が目に付く度、隣の空虚さが胸を確実に引き裂いていく。お前と過ごした時間が長すぎたせいで、この街で俺だけが立ち直れない。あの光が潰えてしまった事実が、うずくまった俺の背に重くのしかかってきた。
「……一人に、しないで……」
ベッドに染みを作りながら絞り出した声は、鼻声な上に震えていて、みっともない。お前が聞いたら、笑い飛ばしてくれたのだろうか。
蝉が鳴いていた。あの夏に囚われて進めない俺を、嘲笑うかのように。
テーマ:8月、君に会いたい