池上さゆり

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 水平線の向こう側には化け物がいる。そんな気がする。月明かりも届かず、波風が立たない真っ黒な夜の海を見ながらそんなことを考えていた。
 砂浜を歩いていると、コツンと足先になにかが当たった。拾ってみると、小瓶だった。中に丸められた紙が入っている。きっとこの海を長いこと旅してきたのだろう。瓶は傷だらけになっていた。これを海に投げた人は、誰かに届くことを祈っていたのかもしれない。瓶の蓋を開けて中の紙を取り出すと、小学生が書いたような文字で「ともだちになりたいです」という言葉とその下には電話番号が書かれていた。きっとこの持ち主はいつかこれを拾った人から電話がかかってくることを期待していたのだろう。
 普通こんな時間に電話なんて迷惑だろうが、海の向こうの化け物がそんな無礼も許してくれるような気がした。書かれた番号に電話をかけてみる。無機質なメロディがしばらく流れたあと、女性の静かな声がした。
「どちらさまでしょうか」
 本当に出るとは思わず、言葉に詰まった。落ち着こうと深呼吸をする。
「すみません、突然電話して。実はたった今、砂浜で小瓶を拾ったんです。その中に入ってた紙に友達になりたいという文とお宅の電話番号が書かれていたので、つい掛けてしまいました。おそらく、お宅のお子さんのものではないでしょうか」
「あぁ、確かに息子と瓶を海に流しに行った記憶があります。でも、すみません。離婚してしまって、息子はもう家にいないんです。もう成人しているのですが、離婚以来一度も会っていなくて……。ご迷惑でなければ、その瓶を私の家まで持ってきていただくことは可能ですか」
 郵送ではなく、持ってきて欲しいと頼まれた。断る理由もなく、僕は住所をメモして次の日の朝には出発した。遠く離れた田舎の中にある一軒家に向かう。
 迎え出てくれた女性はやつれていて、なにかの病気ではないかと心配した。家の中に入り、小瓶を手渡す。中を広げた女性は静かに涙を流した。
 特にそれ以上深く話すことはなく、玄関まで見送ってもらった。玄関の靴箱の上には家族写真が置かれていた。その人物と目が合って、心臓が止まりそうになった。女性は不思議に思って、どうされましたかと聞いてきた。
「この人、僕の、父親です」
「じゃあ、あなたは……」
 女性は僕の名前を呼んだ。こくりと頷く。
「どうして、どうしてこんなにやつれているの。元気にしているって聞いていたのに。ねぇ、どうしたの」
 母は力強く抱きしめた。やつれているのはお互い様だった。
「ねぇ、母さん。夜の海の向こうには……」
「化け物がいるんでしょう。人を食べる化け物」
「一緒に、行こうよ」
 耳元で囁かれたいいよという言葉を合図に、僕たちは化け物が待つ方を目指して手を繋いだ。

8/16/2023, 9:19:42 AM