今一番欲しいものは何? 何でもいいわよ。言ってごらん。
お母さんは、よくぼくにそう言う。少ししわの寄った目尻を優しく垂れて、水気の少ない手でぼくの頭を撫でて。
彼女はいつもぼくたちに優しい。要らないものをすべて削り落とした暮らしの中、少しでもぼくたちを幸せにしたいと、心からそう願っている。
生まれてきたときにはもうほとんど何もかも奪われていたぼくらへの、せめてもの償いかもしれない。そうわかっていて、ぼくはその優しさを素直に受け取ることができない。
彼女がぼくを愛しているのと同じように、ぼくも彼女を愛しているのだから。彼女の重荷をこれ以上重くしたくない。
「欲しいものなんてないよ。ぼくは、今の暮らしが幸せだから」
精一杯の笑顔を浮かべて、ぼくはお母さんに応える。
それに、もし望むものがあったとしても、それが容易く手に入る世界じゃないことは十分わかっている。だからぼくは何も望まないし、期待もしない。ただ、今を幸せに生きていたいと、それだけ。
妹を見ると、ぼくとお母さんの会話には最初から興味がないといった様子で窓の外、傾きかけた夕日を見ていた。誰の世界をも平等に照らし出す、美しい橙色の光が、室内をあかく染める。
絵でも描こうと、ぼくは昔買ってもらえたスケッチブックを取り出した。窓の外に燃える太陽を眺める妹の背中をモデルに、鉛筆を走らせる。あなたは本当に絵が上手いわと、溜息混じりにお母さんが呟く。
この時間だ。この時間さえあれば、ぼくは生きていける。
(架空日記1 リヒト)
7/21/2022, 2:15:13 PM