「じゃあ、行ってくるね。」
そう言って僕は、この船に乗り込んで旅立った。どう考えたって無謀な話なのは分かっていた。でも、お前に語った夢を、どうしても叶えたくなってしまった。今、僕の前に広がっているのは、正しく地獄。分厚い雲に覆われ、時折雷が光る空。吹き付ける雨風に、荒れ狂う波。元より、こんな沖に出ることを想定されていない船が、沈まないはずがない。僕はきっと、これで死ぬのだろう。方向さえ分からずに流され続けたから、死体が見つかるかさえ分からない。それならいっそ、賭けに出てみようか。グラグラと不安定な船内で、僕は紙とペンを手に取った。激しく揺れる船内で綺麗な字なんて書けなかったが、それでもよかった。僕の想いを込められるだけ込めて、空気と一緒に瓶に詰める。バキ、と大きな音がして、船内に冷たい海水が流れ込んで来た。
「ああ……もうダメだろうなぁ……」
そう呟いて僕は、瓶を窓から放り投げた。どうか、この船と一緒に僕の体が沈んでも、この想いだけは届いてほしい。そんな願いを抱いて、僕は波にさらわれた。
*
朝、俺は起きて真っ先に砂浜を見に行った。あの日、無茶な旅に出たお前が帰ってきたんじゃないかと期待して。昨日の海は大荒れで、村の大人達さえ船を出さないほどの嵐だった。薄々と分かってはいた。きっともう、お前は海の底に居るんだろうと。なのに、見つけてしまった。普段なら絶対に気にかけない、ありふれた小瓶。今日はやけにそれが目について、つい拾い上げてしまった。きっともう死んでいるお前が唯一遺した、お前の生きた想い。
『もっと、お前と生きていたかった』
「……死ぬ前に言えよ……」
荒れた海で書いたのだろう。几帳面なお前の字とは思えないほど汚い字で、ひたすらに書き連ねられている。海水が染み込んで所々染みになっている手紙を、俺の頬を伝った塩水がさらに濡らしていく。普段ならお前が拭ってくれたのにな、なんて考えながら、俺は朝日の昇る海辺で泣き崩れた。
テーマ:波にさらわれた手紙
あれから一年が経った。お前が冷たくなって帰ってきてから、一年。街は、一年前と変わらない夏景色に変わっていた。色褪せた商店街の看板に、日陰に集まった野良猫たち。山の方から響く蝉の声も、溶けかけたアイスの味も、何一つとして変わらない。ただ、一つを除いては。学校でも、帰り道でも、何なら家に着いたって。隣の見晴らしが良すぎて落ち着かない。前はウザいとさえ思っていたあの温度が、今は恋しくてたまらない。
「……勝手に居なくなるなよ……」
部屋で一人、ベッドにうずくまる。お前が居なくなっても変わらず回り続ける季節が怖くて仕方ない。街中に散らばったお前の陽炎が目に付く度、隣の空虚さが胸を確実に引き裂いていく。お前と過ごした時間が長すぎたせいで、この街で俺だけが立ち直れない。あの光が潰えてしまった事実が、うずくまった俺の背に重くのしかかってきた。
「……一人に、しないで……」
ベッドに染みを作りながら絞り出した声は、鼻声な上に震えていて、みっともない。お前が聞いたら、笑い飛ばしてくれたのだろうか。
蝉が鳴いていた。あの夏に囚われて進めない俺を、嘲笑うかのように。
テーマ:8月、君に会いたい
夜。することも無かった俺は、部屋に籠もって適当な漫画を読んでいた。夏休み真っ最中の今、友達と遊んでいる奴らも多いのだろう。しかし、生憎俺は友達が多くない。だから夏休みだというのに、一人寂しく部屋に籠もることになったのだ。元々人付き合いは得意でないし、一人も苦にならないタチの俺は、別にそれでもよかった。SNSに上がった同級生達の青春っぷりを見ていると、少し胸が痛む気もしたが。そんなことを考えていると、ピロン。と間抜けな音を立ててスマホに通知が来た。開くと、見覚えのある文体。文字だけなのにやかましくて、少し馬鹿っぽい文章。
『おきてるー?明日ヒマなら遊ぼーぜ!9時にお前んち行くから!』
暇かと聞いてくる癖にもう家に来るつもりでいるあたり、俺が暇だと決めつけている。事実暇だが。『了解』と書かれた札を持った、可愛らしい黒猫のスタンプを返してスマホを伏せる。時計を見れば、随分時間が経っていたようだ。そろそろ日付が変わる頃だった。もう寝よう、と開いていた漫画を閉じ、目を瞑った。
翌朝、うるさいくらい連打されるインターホンの音に飛び起きる。時刻は8時45分。急いで着替えて出ると、案の定彼だった。
「ちょっと早く着いちった!今日あっちで祭りあんだって!行こうぜ!」
向日葵によく似た笑顔で言われて、文句を言おうとしていた口も塞がれてしまった。
「……はいはい。」
適当な返事をして、玄関先にしゃがみ込む。久々に真っ正面から浴びる朝日と、彼の笑顔が眩しくて、靴紐を結ぶためと装って顔を伏せた。
テーマ:眩しくて
「ごめん!今日先帰ってて!」
彼は両手を合わせながらそう言う。俺は一瞬ぽかんとした表情を浮かべたが、それもすぐにいつもの仏頂面にもどってしまった。
「……わかった。」
俺の返事を聞くや否や、彼は目を輝かせてからどこかへ走り去っていった。彼の他に一緒に帰る友達も居ない俺は、しばらくぼんやりとしたまま窓から外を眺める。ふと、校門の方で彼の姿を見つけた。どうやら彼は誰かを待っているらしい。忙しなく動き回り、ソワソワとした様子の彼は、誰がどう見ても浮かれていた。しばらくして、彼の元に一人の女子生徒が駆け寄る。2階から見ても分かる2人の顔の赤さに、きっと彼らは恋人同士なのだろうと容易に想像がついた。それ以上その光景を見ていたくなくて、俺は乱雑に鞄を掴んで昇降口へ向かった。中身はいつも通りのはずなのに、左手の鞄はやけに重かった。
その日の夕方、彼が家の戸を叩いた。間の悪いことに、今日は家に俺しか居ない。仕方なく出ると、彼はタッパーの入った袋を差し出して笑った。
「これ、こないだお裾分け貰ったときのやつ!返しに来た!」
屈託のないその顔を見ていると、どうしようもなく息が詰まって、視界が滲んできた。ああ、彼が困惑している。当たり前だ。突然、目の前の奴が泣き出したんだから。それでも、俺の涙を止めるのはできなかった。彼のよれたTシャツの襟を掴んで引き寄せ、そのままきつく抱き留める。彼の困惑が深まったのを肌で感じた。
「え?ど、どうした……?」
彼が戸惑いながらも、優しく背を撫でるから、余計に離したくなくなった。彼の鼓動と、泣いたことで上がった俺の体温が、流れる涙を加速させる。
「……一人に、しないで……」
絞り出すような俺の声は震えていて、酷くみっともなかった。彼はそんな俺を、ただ黙って受け入れてくれていた。
俺は知らなかった。あの女子生徒と彼は付き合っていなかったことも、彼の肩に顔を埋める俺の頭を撫でながら、彼が歪な笑みを浮かべていたことも。俺達の間に伝わる鼓動と熱がどちらのものなのか、それは皆目見当も付かなかった。
テーマ:熱い鼓動
鏡の前で、その時を待つ。古びた懐中時計と顔を見合わせながら、ひたすらに。カチ、と長針が12の目に重なる瞬間、僕は鏡に手を沿わせる。パチリと瞬きをする間に、僕はまたこの世界に入ってくることができた。
「よっ!また来たな!」
後ろから声を掛けられる。振り向けば、彼はそこに居た。午前2時丁度にしか会えない彼は、僕の兄だと言う。最も、僕に兄など居ないが。
「……うん。」
別に、兄を騙るこの人が誰でも、僕には関係ない。人なのかも怪しいところだが、そんな彼が僕の支えになっていることは間違いない。見知った景色をそのまま反転させたようなここは、僕と彼以外には誰も居ない。何にも怯えなくていい空間は、僕にとっての理想そのものだった。
「今日はいつまで居る予定なんだ?」
彼が問う。どうせ明日は休みだ。少しくらい長く居たって構わないだろう。
「……朝まで居ようかな。」
それから僕達は、くだらない話をして時間を過ごした。ふと反転した時計を見れば、時間はもう4時になろうとしていた。
「あ……そろそろ、帰らなきゃ。」
僕がそう言うと、珍しく彼は僕を引き止めた。彼が捨てられた子犬のような目で僕を見つめるものだから、つい思ってしまった。帰りたくない、と。
『帰りたくないなら、帰らなければいい。』
彼のもののような、僕のもののような声が聞こえる。ふと時計を確認すると、時刻は4時4分だった。彼がニヤリと笑った気がした。ああ、やってしまった。僕はもう、帰れない。帰るタイミングを逃してしまった。絶望的な状況のはずなのに、どこか安心感を覚えている自分が居る。もしかしたら、僕がタイミングを逃したのはわざとだったのかもしれない。そんなことを考えながら、僕は彼に手を引かれ、今まで入れなかった反転した扉の奥に足を踏み入れていた。
テーマ:タイミング