長い間使っていた研究所は、さまざまなものが乱雑に散らかっていて足の踏み場に困るほどだ。ここの主がそんなことを気にする性格ではないため特に問題にはならなかったが、引き払うとなると話は変わってくる。
道具やら資料やらをいるものと捨てるものに仕分ける作業を黙々と進めるわたしに、背後から声がかかる。
「すみません、任せてしまって。データの消去が終わり次第、わたしも手伝いますので」
眼鏡の奥の切長の瞳を申し訳なさそうに伏せて、彼は言った。
「いえ。わたくし一人で十分できる仕事ですので、お気遣いなく。……ところで、コギトさん」
わたしの呼びかけに、彼の目が少し見開かれる。
その目の前に、わたしは実験器具の中から見つけた「それ」をかざした。
「道具を整理していたら見つけたのですが……これ、なんですか?」
細いワイヤーがドーム状にしなだれた、サッカーボールほどの大きさの籠のようなもの。
彼の表情が一瞬曇るのを、わたしは見逃さなかった。
「ああ……まだ残っていたのですね。鳥籠ですよ。ずっと昔、研究室でインコを飼っていたのです」
「動物がお好きなのですか?」
「いえ……」
彼は、罰を恐れる子供のように唇を噛んだ。わたしより少し年上で、はるかに冷静で沈着な彼が、見たことのない幼い表情を浮かべている。
「実験動物として、です。ヒトの声帯を模倣する構造を究明・応用し、新たな発話システムを開発しようとしたことがありました」
「それで……どうなったんです?」
「実験は失敗しました。インコは声帯に治療不可能な傷を負い、二度と鳴けなくなり、やがて死亡しました」
「…………」
彼はわたしに背を向けると、作業中だったパソコンの前に戻った。
「それ、捨てておいてください」
それだけ言って、彼はもう何も聞くなと言わんばかりに口を閉ざす。わたしも、何も言わずに空の鳥籠を捨てるものの箱の中に分別した。
(架空日記5 ソーネチカ)
夢を見ていた。
狭い自室で、傷だらけの天井を見上げながらそうと知った。どんな夢だったのか、思い出そうとしてもまるで陽炎を掬おうとしているみたいに何も掴めない。額と背中にじっとりと嫌な汗をかいていた。立ち上がって窓を開ける。むわりとした熱気が、澱んだ空気を掻き回す。
気の遠くなるような蒸し暑い空気の中に、ふとすみれの香を嗅いだような気がして、どきりと胸が脈打つ。確かめるように息を吸い込んで、結局、肺にカビが生えそうなじめじめした空気を味わう。
胸元の鎖を手繰り寄せ、小さなロケットを開く。隅に咲く花のような慎ましい笑顔の少女と、その隣で仏頂面をするおれの写真。
友達だった。隣の家に生まれ、隣の家で育った少女だった。親同士の交流が深かったのも相まって、ほとんど家族同然の時間を、二人で過ごした。
そして、大きくなって結婚しても隣同士、夫婦同士の近所付き合いをしようと約束した。
約束したんだ。
「あれ、あんた何見てんの?」
同居人の明け透けな声で我に返る。ロケットを元通りに首に下げ、おれは平然と微笑み返す。
「なんでもねえ。昼寝していただけだ」
「ふうん」
彼女は興味なさそうにそれだけ言って、「ご飯できてるよ」と部屋を出て行った。
そう、約束した。
だからおれはそれまで、この世界を生き延びなくてはならないんだ。
(架空日記4 ジャック)
人が住まなくなった街を、植物が飲み込もうとしていた。
休憩できる場所を求めて立ち寄った街は廃墟だった。壁や屋根の崩れた建物がそこかしこに散在し、舗装のひび割れた道路が蜘蛛の巣みたいに伸びている。ガラスの外れた窓から、食器の並んだテーブルが見えた。まるで先ほどまでそこで誰かが暮らしていたかのような痕跡があちこちに残っているが、ここで息をするものはもういない。
耳鳴りがしそうな静謐の中を歩いた。ひびの隙間から顔を出す雑草を踏みしめる音が響く。かつての支配者だった人間が消えた空間を、自然が必死にその手に取り戻そうとしているかのようだった。元は白かったであろう壁を深緑の蔓が何重にも這い回り、背丈ほどもある雑草が庭のブランコを覆い隠している。
名前も知らないその蔓植物に、白い花が咲いていた。
見渡せば、あちらこちらに、慎ましく花弁を広げる白い花。街の死骸への弔いのようでもあり、植物の再生の祝福のようでもあって、どこか不思議な光景だった。じっと見つめていると、悪い夢でも見ているような気分になる。それでも目を離すのは惜しいくらい、人のいない世界で咲き誇る花々は、美しかった。
一休みしようと思って立ち入ったのに、ここはおまえの居場所ではないと言われている気がして、わたしは腰を下ろすことなく立ち去った。わたしの足跡も、すぐに彼らに飲み込まれるのだろう。
(架空日記3 イチル)
「時間とは、不可逆的なものです」
ティーパックを入れたカップにお湯を注ぎながら、わたしは言う。彼女は黙ってわたしの手元を見つめている。風のない湖面のように凪いだ瞳が静かに伏せられているのを横目に、わたしは角砂糖の入ったポットを開ける。
「たとえば、お湯は冷ませば水に戻る。これは可逆反応です。溶けた砂糖も、冷却し濾過すれば、元通りに取り出すことができる。ですが、」
ティーパックを取り出し、代わりに角砂糖を一つ落とし入れてかき混ぜる。彼女には二つ。琥珀色の液体が、くるくると渦を巻く。
「どんな手を使っても、この紅茶を水と茶葉に戻すことはできない。不可逆性とはそういうことです。一度起こったことは、元には戻らないのです。時間とは一方向に流れるもの。遡って書き換えることはできないし、あってはなりません」
「……ええ」
彼女が小さく頷き、カップを受け取ると散らかった書類の束を押し退けて場所を作る。
「未来についても同様です。我々が干渉すべきものではない。——まあ、我々の技術では、タイムマシンの作成そのものが不可能ではあるのですが」
誤魔化すように笑って、ネクタイを直した。「そうですね」と彼女は薄く微笑む。それからカップに口をつけると、一口に飲み込む。
カップをソーサーに戻す仕草とともに、彼女は口を開いた。
「もし、それで救える命があるなら」
「……なんでしょう?」
「時間を自由に行き来することができて、それによって誰かの運命を変えることができるとしたら。それでもあなたは、タイムマシンに乗りませんか?」
切長の目が、真摯にわたしを見つめていた。それを受け止めるのが怖く、わたしは手の中で小刻みに震える琥珀の水面に視線を落とした。
「……いえ。わたしの答えは変わりません。救われなかった人の運命を変えることも、過ちをなかったことにすることも、あり得ません」
「……ええ」
「思考実験は嫌いではないのですが……この辺にしておきましょう。考えても仕方ないことを考えても、疲れるだけですよ。もう一杯、紅茶をいかがです?」
「では、いただきます」
助手は、わたしの内面を悟り切ったように諦観にも似た笑みを浮かべ、空のカップを差し出した。
科学が壊した世界を科学が救うことなど、できないのだと。
(架空日記2 コギト)
今一番欲しいものは何? 何でもいいわよ。言ってごらん。
お母さんは、よくぼくにそう言う。少ししわの寄った目尻を優しく垂れて、水気の少ない手でぼくの頭を撫でて。
彼女はいつもぼくたちに優しい。要らないものをすべて削り落とした暮らしの中、少しでもぼくたちを幸せにしたいと、心からそう願っている。
生まれてきたときにはもうほとんど何もかも奪われていたぼくらへの、せめてもの償いかもしれない。そうわかっていて、ぼくはその優しさを素直に受け取ることができない。
彼女がぼくを愛しているのと同じように、ぼくも彼女を愛しているのだから。彼女の重荷をこれ以上重くしたくない。
「欲しいものなんてないよ。ぼくは、今の暮らしが幸せだから」
精一杯の笑顔を浮かべて、ぼくはお母さんに応える。
それに、もし望むものがあったとしても、それが容易く手に入る世界じゃないことは十分わかっている。だからぼくは何も望まないし、期待もしない。ただ、今を幸せに生きていたいと、それだけ。
妹を見ると、ぼくとお母さんの会話には最初から興味がないといった様子で窓の外、傾きかけた夕日を見ていた。誰の世界をも平等に照らし出す、美しい橙色の光が、室内をあかく染める。
絵でも描こうと、ぼくは昔買ってもらえたスケッチブックを取り出した。窓の外に燃える太陽を眺める妹の背中をモデルに、鉛筆を走らせる。あなたは本当に絵が上手いわと、溜息混じりにお母さんが呟く。
この時間だ。この時間さえあれば、ぼくは生きていける。
(架空日記1 リヒト)