池上さゆり

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 ここにいるのは美大受験を目指している高校生や浪人生だ。美大の実技試験を乗り越えるために練習を重ねる。
「今日は空を見上げて心に浮かんだこと、浮かんだ光景を描いてみましょう。なんでも構いません。好きなように描いてください」
 絵に正解はない。それでも、受験に合格する絵というのは決まっている。どんなお題を出されても私たちは合格する絵というものを探す。
 狭い部屋には絵の具の匂いがこもっている。とりあえず、なにも考えず絵の具をパレットに出していく。まだどんな光景を浮かんでいなかったが、とにかくなにかを描かなければならない。
 紫を伸ばす。ピンク、藍色とグラデーションの背景を描いてく。流れる川とその上の橋を走る電車。川沿いには学校帰りであろう男女が立っている。
 実にありきたりなものを描いてしまった。これでは講師から良い評価は得られない。それでも私にとっては大切な景色だった。
 美大受験を目指すと決めてから、彼氏と会う頻度が減った。そのうち愛想尽かされて別れることになるだろうとは思っていた。案の定その時はやってきて、別れ話をしたのがこの河川敷だ。
 お互いの夢を目指すことを決意して、円満な別れ方をした。その時に大学進学後、お互いにまだ好きだったらもう一度付き合おうと約束をした。そんな思い出のある河川敷。
 ありきたりな絵になってしまったが、講師にどんな文句も言わせたくなかった。詰め込めるだけの技術を詰め込んで完成したその絵は今までで一番の傑作だった。この絵をあの人に見せるつもりはない。それでも、同じ景色をあの人も思い浮かべていたらと願った。

7/16/2023, 2:37:06 PM