池上さゆり

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3/29/2024, 8:42:17 AM

 大嫌いなメンソールの香りがする煙が部屋に充満していく。喉が痛いと訴えても、タバコを吸うのをやめてくれない。そのせいで咳も止まらない。
 それでも隣から離れることができなくて、我慢しながら座っている。目の前のテレビから聞こえる主人公の自惚れた愛のセリフに、鳥肌が立つ。気持ち悪い。愛の言葉はこんなまわりくどいものよりも、まっすぐな言葉の方がいい。そうは思っていても、私の彼氏は愛の言葉すら囁いてくれない。
 映画の愛されている悲劇のヒロインに腹が立ちながら、私はデスクの上に放り出されたタバコの箱に手を伸ばす。開けると最後の一本が入っていた。それを咥えて火をつける。
「咳出てるならやめた方がいいんじゃないの」
 あんたのタバコのせいだよと思いながらも、私は深く煙を吸い込んだ。やはり、喉が痛くなって咳き込んでしまった。それでも、吸うのをやめられなくて涙目になりながら、再び煙を吸い込む。
「なんか怒ってんね」
「やっと気づいたの」
 鈍感なこのバカを殴りたくなったが、それは我慢した。再びタバコを口に咥えると、彼氏が私の後頭部に手を伸ばして顔を近づけた。すると、お互い咥えたタバコ同士をくっつけるように合わせた。まつ毛の長いその伏目を見つめながら、ドキドキしていた。
「これ、シガーキスって言うんだって」
 下を向いていた目が私の顔を捉えた。煙でベールがかけられたかのようなその顔に見つめられると、心臓がドキドキしてうるさかった。
「その表情、好きだよ」
 私が咥えていたタバコをスッと奪い取られ、灰皿に捨てられた。彼氏も自分のタバコを捨てて、苦味の奥にあるメンソールの香りを感じながら深いキスをした。
 まだ、太陽は昇らない。

3/27/2024, 8:08:22 AM

 いい加減、現実を見るようにしようと気づけた三十を過ぎてからだった。それに気づくまで長い時間がかかった。自分でも、今思えば恥ずかしくなる。
 私は幼い頃からないものねだりをするのが癖のようなものだった。常に人を羨んでは、嫉妬して、悔しくなって泣いていた。どうしてあの子にはあって私にはないの、と。
 それは持ち物や兄弟、家族に限らず、才能にまで及んでいた。よく言えば負けず嫌いだったのかもしれない。悪く言えば、ないものねだりばかりするわがままな娘だ。
 だから周りの人にも嫌われていたし、仲の良い友達なんて一人もいなかった。
 だが、現実を見るようになってから気持ちが楽になった点がいくつもある。誰かを羨むことがなくなったおかげで、私は私を認められるようになった。自分のない才能に憧れるのをやめたおかげで、自分にできることを探せるようになった。そのおかげで私には文才があることを知った。それを機に、私は編集者に転職してライターとして仕事を始めた。
 そうすると、見事その仕事が肌に合っていたのか、みるみる成果をあげていった。今まで人を妬んでばかりいた時間が本当に無駄に思えた瞬間だった。
 それから昇進はしたものの、ライター一本で仕事がしたいを奮起してフリーライターとして、新たな一歩を踏み出した。
 それから数年して、エッセイの仕事もらった。私はなにを書こうかと悩んでいた。せっかくだから、この仕事を始めた経緯でも書こうか。そう思って人生を振り返ると、全てが変わったのはないものねだりをしなくなってからだと気づいた。だから。タイトルにはこう書いた。
「ないものはない」

3/26/2024, 8:57:10 AM

 いつだって最低の父親だった。父親らしいことをしてくれたことなんてなに一つなくて、死んでほしいとすら願っていた。それでもお母さんは「あの人は今までたくさん頑張ってきたから」と言って全てを許していた。
 家に帰らず、外で飲み歩き、キャバクラの名刺を机の上に置きっぱなしにしていた。ギャンブルもしていて、常に情緒不安定だった。お母さんが作るご飯をたまに食べたかと思えば、文句ばかり言う人だった。
 そんなある時、学校で授業中に生徒指導の先生に呼ばれた。
「お父さんが事故に遭ったらしい。今から病院に連れて行くから荷物の用意をしてきなさい」
 あんなに嫌っていたのに、事故という単語を聞いた瞬間、口の中がカラカラに乾いた。先生に指示された通りに動き、病院に駆けつけると既にお母さんが待っていた。酒を飲んで酔っ払っていたお父さんは赤信号を無視して道路に飛び出たらしい。幸い、一命は取り留めたものの、まだ油断できない状況だという。
 長い長い待ち時間の末、やっと手術を終えた父親が出てきた。あまりの痛々しい姿に目を逸らしてしまった。すぐに意識は戻らず、その日は私だけが家に帰った。大丈夫だと言い聞かせて眠った。誰もいない家は気味が悪いぐらい静かだった。
 そして、次の日。私は学校の制服を着て棺に入った父親と向き合っていた。容態が急変してそのまま亡くなったのだという。
 お母さんはずっと笑っていた。
「頑張ったね。今までありがとう。ありがとう、私は幸せだったよ」
 なに一つ責める言葉が出てこなかった。事故の怪我で痛々しい顔をしている父親になんて声をかけようと考えても、なにも思い浮かばなかった。
 思い返せば、幼い頃は優しい父親だった。保育園の送り迎えはいつも父親だった。小学校の宿題でわからないところはいつも手伝ってくれた。小さい頃は旅行にだって連れてったもらったんだっけ。
 こんな時に思い浮かぶのは、荒れていた父親の姿じゃなかった。父親との幸せな記憶がこんなにあったのだと自分でも驚く。
 好きじゃないのに、好きじゃなかったのに。それでも、今だけはこんなにも苦しい。
 分厚い扉の先で燃やされている父親を見つめながら、最後にお父さんと呼んだのはいつだったっけと思い返していた。

3/21/2024, 11:41:39 AM

 この部屋は広い。一人で使うのにはもったいないくらい。無駄に大きなベッドと、クローゼット。なんのためにあるのかわからないデスク。それと簡易トイレ。
 窓も時計すらないこの部屋は常に無音で、意識して自分の呼吸音に耳を傾けていないと息が止まってしまいそうな閉塞感があった。私がこの部屋で生活をするようになってから三ヶ月が経とうとしていた。
 ことは半年前に遡る。ナンパされたことをきっかけに食事に行った彼と趣味が合い、意気投合した。それから付き合うまでは長くかからなかった。
 だけど、付き合ってから知ったのは彼が酷く心配性なことだった。通勤中や仕事中、プライベートな時間でも常に位置情報を送ってほしいや、突然電話をかけてくることが多かった。最初は私はそれを嬉しいと思っていた。これだけ愛されているのだと自信にもなっていた。だが、時間が経つごとにそれに付き合うのも面倒になってしまった。
 そんなある時、彼の家に招かれてお邪魔したことがある。お金持ちだとは聞いていたが、タワーマンションに住んでいるとは思わず、緊張したのを覚えている。家の中にお邪魔すると、食事が用意されていて、ワインを飲みながら過ごしていた。すると、次目を覚ました時には、今の部屋に入れられていた。手も足も拘束されていて、恐怖心でいっぱいになった。
「これでついに二人っきりになれるね。もうなんの心配もいらないよ」
 本気なのが伝わった。一度だけ、食事を運んでくれたタイミングで逃げ出そうとしたことがある。だけど、彼の細い身体のどこにそんな力があるのか簡単にねじ伏せられてしまった。それだけでは済まず、顔以外を何度も何度も殴られた。それからは逆らわないようにした。
「ただいま。いい子にしていた?」
「おかえり。待ってたよ」
 二人っきりの世界はなにもこわくなかった。今まで抱えて生きていた不安の全てが無くなって、愛されているという事実だけを受け入れて生きるのは楽だった。
「じゃあ、ご飯作ってくるね」
 今日もなにも考えなくて済む。全部、彼がいるからだ。

3/20/2024, 11:06:16 AM

 正夢ほどこわいものはなかった。夢の中で見た景色が現実になるたびに、私は恐怖でいっぱいになった。
 でも、夢を見ればそれが全て正夢になるというわけではなかった。五回か、十回か、そんな中に一回の頻度。大抵は全然知らない人の身に起こる不幸ばかりを見ていた。だから、深くは考えないようにしていた。所詮は他人の出来事なのだと、割り切るようにしていた。
 そんなある時、他人ではない誰かが夢の中に出てきた。目が覚めても、誰だったのかは思い出せない。それでも、確かに知っている顔だったと焦る。もう一度、同じ夢が見れますようにと祈って眠りにつく。
 そして、やっと現れた景色は学校の帰り道だった。目の前にいるのは何度も追いかけてきた好きな人の背中だった。後ろ姿だけで判断できるぐらいには何度も後をつけていた。ただの帰り道かと思っていたら、交差点に差し掛かったところで、信号無視をした車が猛スピードのまま走ってきた。そして、目の前にいた私の好きな人は車と衝突して遠くまで飛ばされてしまった。衝撃的な光景に私は固まってしまった。
 だけど、すぐに頭を動かして周囲を見渡した。ここがどこで、時間は何時なのか。知っておかないと助けられない。夢が醒める前に私は必死に情報を得ようと探した。だけど、きちんとした情報を得る前に、夢から醒めてしまった。
 次の日、私はすぐに作戦を立てた。いつ現実になるのかわからないのなら、なにかと理由をつけて一緒にj帰るしかない。だけど、悲しいことに私は彼に嫌われていた。一緒に帰ろうと誘っても断られるばかりだったから、バレないように後をつける日々が続いた。
 そして、あの日見た交差点に近づいたところで一気に距離を縮めた。道路の方を見ると車が一台まっすぐこちらに向かって走っていた。急いで彼の制服を掴もうと手を伸ばした。だけど、その距離はあと数センチといったところで目の前から消えてしまった。間に合わなかったのだと、理解した途端私はその場に崩れ落ちた。
 結局、あんな夢を見たところで救える命なんて一つもなかったのだ。

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