やってしまった。
目の前に広がる惨状の原因が自分であることに、今更後悔と吐き気が込み上げてくる。右手に握ったナイフから、まだ生温かい体液が滴る。外は新月なのか真っ暗で、星がよく見える。窓から見える景色の綺麗さと、室内に立ち込める鉄臭い匂いがアンマッチで目眩がした。なんとか息を整え、後始末をしようと体の向きを変えた瞬間だった。
「…………え?」
目が、合ってしまった。いつも自分を導いてくれる、大切な幼馴染。今だけは、会いたくなかった。どうしてこんな時間に家に来たのか、見られてしまった、どうしよう、と様々な思考が頭を巡って言葉が出ない。1秒が1時間にも感じられる静寂を、彼が先に破った。
「……後処理、手伝うよ。」
一瞬、全ての思考が停止する。自分を導いてくれたはずの彼が、手伝う?何を?思わず彼の顔を見上げると、彼は笑っていた。夏休みの課題の手伝いを申し出るのと変わらない調子で、犯罪の片棒を担ごうとしている。ああ、でも。
「…………うん、お願い……」
いつも僕を導いてくれた、いつも正しかった彼が言うのなら。これはきっと、おかしなことではないのではないか。僕の手を引いてくれた温かい手が、命を失った肉の塊を解体する。僕の前を歩いてくれた足が、躊躇なく血溜まりを踏んでいく。2人がかりで始末をして、どうにか日が昇る前に大まかな掃除が終わった。解体したものは山に運んで、場所をずらして2人で埋めた。血で汚れた服を焼きながら、彼の横顔をぼんやりと眺める。彼が言うなら、間違いも正しいことになる。僕の心の羅針盤は、とっくに見当違いの方を指していた。
テーマ:心の羅針盤
「おにーいさん!」
ぴょこんと建物の影から顔を覗かせたのは、まだあどけなさの残る顔立ちをした高校生くらいの男の子。僕と初めて出会った時から、飽きもせずずっとここに通い続けている。
「うん、いらっしゃい。今日は何してたの?」
僕にとっての唯一の楽しみは、彼と話すこの時間だった。きっと学校帰りなのであろう夕方に立ち寄る彼と、他愛のない話をするひととき。僕は学校に通ったことがないから、そういう普通の日常の話は面白くてたまらない。大して面白くもない僕の話も楽しそうに聞いてくれる彼の存在は、眩しくてたまらなかった。見晴らしのいい、僕の住処の裏手側で話し込んでいるうちに、日が暮れてしまう。
「おや、もう日が落ちてきたねぇ。もう帰りなさい。」
僕がそう言うと、彼は不機嫌そうに唇を尖らせてぼやく。
「帰ったら課題しなきゃいけないし、もう俺ずっとここに居たい!」
ああ、困ったな。そんなことを言われると、本当に帰したくなくなってしまう。しかし、過去に気に入った子を帰さなかったら、「神隠しだ」と恐れられてしまった。だからそんな仄暗い感情を押し殺して、努めて優しく、困ったように微笑んだ。
「ダメだよ、ちゃんと帰らないと。親御さんも心配するよ?」
そう言われて、彼は渋々と鞄を持って出口へ向かう。そこに着くまでの道中で話をすれば、彼もすっかりご機嫌になったようだ。
「またね!」
そう言って無邪気に笑いながら、彼が鳥居をくぐって出ていく。僕はここから出られないけれど、明日の黄昏時、彼はきっとまた来てくれるから。
「……うん、またね。」
僕も穏やかに微笑んで、君を見送ることができるんだ。
テーマ:またね
ジリジリと照りつける太陽の下、俺達は一面の青に魅入られていた。
「海だー!!」
俺が真っ先に海へ駆け出すのを、呆れたように彼が見つめる。ぶつぶつと文句を言ってはいるが、どこか楽しそうな空気を纏っている。焼けるような熱さの砂に思わず悲鳴をあげると、彼はクスクスと控えめに笑う。その顔に一瞬見とれてしまったせいで、また砂に足を焼かれてしまった。学校帰り、思いつきで来てしまったので、着替えも何も持っていない。制服のスラックスの裾を捲り、靴と靴下を脱いで海に浸かる。ひやりとした感触が心地いい。
「……なんか、フラれたのどうでもよくなってきたわ……」
彼がそんなことを呟いた。そう、今日は好きな人に告白して見事に玉砕した彼を慰めるために海に来ていたのだ。
「でしょ?やっぱ海来たの正解だったじゃん!」
いつも通りを心がけて軽口を叩く。彼が少しでも元気になるように。でも、彼は露骨に気遣われるのを嫌がるから、極力普段通りに振る舞った。しばらく海を堪能してから、足を拭いて靴を履き直す。
「うわ、砂入ったかも……ジャリジャリする……」
不快感に顔を顰めると、たまらないといった様子で彼が笑った。珍しく、顔が赤くなるほど笑っている彼の顔をつい見つめてしまったのは仕方ないことだろう。海が夕焼けで赤く染まって、白波を立てて広がっている。ふつふつと沸き上がる泡に、幼い頃読んだ絵本の一節が蘇った。
『自分のからだがとけて、あわになっていくのがわかりました』
失恋した彼が、もしこの海に溶けて泡になってしまったら。
「……俺も泡になりたいなぁ。」
思わず声に出てしまった。彼が怪訝そうな顔でこちらを見ている。けれど、一度望んでしまったらもう、抑えることはできない。
「……なんで?」
「……いやぁ、泡になったら課題やらなくていいじゃん?」
咄嗟に並べた、普段通りの冗談。本当の理由なんて、彼にら知られたくない。呆れたように笑って、彼が砂浜から上がっていく。
泡同士ならきっと、くっついて一つになることもできるのだろう。それに、
「……お前が居ないとつまんないからな。」
独り言として呟いたそれが、あまりにも柄に合わなくて。
「……もー!置いてかないでよ!」
ゲラゲラ笑いながら、彼の背中を追いかけることにした。
テーマ:泡になりたい
8月半ば、ジメジメとした湿気と照りつける太陽が暑さをより一層強烈なものにしている。そんな中、俺はここに戻ってきていた。どこまでも続く田園風景。よくある田舎だ。
「暑……また気温上がったんかな?」
日陰も無いような場所に居る俺も悪いが、仕方ない。ここで待つしかないのだ。去年の同じ時期に会ったっきり、丸々一年会っていない幼馴染。彼に会うためだけに、わざわざこの暑い中待っているのだ。ぼんやりと発達していく入道雲を眺めていると、ふと玉砂利を踏む音がする。顔を向けると、案の定彼だった。この時期にここを訪れる人は多いが、彼の足音を聞き間違えるわけがない。
「……久しぶりだな。」
「おう、久しぶり!なんかまたデカくなった?」
俺が軽口を叩くが、無口な彼は返事もしてくれない。ジワジワと蝉が鳴く中、目の前に東京土産らしい小洒落た菓子が置かれる。真夏でも傷まないよう配慮してか、中身はクッキーのようだ。彼が黙って箱を開けると、綺麗に並べられた袋がいくつも目に入る。
「くれんの?サンキュ!」
色とりどりのクッキーから顔を上げ、彼と向き直る。小さい頃は俺の方が大きかった身長も、いつの間にか抜かされてしまった。
お盆の田舎。その空気は、線香の香りで満たされている。俺が物思いに耽っている間、何やら忙しなく動き回っていた彼がようやく止まる。
「……ここに帰ってきてもお前が居ないの、まだ実感沸かねぇよ。」
彼の視線は、俺を見ているようで見ていない。線香の煙が邪魔をして、俯いてしまった彼の顔はよく見えなかった。
一年ぶりに見た幼馴染の姿は、やっぱり前より大きくなっている。俺とお前の差は、広がるばかりで埋まりやしないんだろう。
「……俺を置いていくなよ……」
そのセリフだけは、誰のものなのか分からなくなってしまった。
テーマ:ただいま、夏。
エアコンの低いモーター音が、外から聞こえる蝉の声を掻き消す。他に聞こえるものといえば、時折響くページをめくる音くらいだ。
「……っあ゙ぁ!もう!終わんねぇよコレぇ……」
そんな静寂を、俺は構わず破った。8月も終わりに近付き、夏休みも終盤に差し掛かった頃。俺の目の前には、ほとんど白紙の提出課題が並んでいた。始めは余裕だろうと高を括っていたものの、いざ始めると、途方もないその量に心が折れそうだ。
「……うるさい。そこまで溜め込んだお前が悪い。」
「ひどい!ちょっとくらい手伝ってくれてもいいじゃん……」
鬼教官さながらの冷たさで追い込まれ、俺は泣く泣くペンを持ち直す。こういう時、冷徹な幼馴染は頼りになるのだ。俺がサボろうとすれば、端的かつ棘のある言葉で机に縛り付けてくる。
そんな風にして、ようやく終わりが見えてきた時。さすがに疲れた俺が泣き事を零す。
「うえぇ……もう文字なんて見たくもない……」
椅子から流れ落ちるようにして姿勢を崩した俺を、彼は横目でちらりと見た。これだけグダグダになっている俺を見ても、読書の手を止めやしない。仮にも幼馴染に対して、いくらなんでも冷たすぎるのではないだろうか。課題と向き合うのに飽きた俺がブツブツと文句を垂れ流し続けると、さすがに鬱陶しかったのだろう。彼は本に栞を挟んで、一瞬だけその視線を俺に向けた。
「……終わったらアイス奢ってやる。」
ぶっきらぼうに、窓の外なんかを眺めながら言われた一言。それでも、つれない幼馴染からの貴重な誘いだ。俺のやる気を引き出すには十分だった。
「……言ったな?……しゃーない、もうちょい頑張るかぁ……」
俺はぬるくなった炭酸飲料を飲み干し、椅子に座り直す。「……高いのは買わねぇからな。」
そんなことを呟く無口な彼の顔が、珍しく緩んでいた事には気が付かないフリをして。
テーマ:ぬるい炭酸と無口な君