高校入学初日、誰よりも早く学校に着きたかった私は、集合時間よりもずっと早く家を出た。
余裕のある制服に、とりあえず初日だからと折らなかったスカートは膝に当たっている。春風が気持ちよく流れた瞬間、走りたい衝動に駆られた。まだ、すべてがこれからだというのにドキドキしている。
校門をくぐり抜けて、自分のクラスを確認した私はそのまま教室へ向かった。誰もいない教室はシンと静まり返っているのに、黒板はお祝いの言葉で賑やかだった。このまま校内を探索しようと、荷物だけ置いて教室を出た。一番気になったのは屋上に入れるかどうかだった。真っ先に階段を駆け上がっていく。少しだけ息が切れて、ドアに手をかけようとしたところで気づいた。音楽が聞こえる。誰かがいるのだと気づいて、そっと覗くようにドアを開けた。
すると、その先に見えたのは踊るようにスカートをひらめかせながら、一人で激しいステップを踏んで、まるで誰かとペアがいるかのように舞っていた。その顔は凛々しくて、力強さもあるような、とても同年代とは思えない大人びた顔をしていた。
曲が終わって、その人が最後にポーズを決めるといつの間にか自分が息を止めていたことに気づいた。
「一年生?」
突然こちらを向いて、彼女は言い放った。バレてしまったことに焦ったが、今さら逃げるようなこともできず屋上に出た。
「すみません、覗いてしまって。あの、一年です」
隅に置いていたペットボトルの水を彼女は一気に飲み干した。
「気づかないと思った? これでも人の視線には人一倍敏感な踊りやってるからさ」
「やっぱりさっきの踊りだったんですか!」
「そうよ。社交ダンスって聞いたことある? その中のタンゴという種類の踊り」
初めて聞く言葉にドキドキしている。
「あの! 私にも踊れますか!」
「もちろん。学生なら無料だから、放課後ここにおいで」
そう言われてパンフレットを渡された。私も彼女のようになりたい。
時を告げる鳥と書いて時告げ鳥。朝を知らせてくれるということで昔から鶏のことを指すらしい。
私はその呼び方を知った時、なんだか嬉しく思った。家で飼っている卵用鳥に小さい頃から愛着を持っていたから、そんなかっこいい呼び名があることに感動した。
実際、朝は鶏の鳴き声で起きることが多かった。毎日、挨拶してみんな撫でてから学校に行っているせいで家畜くさいと虐められたこともあったが、今は全く気にしていない。
ある日、いつものように鶏の様子を見に行くとなんだか違和感があった。なんとなく、鶏の数が減っているような気がするのだ。気のせいだろうと思って、あまり考えないようにしていたが、日に日に採れる卵の数が減っていった。
「ねぇ、お母さん。最近、鶏の数減ってない?」
「やっぱりそうよね!? お母さんの気のせいじゃないわよね!?」
やはりそうだ。母といつからなのか、どのくらい減ったのか、話し合ってみたが、全てが一致する。お互いこれは勘違いではないと確信して、防犯のために監視カメラを設置することにした。
数日、変化はなかった。だが、ある日突然不審者が映った。高校生か大学生ぐらいの細身の男性だった。どこから侵入してきたのかまでは、わからない。その人は不自然なほどに慣れた手つきで鶏小屋の鍵を開けた。知らない人が入ってくると、騒ぎ出す鶏たちも静かだった。
やがて、その人は片手に鶏を二匹捕まえた状態で小屋から出てきた。その動画を母と見て絶句していた。そして私は。
「これ、弟じゃないの」
母は黙ったままだったが、そうとしか思えなかった。本人を問い詰めるのは簡単だが、頭が混乱していてどうするべきかわからなかった。
家族同然として育ててきた鶏を、弟が殺している。
声を覚えてくれる。そんな貝殻が、透明の貝殻がこの砂浜にはあるらしい。
一度覚えた声は何年、何十年と経っても変わらず再生できるのだという。そんな都市伝説のような話を祖父から聞いていた。幼い頃は興味の欠片もなかったのに、今は必死にそれを探している。
そして、そんな私を祖父は止めていた。
「なんでそんなもの探す必要があるんだ。お前には必要ないだろう」
「おじいちゃんには関係ないよ。どうしても欲しいの」
藁にも縋る思いで探し続けた。夜の海は危険だと言われても、昼間に外に出られない私にとってはその時間しかなかった。
だが、どれだけ探しても見つからない。どれだけ探しても、その透明な貝殻は見つからない。
その日も諦めて私は家に帰った。
「今日も見つからなかったか」
「うん」
いつものやり取りから逃げるように部屋へ行こうとすると、祖父に呼び止められた。ボロボロの巾着袋を手にして、中から何か取り出した。それは手のひらサイズの透明な貝殻だった。
「おじいちゃん、それどこで!?」
「これは俺が見つけたものじゃない。お前の母さんが遺していったものだ」
そんな話聞いたことなかった。母はある日突然、家出をしていったかと思ったら、その数ヶ月後遺体となってこの家に帰ってきた。
「聞きたいか」
祖父の言葉に頷くと、そっと貝殻の中に息を吹きかけた。すると、本当に最後に聞いた母の声が再生された。家族を遺してこんな選択をしてしまったことへの謝罪と、今まで愛してくれてありがとうという言葉で音は途切れた。
「……お前もなんだろう。同じことを考えているんだろ。なんで親子そろって同じことしようとするんだ! 声だけ枯れないままま何年も遺される親の身にもなってみろよ。愛されていることに気づいているなら、なぜわざわざ遺族が一番悲しむ選択をするんだ」
なにも言えなかった。自分の行動を見抜かれていることに驚きもしなかった。
だが、自分が間違っていることを再認識させられた。いつも怒ってばかりの祖父が泣いているところを見て、もう少し生きてもいいかもしれないと思えた。
私のスマホにはずっと開けないLINEが残っている。
もう一年以上開けないままだ。元彼と別れ話をして、お互い今までありがとうで終わった後に画像が送られてきた。通知欄に残っているのは、画像が送信されましたという文字だけでどんな画像なのかは確認していない。ずっとLINEの通知が一と残っている。
その後、新しい彼氏ができていい加減、元彼をブロックするなり連絡先を消すなりしようかと悩んでいた。だが、最後に残された画像が気になってそれができなかった。
しばらくして、彼氏とお互いのスマホを気兼ねなく見合える関係になった。案の定彼氏に開けないでいるLINEについて訊かれた。
「自分でもうまく説明できないんだよね。もうずっと放置してあるの」
「じゃあ、俺と一緒に見ようよ」
彼氏にとってはただの興味本位でしかなかったのかもしれない。でも、私はすぐに返事ができないぐらいには動揺していた。大丈夫だよと言われて、隣に座る。スマホは彼氏の手に中だ。
「それじゃあいくよ」
そう言われて、小さく頷くと久々に元彼とのトークが開いた。最後に送られてきた画像をタップして、大きく表示した。反射的に口元を押さえつけた。
そこに映されていたのは今まで撮った多くの写真がコラージュされて一枚の画像になっていた。その真ん中に「愛してる。これからも幸せにね」と書かれている。元彼はこんなことできる人じゃないのだ。こんなサプライズのようなことなんてできない。ずっと私の話を聞くばかりで寡黙な人で、自分の意見よりも私の意見を優先してきた。どんな時だって私の選択を尊重してくれた。愛情表現だって滅多になかった。
私はそれが耐えられなかった。自分だけ特別であるかのような。常に自分を卑下しているかのような。そんな態度がずっと嫌だった。対等な関係になれないならと思って、別れたのに、元彼は最後の最後に私を喜ばせようとしてくれたのだ。
なんてことをしたのだろうと、涙が溢れて止まらなかった。今さらどうしようもないことだが、時を戻せるのならあの頃の自分に教えてやりたい。ちゃんと愛されているよって。
「……元彼と連絡とってみたら」
彼氏にそう提案されたが、断った。私たちの関係はこの時で終わったのだ。蒸し返してはならない。
私は今を大切にしていく。元彼にはメッセージを送らず、そのままトーク画面を閉じた。ずっとつけられなかった既読の二文字が、いつか彼の目にも届きますように。
「それじゃあ、隣の人と席を向かい合わせて。お互い協力して課題を進めてください。期限は一ヶ月です」
そう指示されるまま、隣に座っている女子と席を合わせた。
「よろしく」
「……ん」
挨拶しているというのに、あまりにそっけない返事。こんな調子で大丈夫かよと不安になるが、先生に文句言ったところでどうにもならないだろう。それに普段からよく読書をしている人だ。きっと成績はみんなが知らないだけでいいに違いない。
「自由課題のテーマどうする?」
「なんでもいいよ、あなたに合わせる」
「あなたって?」
読みかけの本に栞を挟んで彼女は机の中に片付けた。
「私クラスメイトの名前覚える気ないの。だから誰とも話さないし、名前で呼ばない」
なんだかめんどくさそうな人だなと思って、それ以上深掘りはしなかった。結局テーマは俺の方で勝手に明治文学から現代文学についてにした。これなら彼女もやりやすいだろうと思った。案の定、次の授業の時間には彼女は明治時代から現代に至るまでの歴史的な推移や新たに生まれた手法、著名な作家についてまとめたノートを持ってきてくれていた。もうこれだけで課題はほとんど完成したようなものだった。
「すごいね、これ一週間でやったの?」
「部活もやってないし、時間はあるから」
それを受け取った俺はパソコン室に行ってパワーポイントを作った。本当ならこれも二人でやらなければならないが、彼女がこれだけのノートを作ったのだからこれだけでもと引き受けた。
二週間ほどでパワーポイントも完成して、いよいよ発表に向けての準備を始めた。原稿は俺が作ると言い出したが彼女がなにがなんでも譲らなかった。しょうもないことで喧嘩するのも嫌だったので、任せた。
そして、発表が近づいてきた頃、先生に呼び出された。
「ペアになった女の子から何か聞いていない?」
遠回しな探られかたをしてなんだか嫌な気がした。
「なんにも聞いてないっす」
「そっかー。まぁ先生から話すって言ったもんね」
なんなんですかと答えを急かした。
すると、先生はすっと真面目な顔になった。
「あのね、今度の課題発表の時あの子には原稿を覚えさせようとしないで欲しいの」
意味がわからず、困惑する。どういうことなのかと聞いてみる。先生は簡単に説明するとあの子は人より記憶力が弱いらしく、人の名前や会話内容、文章を覚えるのが苦手らしい。
それを聞いて納得した。先生にはわかりましたと伝えて、職員室を出た。これからやることは決まっていた。
あれからしばらくして発表の日が来た。先生に頼まれた通り、彼女から原稿を受け取って発表をこなした。俺と関わるのは今日で終わりだと思っているのだろう。でも、そうはさせなかった。
翌日、教室で本を読んでいた彼女に声をかけた。
「おはよう」
「……ん」
すぐに目を背けて、本に視線を落とした。
「俺のことは覚えなくていい。俺もお前のこと名前で呼ばないから」
本に指を挟んで、彼女はこちらを見た。
「なに考えてるの。私なんかと一緒にいたって楽しくない」
「俺が仲良くしたいんだ。覚えてくれなくても、嫌われるまで話しかけていいか」
自分で言い放っておいて、恥ずかしくなった。これではまるで告白みたいだ。まだ、恋愛感情なんてないはずなのに、不思議そうにこちらを見ている目がいつもより綺麗に見える。
「……私はなんて呼べばいい? 明日、覚えてるかわかんないけど」
その答えに心の底から喜んだ。
「なぁなぁでも。お前でも。毎回名札を確認してくれても。なんでも。お前の好きな呼び方でいい」
その呼び方がきっと、俺を形作る。