池上さゆり

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8/16/2023, 9:19:42 AM

 水平線の向こう側には化け物がいる。そんな気がする。月明かりも届かず、波風が立たない真っ黒な夜の海を見ながらそんなことを考えていた。
 砂浜を歩いていると、コツンと足先になにかが当たった。拾ってみると、小瓶だった。中に丸められた紙が入っている。きっとこの海を長いこと旅してきたのだろう。瓶は傷だらけになっていた。これを海に投げた人は、誰かに届くことを祈っていたのかもしれない。瓶の蓋を開けて中の紙を取り出すと、小学生が書いたような文字で「ともだちになりたいです」という言葉とその下には電話番号が書かれていた。きっとこの持ち主はいつかこれを拾った人から電話がかかってくることを期待していたのだろう。
 普通こんな時間に電話なんて迷惑だろうが、海の向こうの化け物がそんな無礼も許してくれるような気がした。書かれた番号に電話をかけてみる。無機質なメロディがしばらく流れたあと、女性の静かな声がした。
「どちらさまでしょうか」
 本当に出るとは思わず、言葉に詰まった。落ち着こうと深呼吸をする。
「すみません、突然電話して。実はたった今、砂浜で小瓶を拾ったんです。その中に入ってた紙に友達になりたいという文とお宅の電話番号が書かれていたので、つい掛けてしまいました。おそらく、お宅のお子さんのものではないでしょうか」
「あぁ、確かに息子と瓶を海に流しに行った記憶があります。でも、すみません。離婚してしまって、息子はもう家にいないんです。もう成人しているのですが、離婚以来一度も会っていなくて……。ご迷惑でなければ、その瓶を私の家まで持ってきていただくことは可能ですか」
 郵送ではなく、持ってきて欲しいと頼まれた。断る理由もなく、僕は住所をメモして次の日の朝には出発した。遠く離れた田舎の中にある一軒家に向かう。
 迎え出てくれた女性はやつれていて、なにかの病気ではないかと心配した。家の中に入り、小瓶を手渡す。中を広げた女性は静かに涙を流した。
 特にそれ以上深く話すことはなく、玄関まで見送ってもらった。玄関の靴箱の上には家族写真が置かれていた。その人物と目が合って、心臓が止まりそうになった。女性は不思議に思って、どうされましたかと聞いてきた。
「この人、僕の、父親です」
「じゃあ、あなたは……」
 女性は僕の名前を呼んだ。こくりと頷く。
「どうして、どうしてこんなにやつれているの。元気にしているって聞いていたのに。ねぇ、どうしたの」
 母は力強く抱きしめた。やつれているのはお互い様だった。
「ねぇ、母さん。夜の海の向こうには……」
「化け物がいるんでしょう。人を食べる化け物」
「一緒に、行こうよ」
 耳元で囁かれたいいよという言葉を合図に、僕たちは化け物が待つ方を目指して手を繋いだ。

8/8/2023, 1:48:30 PM

 女の子は誰でもプリンセスになれると思っていた。母も父も私のことを蝶よ花よと育ててくれた。ふわふわとした癖っ毛もプリンセスだからこその特権だと思っていた。
 だが、私が小学生になる頃に妹が生まれた。比べるのが嫌になるぐらい、妹は私よりもずっと可愛かった。ピンクのドレスもキラキラと輝くティアラも、すべてが妹のものになった。両親は私に見向きもしなくなった。それに気がつくと、私はこれまで好きだったものすべてを捨てた。自慢だったふわふわの髪も男の子のように短くカットした。
 私が高校生になると、妹は小学生モデルとして雑誌に掲載されるようになった。到底小学生には見えない、高い身長だけじゃなく長い脚。幼さの欠片もない大人びた顔つきはすぐに妹を人気者にさせた。
 それから知名度は右肩上りで、SNSのフォロワー数もどんどん増えていった。やがて、地上波のテレビ番組への出演依頼も来た。ハキハキとした表情豊かな誰にでも好かれる妹が放送されていた。それが家でも変わらない姿だったからこそ腹が立った。妹に少しの嘘でもあれば、嫌われる隙ができるのにと醜い機体を抱いていた。
 ある日、妹はテレビで「もうすぐ大学生の姉がいるんですけど、すっごくかっこいいんです」と口にした。そして、その流れで妹は私の顔写真を地上波に流したのだ。その瞬間ネットはざわついた。
「どこがかっこいいの?」
「これが姉妹とか現実つら」
「どう見てもブサイクだろ」
 帰宅した妹に私は顔を叩いた。商品であるその顔に傷をつけることに躊躇いなんてなかった。比べられたくなくて、ずっと日陰で生きてきた私をこいつは無理矢理引き摺り出したのだ。許せなかった。両親が不在だったこともあいまって、一度叩くと引っ込みがつかなくなった。
 両親が帰宅して、私はひどく怒られた。
「お姉ちゃんのこと自慢したかっただけなのに」
「私はお前みたいな妹、一生誰にも知られずに生きていたかった」
 妹が太陽の下で輝く蝶なら、私は夜行灯に吸い寄せられる蛾だ。太陽の下で生きていけない私は、どんな努力をしたって蝶にはなれない。
 ただの劣等感が憎しみに変わった今日を私は忘れることなく抱えて生きていく。そのうち、芽生えるであろう罪悪感に今は目を瞑ることしかできなかった。

8/1/2023, 1:53:33 PM

 梅雨入りすると天気予報で言っていたのに、私は肝心の傘を持ってくるのを忘れていた。ここから駅まで徒歩十五分。いくら土砂降りの雨ではないとはいえ、この雨の中を歩いたらびしょ濡れになることぐらいは目に見えていた。どうしようかとため息をつく。
「傘忘れたのかよ」
「げっ」
 声をかけてくれたのは、いつも一緒に赤点補習を受けている違うクラスの男子だった。
「げってなんだよ、失礼だな」
「ごめんごめん、つい本音が……って部活は?」
「野球部にこの雨の中練習しろって鬼畜だなお前」
 そんなつもりはないと両手を振って否定する。
「それより、傘ないんだろ。俺の貸すから、ほら」
 そう言って差し出してくれたのは真っ黒な大きな傘だった。申し訳なくて受け取れないと言うと、気にしなくていいと言われた。半ば押し付けるように、無理矢理私の手に傘を握らせると彼は雨の中を走っていった。
「返すのいつでもいいから!」
 そう言われて、傘を受け取るとなんだか変に意識してしまった。だが、意識している自分が恥ずかしくて、傘を広げた。広げてみると、二人は余裕で入れそうなほど大きかった。こんなに大きいなら一緒に帰っても良かったのにと思ったが、恥ずかしくてそんなこと言えないということに気づく。駅までの長い道の中、目立つ大きな傘で歩いているうちに、声をかけられた瞬間から一緒に帰るのだと期待した自分がいた。 
 駅に着いて、傘を閉じる。すると、傘にタグがついたままになっていた。それを見て笑みが溢れる。
 明日、もし晴れたらこの傘を彼に返そう。
 そして、次雨が降ったときには一緒に帰ろうって誘うんだ。

7/18/2023, 1:47:41 PM

 私はなににでもなれる。努力すれば、叶わない夢なんてない。本気でそう思ってしまうほどには、自分の能力について自信満々だった。だが、後からこれが小中学生特有の錯覚だと知った。
 だから私は人一倍努力した。自分が何者にもなれないのなら、生きた証を残すためには優秀でなくてはいけなかった。この世に何かを残す才能は努力した先で開花するものだと信じた。
 大学生になっても私はすべてのことを必死にこなした。誰よりも努力してきたつもりだった。だが、どれだけ努力しても成績はすべて最高評価にはならなかったし、遊んでばかりの同級生よりもレポートの評価が悪いこともあった。
 そんなことが続いていくうちに、私だけが無能であるかのように思えた。周囲の人たちはきっと将来何者かになって、誰かから愛されて、称賛されて、幸せに生きていけるのだと思った。どう頑張っても自分はその一人にはなれないのだと本気で思った。
 だが、社会に出てからは変わった。唯一内定をもらえた会社で必死に働いていくうちに、営業成績はみるみる伸びていった。今まで蓄えてきた知識が年上の方と話すときの雑談のタネになった。博識な人だと勘違いされると、それだけで信用してもらえた。仕事をするのが楽しくなった。仕事が始まれば、学びの人生は終わりだと思っていたが、そうではなかった。人との接し方や、コミュニケーションの取り方は社会人になrないとわからなかった。
 入社してから数年経って、多くの後輩を育てたあと社長から直々に呼び出しされた。社長からの話というのは、これから入社してくる新人研修の担当をしてもらいたいとのことだった。やっと、やっと多くの人の記憶に残る仕事ができるのだと思った。迷うことなく喜んでその仕事を引き受けた。
 新人研修の担当が私に変わった途端、会社の業績はみるみる良くなっていった。きっとこれが、私だけにできる仕事なのだと初めて自分の人生を誇りに思うことができた。

7/16/2023, 2:37:06 PM

 ここにいるのは美大受験を目指している高校生や浪人生だ。美大の実技試験を乗り越えるために練習を重ねる。
「今日は空を見上げて心に浮かんだこと、浮かんだ光景を描いてみましょう。なんでも構いません。好きなように描いてください」
 絵に正解はない。それでも、受験に合格する絵というのは決まっている。どんなお題を出されても私たちは合格する絵というものを探す。
 狭い部屋には絵の具の匂いがこもっている。とりあえず、なにも考えず絵の具をパレットに出していく。まだどんな光景を浮かんでいなかったが、とにかくなにかを描かなければならない。
 紫を伸ばす。ピンク、藍色とグラデーションの背景を描いてく。流れる川とその上の橋を走る電車。川沿いには学校帰りであろう男女が立っている。
 実にありきたりなものを描いてしまった。これでは講師から良い評価は得られない。それでも私にとっては大切な景色だった。
 美大受験を目指すと決めてから、彼氏と会う頻度が減った。そのうち愛想尽かされて別れることになるだろうとは思っていた。案の定その時はやってきて、別れ話をしたのがこの河川敷だ。
 お互いの夢を目指すことを決意して、円満な別れ方をした。その時に大学進学後、お互いにまだ好きだったらもう一度付き合おうと約束をした。そんな思い出のある河川敷。
 ありきたりな絵になってしまったが、講師にどんな文句も言わせたくなかった。詰め込めるだけの技術を詰め込んで完成したその絵は今までで一番の傑作だった。この絵をあの人に見せるつもりはない。それでも、同じ景色をあの人も思い浮かべていたらと願った。

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