現在時刻は午前3時。丑三つ刻とも称されるこの時間帯が、僕は苦手だった。なんとなく一番幽霊なんかが出やすそうだし、何より暗い。日が完全に沈みきって、昇るまでにもまだ時間がある。太陽と縁が遠い時間。そんな時間が、苦手だ。でも僕は、どうしても外に出なければいけなかった。いつもなら、こんな時間に外に出ようなんて思わない。でも、今日は違う。彼と約束してしまった。
『じゃあ、明日の午前3時。3時に、あの山に居るから。』
約束とも言えないような気もするが、そんなことはどうだっていい。息を切らして、心臓を弾ませて、僕は山まで走った。夜の山は真っ暗で、懐中電灯の灯りを消すと、自分が目を開けているのか閉じているのかも分からなくなりそうだ。辛うじて、街に灯る残業の光だけが、それを区別させる。少し先を見ると、懐中電灯の光さえ届かない暗闇が広がっている。こんな所まで来て、今更不安が脳裏を過ぎった。あんな、口約束にも満たないような発言。彼は冗談のつもりだったのでは?ここに彼は居ないのでは?そう思うと、足は止まりそうになった。でも、そんな自分を必死に繋ぎ止めて、僕はひたすら山道を進んでいく。藁人形でも打ち付けられていそうな木々を見ないように、ずっと前だけを見続ける。そうやって無心で登り続けていると、視界に頂上を示す石碑と立札が見えた。辺りを見渡すが、暗さも相まって彼の姿は見えない。しばらく、頂上を彷徨っていた。
「こっち。」
ふと、声がした。声の方に明かりを向けても、誰も居ない。彼を探して、声がした方向にひたすら歩いていった。
その刹那。閃光が、僕の目を焼いた。夜空を切り裂くように現れた、尾を引きながら青白く輝く何か。炎のように見えたそれに、僕はしばらく惚けていた。
その光を逆光に、彼が立っている。暗い紺色の着物に、青い羽織。穏やかに、しかしいたずらっぽく笑うその顔の真上には、小さく震える狐の耳が並んでいる。
狐火。それは、狐が操るという妖の灯。このひとは、間違いなく僕の太陽だった。本物の太陽にも成り変われるのだ。ちっぽけな人間一人の太陽になるくらい、どうってこともないだろう。
僕はこの日、初めて知った。暗く真っ黒な夜空でも、その色の本質は変わっていないことを。
テーマ:Midnight Blue
暖かな日差しが差し込む屋上で、俺は何をする訳でもなく寝そべっている。本来、今は授業中。つまりサボりである。こんなに暖かい外がいけない、なんて責任転嫁しながら、俺はひたすらに惰眠を謳歌していた。一人だけのだだっ広い空間というのは案外落ち着くもので、田舎特有のキジバトの鳴き声をBGMに俺は眠りに就こうとしていた。
そんな心地よい静寂を切り裂く者が1名、屋上へ飛び込んできた。勢いよく開け放たれたドアに驚いて体を起こした俺と、彼の目が合う。数秒の沈黙の後、彼が口を開いた。
「……ここで猫見なかった?」
「は?」
思わず冷たい返事が出てしまった。だって、意味が分からない。とりあえず、猫は見なかったことを伝えた。彼はしばらくがっかりした様子だったが、数分もすれば持ち直したようだ。無遠慮に俺の横に座って、返事もしない俺にひたすら話しかけてくる。コイツから逃げたであろう猫の気分がよくわかった。キャンキャンとよく吠える子犬みたいな奴だ。無愛想で話下手、オマケに不良と恐れられる俺に、ここまでズカズカと近付いてきたのはコイツが初めてだ。ふと、遠くから誰かの怒鳴り声が聞こえる
「……お前、もしかしてここ来るまでに先生に見つかった?」
俺がそう聞くと、彼は全く悪びれもせずに頷く。つまり、この怒鳴り声は先生のものだろう。今は授業中で、ここは本来立ち入り禁止の屋上。ダブルアウトだ。どうするか、隠れる?そんなことを考えていたら、突然手首を掴まれた。
「よし、逃げよう!」
待て、なんて言う間もなく俺は彼に引っ張られ、屋上へ繋がる階段を飛び降りるように駆け下る。そのまま校内を走り回りながら、物思いに耽っていた。素行不良に頭一つ飛び抜けた身長、そのせいで怖がられ、俺の周りにはいつも人が居なかった。そんな俺の手を、コイツは迷わず取りやがった。そう思うと、破かれた屋上の立ち入り禁止の張り紙も、背後から聞こえる先生の怒鳴り声も、手首に伝わる子ども体温も、全てが喜劇のように見えてきて。
もう一階下ろうと階段を何段も飛ばして駆け下りながら、気付いたら大笑いして彼の手を掴み返していた。
テーマ:君と飛び立つ
カラカラと、人気の少ない道で自転車を押しながら進んでいく。時折すれ違う、犬を連れた年寄りを見て、太陽で熱されたアスファルトが犬の肉球を焼いてしまわないか心配する。老人が角を曲がったのを確認してから、自転車を停め地面に手で触れてみる。熱い。家事もろくにしない俺の手では、5秒が限界だった。本当にあの犬は大丈夫だろうか。自転車をまた押しながら、犬の心配ばかりしていた。あまりに強い日光に、街中全てが霞んで見える。屋根瓦の近くは揺らいで見えて、真夏の暑さを目からも感じてしまった。
あまりの暑さに耐えきれなくなって、少し休憩することにした。丁度近くに神社があったので、日陰を求めて俺は鳥居をくぐった。さすがに罰当たりかと思って、自転車は鳥居のすぐそばに停めておいた。境内はアスファルトで覆われた地面も、真上から照り付ける太陽も無い。青々とした木々が心地よい木陰を作り、地面にはひやりとした玉砂利が敷かれている。なんとなく現世から切り離されたように感じる光景は、火照った体を冷ますには十分だった。
ふと、本殿の横の人影に気付いた。俺より随分小さくて、しゃがみ込んでいるような人影。近付いてみると、まだ小学校低学年くらいだろうか、丸い頬にぷっくりとした手、体の割に大きな頭。可愛らしい男の子だった。周辺に親も見当たらなかったので、迷子かと思って声をかける。
「君、一人?お父さんとかお母さんは?」
俺が話しかけても、男の子は首を傾げるばかりで何も話さない。俺が反応に困っていると、男の子が俺の手を引いてどこかへ向かっている。どこへ行くのか尋ねるが、当然のように返事は無い。されるがままに着いていくと、本殿の裏手、竹林の中でようやく男の子が止まった。
「お兄ちゃん、僕と遊んでよ。」
突然男の子が話すので、俺は面食らってしまった。普通に話せるじゃないか、とか色々言いたいことはあったが、部活も入っていない俺はどうせ暇だし、と付き合うことにした。
鬼ごっこやらかくれんぼをしていると、次第に日が落ちてくる。さすがに俺も帰らないとまずいと思い、男の子にそれを伝えた。男の子はしばらく駄々をこねて俺を引き止めようとしたが、また来ると約束するとようやく納得してくれた。
男の子に別れを告げ境内から出ると、辺りはとっぷりと日が暮れて夜だった。スマホで時間を見ようとして、俺は目を見開く。俺が神社に入ってから、2日が経っていた。雨が降ったのか、地面はしっとりと濡れていて冷えている。呆然としている俺の目の前を、散歩中の犬が横切った。もう、肉球を火傷する心配はないだろう。我に返って境内を振り返ると、男の子が笑っていた気がした。遠くで、パトカーの赤いランプと俺の名前を叫ぶ親父の声がする。「またね」と脳内に響いた男の子の声は、晩夏の鈴虫の声と重なって俺の脳裏に焼き付いた。
テーマ:きっと忘れない
「ねぇ、なんで泣いてんの?」
それが、僕達の出会いだった。小学校低学年の頃、いじめられて中庭の隅で泣いていた僕に、君が声をかけてくれた。ぶっきらぼうだし、今思えば無神経な一言。いじめられるのが悲しくて、辛くて泣いていると答えたら、君はしばらく何かを考えてから、「待ってて」とだけ言ってどこかへ行ってしまった。君がいじめっ子達を殴って問題になったと知ったのは、その翌日だった。君は先生にも親にも、いじめっ子達の親にも酷く叱られていたのに、僕に向けてピースしながら笑っていた。
中学生になっても、僕達は一緒に居た。僕はいじめられなくなったし、君は不良として名を馳せるようになった。それでも、僕と一緒に居る時だけは笑ってくれるから、僕は君の側に居た。こんな時間が、ずっと続けばいいと思った。
でも、それは突然崩れてしまった。しゃぼん玉が割れるみたいに、ある日突然無くなってしまった。君は信号無視の車に轢かれて死んだ。正直葬式の記憶は曖昧で、よく覚えていない。唯一覚えているのは、遺影の君は無愛想な真顔のままで、あの笑顔は本当にもう見られないんだと思ったら涙が溢れて止まらなかったことくらいだ。
僕はもう君の年齢をとうに追い越して、今は子どもが一人いる。妻は君を失って地の底に居た僕に手を差し伸べてくれた人で、君みたいに優しかった。妻と子育てをしていると、忙しくて君を失った悲しみから目を背けることができた。君の死と向き合いたくなくて、それだけのために僕は子どもに尽くした。子ども想いのいい親だと言われた事もあるが、僕はそうは思えなかった。君を忘れるために都合良く子どもを利用した、酷い親だと思った。でも、子どもが大きくなってくると、手がかからなくなる。そうすると、君を思い出す余白ができてしまった。ふと君が居ない事実を突き付けられて、涙が溢れてきた。ある日、一度だけ子どもの前でそれが起こった。
「お父さん、なんで泣いてるの?」
子どもが言ったその一言に、僕は目を見開いた。いつかの君との出会いを、思い出した。僕はその日、初めて子どもに君の話をした。それで泣いてたの。という子どもの声に、それもあるけど、と付け加えた上で、僕は少し腫れた目で笑って答えた。
「ちゃんと話せて嬉しかったから。」
テーマ:なぜ泣くの?と聞かれたから
俺にとって、足音はいつも恐怖の対象でしかなかった。
階段を乱雑に上ってくる足音がすれば、酒に酔った父がまた激昂しているのではないかと怯える。静かに忍ぶような足音がすれば、幽鬼のように青白い顔をした母が、思い出したように俺の様子を見に来たのではないかと部屋の隅にうずくまる。足音はいつも、俺に閉塞感と不安感を与えるものでしかなかった。そのはずなのに。
息の詰まるような実家を飛び出るように、関西の高校に進学して一人暮らしを始めた。あの父親が学費を払ってくれる訳が無いし、母親はあんな様子ではまともに働くことなんてできないだろう。俺は学費を稼ぐためにバイトを掛け持ちし、放課後遊ぶ間もなく働いた。普通の人から見れば、不幸なのかもしれない。でも、あの実家で過ごすより、こうして働いてたくさんの人と話す方が俺はずっと幸せだった。そんな生活が変わったのが、今から丁度1年前。
激しく雨の降る日だった。バイト帰りの俺は、補導ギリギリの時間に家に向かっていた。彼は、その道端で死んだような目をして立っていた。疲れ切った顔色に、一縷の光さえ通さない澱んだ瞳。
「……傘、無いんですか。」
どうしてか、声をかけてしまった。社会に絶望したような顔で、傘も差さずに立ち尽くしているから。それが、俺達の出会い。実家から逃げた俺と、社会から逃げたかった彼の初対面だ。紆余曲折あって、俺は彼を傘に入れて家まで送っていくことになった。初めは俺が一方的に話していたが、家に着く頃には彼もポツポツと話してくれるようになっていた。誰がどう考えてもブラックな会社のこと、どうしようもなく腐り切った上司達のこと。聞けば聞くほど、彼が纏う影は暗く見えた。
彼の家に着いて、俺は呆然とした。古びたマンションの一室。ドアを開けた瞬間広がったのは、到底人が住めるとは思えないようなゴミ屋敷。あ、この人放っておいたら死ぬ。本気でそう感じた。それで、俺は彼を言い包めて彼の家に転がり込み、バイト終わりに家事をするようになった。彼は本来穏やかで柔和な性格のようで、年に数度休みが取れた日には、少しだけクマの薄れた顔で甘い物を買ってきてくれたりした。
彼に出会って、俺は初めて怖くない足音を知った。怒鳴りつけるような乱雑なものでも、何かを恐れるような忍んだものでもない。古いマンションの壁越しに聞こえる、少しふらついた革靴の足音。俺はきっと明日もバイト漬けの貧乏学生だし、彼は明日からもブラックな企業に勤め続ける。それでも俺達は、脆い足音の響くこのぬるま湯のような生活をやめたくないと、薄暗い室内で揺蕩っていた。
テーマ:足音