レド

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「時間とは、不可逆的なものです」
 ティーパックを入れたカップにお湯を注ぎながら、わたしは言う。彼女は黙ってわたしの手元を見つめている。風のない湖面のように凪いだ瞳が静かに伏せられているのを横目に、わたしは角砂糖の入ったポットを開ける。
「たとえば、お湯は冷ませば水に戻る。これは可逆反応です。溶けた砂糖も、冷却し濾過すれば、元通りに取り出すことができる。ですが、」
 ティーパックを取り出し、代わりに角砂糖を一つ落とし入れてかき混ぜる。彼女には二つ。琥珀色の液体が、くるくると渦を巻く。
「どんな手を使っても、この紅茶を水と茶葉に戻すことはできない。不可逆性とはそういうことです。一度起こったことは、元には戻らないのです。時間とは一方向に流れるもの。遡って書き換えることはできないし、あってはなりません」
「……ええ」
 彼女が小さく頷き、カップを受け取ると散らかった書類の束を押し退けて場所を作る。
「未来についても同様です。我々が干渉すべきものではない。——まあ、我々の技術では、タイムマシンの作成そのものが不可能ではあるのですが」
 誤魔化すように笑って、ネクタイを直した。「そうですね」と彼女は薄く微笑む。それからカップに口をつけると、一口に飲み込む。
 カップをソーサーに戻す仕草とともに、彼女は口を開いた。
「もし、それで救える命があるなら」
「……なんでしょう?」
「時間を自由に行き来することができて、それによって誰かの運命を変えることができるとしたら。それでもあなたは、タイムマシンに乗りませんか?」
 切長の目が、真摯にわたしを見つめていた。それを受け止めるのが怖く、わたしは手の中で小刻みに震える琥珀の水面に視線を落とした。
「……いえ。わたしの答えは変わりません。救われなかった人の運命を変えることも、過ちをなかったことにすることも、あり得ません」
「……ええ」
「思考実験は嫌いではないのですが……この辺にしておきましょう。考えても仕方ないことを考えても、疲れるだけですよ。もう一杯、紅茶をいかがです?」
「では、いただきます」
 助手は、わたしの内面を悟り切ったように諦観にも似た笑みを浮かべ、空のカップを差し出した。
 科学が壊した世界を科学が救うことなど、できないのだと。

(架空日記2 コギト)

7/22/2022, 2:20:14 PM