池上さゆり

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5/24/2023, 2:01:17 PM

 あの頃の不安だった私へ何か残せる言葉があるとしたら、私はなにを残すだろうか。

 一時は幸せだった。好きな人と結ばれて、仕事も順調でなんの不安もなかった。子どもにも恵まれて、特別な病気にかかることなく成長してくれた。こんなに幸せな生活を送れると思っていなかった私は本当に恵まれていると思っていた。
 だが、人間落ちるときは一瞬だ。家族で旅行に行った先で交通事故に巻き込まれた。生き残ったのは私だけで、旦那も子どもも亡くなった。突然、この世に一人取り残されて、何度も自殺を考えた。家族が着ていた服も捨てられなくて、一人の生活に耐えられなくって。呪いのように、毎日家全体の掃除をして、家族全員分の食事を作っていた。呪いは徐々に強くなっていった。旦那そっくりのぬいぐるみ、子どもそっくりのぬいぐるみまで作り上げた。身長も重さも同じ。ただ唯一違うのは、人間のように意思を持って動いてくれない。どうしたら動いてくれるのだろうと本気で悩んでいた。
 そんな時に友人が私の心配をして家に遊びに来てくれた。現実を受け止めきれていなかった私は友人にぬいぐるみの旦那と子どもを自慢した。その瞬間友人に肩を揺さぶられた。お願い、現実を見て、と。受け入れないとって。反射的に友人を帰らせてしまったが、その後もずっと心配してくれた。
 友人のおかげで数年経って、やっと私は現実を受け入れることができた。家族の墓参りに行くこともできたし、初めて涙を流すこともできた。
 あの頃の私は不安だったのだと思う。突然、孤独になって、どうしようもなくて、現実を受け入れるのが怖くて仕方なかった。だから、あの時の自分になにか言葉を残せるのなら、決して孤独ではないことを伝えられたらと思う。

5/23/2023, 2:00:57 PM

 その愛はまるで呪いのようで。ママの言うことさえ聞いていればあなたは幸せになれるからと繰り返していた。そこに私の意思は存在せず、何かをやりたいと言うたびにダメ出しされた。少しずつ削られていく自尊心に私は気づかないふりをした。

「ねぇ、お母さん高校卒業した後どうしたらいいと思う?」
 本当は進学したかった。だけど、母の進学しようという言葉がない限り何もできない。
「そうね、お母さんが結婚相手を見つけてくるからすぐに籍を入れましょ。婿入りしてもらって一緒に住んでくれたら安心できるわ」
 その言葉通り、二十歳になる前に私は結婚した。完全に面識のない人だったが、清潔感のある真面目そうな人で二つの意味で安心した。彼も母の犠牲者になる。そう思うと少しだけ心強かった。
 だが、私が期待していた生活はなかった。結婚してしばらくは旦那が仕事に出て、昼間は母と二人で生活していた。だが、学生のように勉強に逃げることはできず息苦しい生活が続いた。夜は旦那が帰ってきて、三人で食卓を囲んで、リビングでゆったりと過ごしていたがどことなく緊張感があった。きっと旦那も落ち着いた気持ちで生活はできていなかったのだろう。
 結婚して数年経つと、今度は母が孫を欲しがるようになった。母に言われるがまま子作りして、運よくすぐに妊娠することができた。
 だが、妊娠が発覚して母性が芽生えた。子どもが生まれる前に母の元から逃げないといけない。今まで逃れられない呪縛だと思っていた母の生き方は、孫にも同じようなことをするに違いない。
 夜、旦那と二人っきりになった時間に夜逃げを提案した。彼はすぐにそれを受け入れて二人で計画を練っていった。私は家から出ることができないから、母がいなくなる時間を常に探した。旦那は有給を使って、物件を探したり、夜逃げの手助けをしてくれる人を探してくれた。
 夜逃げ当日、旦那の友人が手助けしてくれたおかげで順調に家を出ることができた。初めて母の手元から逃れて感じる夜風はすべての不安を吹き飛ばしてくれるようで、心まで涼しかった。

5/22/2023, 2:35:49 PM

 きっと生まれ変わる機会はいくらでもあった。それを逃し続けてきたのは自分で。現実から目を背けてきたのも自分で。変わりたいという願いだけが強くなっていった。
 誰とでも話せるようになりたい。誰かに頼られるような人になりたい。自分の意見を言える人になりたい。誰かの愛する人になりたい。オシャレな人になりたい。
 いつ、どこに行ってもひとりぼっちな私ならいつでも変われると信じていた。
 だから、社会に出る前のこのチャンスを決して逃したくなかった。大学受験を終えて、大学生活が始まるまでの間に今ままで蓄えてきた知識を確認していた。
 人との話し方。自分の表情の見せ方。立ち振る舞い。メイク。ファッション。
 大丈夫、完璧だと言い聞かせた。幸い、私が進学する大学に同級生はいない。一人っきりだった高校生活をなかったことにできると思うと楽しみで眠れなかった。どんな人と仲良くできるのだろう。どんな生活が待っているんだろう。
 私は、どう変われるのだろうか。

 昨日へのさよなら、明日との出会いが私を生まれ変らせてくれるはず。

 期待に胸を膨らませた入学式は、あっという間に終わった。隣に座っている人に声をかけることから始めよう。私の新生活はここからだ。

5/20/2023, 1:49:46 PM

 彼は誰もが憧れるような完璧な人だった。部活では一年生の時からレギュラーメンバーに選抜されていた。二年生になってからはすぐにキャプテンに選ばれて、三年生が卒業する頃には部長も兼任していた。さらにはそれだけでは飽き足らず、生徒会長にも立候補していた。アイドルのような顔立ちで多くの女子生徒が好きになっていた。それだけではなく、誰にでも気さくで天真爛漫な笑顔で人を惹きつける魅力があった。
 卒業間際、そんな彼から突然告白されて、断る理由もなく付き合い始めた。学生時代に同じクラスで交流はあったものの、社交辞令のようなものだと思っていた。
 だが、付き合い始めてから私は変わった。いや、変わろうと努力した。彼に釣り合うようにダイエットもして、メイクやファッションの研究もして、彼の横を歩いても恥ずかしくないようにしてきたつもりだった。結婚式も誰もが憧れる美男美女の姿を自慢するがごとく、見せつけてきた。
 幸せな結婚生活が始まって数年。輝かしい学生生活とは裏腹な生活を送っていた。新入社員として働き始めた会社の残業やパワハラがひどくて心を病んだのだ。なんとか一年は耐えたものの、退職する頃には心がボロボロで私が支えるしかなかった。手に職を持っていなかった私は普通に働くだけで二人分の生活費には到底足りなかった。残業や休日出勤もしてやっと過ごせるギリギリの生活。私が帰宅してもおかえりの言葉もない。同じベッドで背を向けた彼が眠っている。痩せていて長身だったのに、今はただの巨体。不自然に凹んだ寝心地の悪いベッドで眠る。
 だが、追い詰めるようなことを言ってはいけないとわかっていても、心の中では理想のあなたはどこへ行ったのと聞きたくて仕方なかった。
 元の生活に戻るのが先か、私が彼を捨てて別の人と幸せになる道を選ぶのが先か。惚れた弱みが後者を選ばせてくれなかった。

5/19/2023, 12:48:42 PM

 ありもしない噂を否定するぐらいなら、黙っていた方が楽で。悪口が書かれたノートを先生に見せるぐらいなら、予備のノートを使った方が楽で。隠された上靴を探すよりも、学校のスリッパを借りた方が楽で。
 楽なことばかり考えて行動していたら、彼女たちの行動はエスカレートしていった。それでも、いつの間にか壊れていた心では痛みも悲しみも感じることはできなかった。感情を表に出さない私がいじめられているところを見ていて楽しいですかと問いかける。そんなことをしたって答えは返ってこない。そうわかっているなら、無感情と無言を貫き通す方が楽だった。
 そんな中、転入生がやってきた。興味はなかったが、このクラスで数日過ごしてすぐに私がいじめられているのだと気づいたらしい。蹴られている最中に目が合って、何もしないのが一番賢いよと伝えたかったはずが、転入生は誰よりも怒った。
「いじめるなんて最低。この子が可愛いからあんたちねたんでいるんでしょ」
「はぁ? そいつの顔面よくみた? てか、転校生様は部外者だからどけよ」
 そう言われているのに、転入生は何かの格闘技の構えのポーズを取った。関わらない方がいいと察したのか、みんな解散していった。
「私と一緒にいよう。きっとその間だけはいじめられなくて済むから」
 助けてくれたのに、私はその手を受け取ることができなかった。その正義感に次はあなたが殺されてしまうと忠告したかった。だから、無言でその手を払いのけて私は帰った。
 だけど、次の日から休み時間もお昼ご飯の時も放課後もずっと転入生は私についてきた。ずっと楽しそうに自分の話をしている。確かに、転入生が言った通り一緒にいるといじめられなかった。久々の平穏な日々に慣れてくると、壊れたはずの心が少しずつ繋がっていった。次第に転入生と楽しく会話するようになっていた。そんな日々に終わりが訪れた。
 学校に行くと朝のホームルームで転入生が転校していったのだと聞かされた。突然の別れに驚いて、連絡を取ろうとしたが連絡先も家も知らないことに今さら気づいた。いやだ、前みたいな生活に戻ってしまうと怯えた。
 だけど、いつまで経っても私の生活は平穏なままだった。彼女たちは代わりを見つけいじめていたのだ。助けてと訴えるその目に突き動かされた。
「もう、やめなよ。これ以上続けるなら先生呼ぶから」
 せっかく転入生が作ってくれた平穏を私は自ら壊しに行った。それでも後悔はない。彼女と過ごしたあの時間が、誰かを助ける勇気になる。

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