鏡の前で、その時を待つ。古びた懐中時計と顔を見合わせながら、ひたすらに。カチ、と長針が12の目に重なる瞬間、僕は鏡に手を沿わせる。パチリと瞬きをする間に、僕はまたこの世界に入ってくることができた。
「よっ!また来たな!」
後ろから声を掛けられる。振り向けば、彼はそこに居た。午前2時丁度にしか会えない彼は、僕の兄だと言う。最も、僕に兄など居ないが。
「……うん。」
別に、兄を騙るこの人が誰でも、僕には関係ない。人なのかも怪しいところだが、そんな彼が僕の支えになっていることは間違いない。見知った景色をそのまま反転させたようなここは、僕と彼以外には誰も居ない。何にも怯えなくていい空間は、僕にとっての理想そのものだった。
「今日はいつまで居る予定なんだ?」
彼が問う。どうせ明日は休みだ。少しくらい長く居たって構わないだろう。
「……朝まで居ようかな。」
それから僕達は、くだらない話をして時間を過ごした。ふと反転した時計を見れば、時間はもう4時になろうとしていた。
「あ……そろそろ、帰らなきゃ。」
僕がそう言うと、珍しく彼は僕を引き止めた。彼が捨てられた子犬のような目で僕を見つめるものだから、つい思ってしまった。帰りたくない、と。
『帰りたくないなら、帰らなければいい。』
彼のもののような、僕のもののような声が聞こえる。ふと時計を確認すると、時刻は4時4分だった。彼がニヤリと笑った気がした。ああ、やってしまった。僕はもう、帰れない。帰るタイミングを逃してしまった。絶望的な状況のはずなのに、どこか安心感を覚えている自分が居る。もしかしたら、僕がタイミングを逃したのはわざとだったのかもしれない。そんなことを考えながら、僕は彼に手を引かれ、今まで入れなかった反転した扉の奥に足を踏み入れていた。
テーマ:タイミング
7/29/2025, 10:29:14 AM