池上さゆり

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5/18/2023, 4:08:46 PM

 これはきっと幸せな終わり方だった。お互いのことが好きで。お互いが幸せになるために選んだ別れだった。
 私はファッション雑誌の編集の仕事を辞められなかった。ずっと憧れていた部署に所属できて、残業だって喜んで引き受けていた。自分の提案が通った時は嬉しくて、周囲に自慢したくなる。いつか、編集長になって雑誌代表の顔になりたかった。
 彼は写真家になるのが夢で日本各地に飛び回っては写真を撮り続けた。だが、いくら賞を取っても写真家として認められることは難しく、常にいい写真を求めていた。
 お互い、同じ家に住んでいても休日は全く合わなくて。それでもお互いの夢を応援していたから、それが力になっていた。いつか、お互いの夢が叶ったときに結婚できればと考えていた。だけど、そう思っていたのは私だけだったようで。
 ある日、久々に二人の休日が重なった。だからといって、特別どこかに出かけたりするわけでもなく、朝からコーヒーを飲んでいた。夜だけ、久々に外食をしようという彼の提案で、付き合い始めに行ったオシャレなレストランに連れていってもらった。おいしいねと言いながら食事をしているのに、彼はどこか上の空だった。デザートが来て、食後のコーヒーが来ても彼の顔は沈んだまま。どうしたのと聞くと、何かを言いかけてはやめてを繰り返していた。
「……よう」
 やっと何か言葉を発したのは聞こえたが、何を言ったかまでは分からず聞き返す。
「俺たち別れよう」
 あぁ、やっぱり。そんなことを考えていたんだ。別れようと言われても、悲しみはなくて。しがみつく気にもなれなくて、そうだねと返事してしまった。
 すれ違い続ける日常を過ごす私たちに未来が見えなくなったのかもしれない。今のうちに別れておけば、私が自分じゃない他の人と幸せな結婚ができるのかもしれない。理由はこわくて聞けなかったけど、長年付き合ってきたからわかる。そんなとこだろうなと。
 来るときは繋いでいた手も、帰り道は繋がなかった。帰る家は一緒なのに、もう二人に未来はない。

 あれから一週間ほどして、彼が家を出て行った。手際の良さから、事前に準備していたのだと思う。一人になった家を見渡す。そこには、カメラの手入れをする彼の姿があって。眠そうな目を擦りながら洗面台に向かう姿があって。ソファで日光浴しながら昼寝する姿があった。
 あっけなく終わった恋物語に一人、残された彼の気配を感じながら抱いたクッションを濡らした。

5/17/2023, 12:35:31 PM

 虫が光に魅かれて飛んでいくように、人もネオンの明かりに魅せられる。
 だからこそ、ここは夜のない街と呼ばれ、多種多様な人が集まってくる。
 真夜中に出歩いているせいか、この街がそうさせているのか、未成年がコンビニで酒やタバコを買っても年齢確認されない。縁石に座って、寿命を縮めていく。一本で約五分半。一箱で約二時間。じゃあ、二十歳で死のうと思えば、何本吸えばいいのだろうか。人間の寿命を百歳として、八十年分。わからない。学校に行ってないせいで、こんな簡単な計算すらできない。
「お嬢ちゃん、ちょっといいかな」
 警察官二人に声をかけられた。特に返事もせず、目だけ合わせる。
「なにか、身分証持ってない?」
「持ってないけどなに? 補導? それとも逮捕?」
 きっと家に帰るより、刑務所で過ごした方がまともな生活ができる。逮捕されるなら、されるで良かった。すると、後ろに立っていた警察官が話しかけてきた人に耳打ちしていた。
「成人しててもここは危ないから早く帰りなよ。あんまり治安のいい場所ではないからね」
 なにを言ったのだろうか。特に職質されるわけでもなく、二人は歩いていった。
 どうして誰も見向きしてくれないんだろう。悪いことをしているのはわかっている。だけど、それを叱ってくれる大人が身の回りにはいない。
 正しい道を歩けるように、誰かに手伝ってもらいたい人生だった。悪いことは悪いと叱ってくれる人がほしかった。
 誰からも見てもらえないこの人生は、あと何本のタバコを吸ったら終わるのだろうか。

5/16/2023, 12:24:56 PM

 愛があれば何でもできる?
 答えはノー。

 だってそうでしょう? いくら好きな人からの頼みとはいえ全て叶えられる訳じゃない。愛があるからといって今ある苦労や苦痛に耐えられるようになるわけではない。
 それじゃあ、恋愛をして恋人をつくる意味とはなにか。答えはきっと、人間は一人で生きていけるほど強くないから。
 だけど、こんな考えが百八十度変わる出来事が起きた。親友に連れられたホストの一人にどっぷりとハマったのだ。いつもどこかしらに傷を負っていて、痣も多かった。理由を聞いてみると、父親の借金を返済するために働いているのだが、暴力的な父親は売上が少ないと暴れるのだという。
 私が支えるしかないんだと本気でそう思った。昼職の給料だけでは彼の売り上げに貢献することができなくて、夜職に移った。昼よりも短い時間でかなり稼ぐことができた。彼に会うたびにボトルを入れて、誕生日にはシャンパンタワーもした。お店でナンバーワンになった時は初めてのアフターをした。健気で努力家な彼が大好きだった。
 彼のためなら、どんな汚い客にも耐えられる。睡眠時間が削られたって頑張れる。自分の生活が苦しくたって彼が助かるのならそれでいい。

 愛があれば何でもできる?
 答えはイエス。

 私の我慢で彼が幸せになれるのなら、それが私の幸せでもある。本気でそう思っていた。
 のに、裏切られた。

 寝顔が見たくて彼より早く起きると、顔にあったはずの痣や傷がなかった。触ってみても痛そうにする様子はない。どういうことかわからず、彼が起きるのを待った。起きてすぐに、目を合わせると彼はひどく驚いた顔をして、焦って顔を隠した。
「ねぇ、顔にあった痣や傷はどうしたの? 昨日まではあったよね?」
 怒らせないように優しく聞いたつもりだったが、大きなため息をつかれた。
「こんなのメイクに決まってるだろ」
 口から漏れたなんでという言葉に彼は心底見下したような顔をした。
「なんでってこうすりゃあ、お前みたいなやつから同情で貢いでもらえるからに決まってるだろ」
 二回目のなんでには答えてくれることなく、彼は着替えていった。荷物を手にして部屋を出る前に、もう二度と店に来んなとだけ言い残していった。
 現状が理解できないまま、溢れてくる涙を止めることができなかった。あの時の問いをまた自分に繰り返す。

 愛があれば何でもできる?
 答えはわからない。

5/15/2023, 2:49:31 PM

 子どもが生まれて初めて自分の無知を恥じた。妻は博識な人で、なにをするのにも困らなかった。子どものなんで、どうしてにも全て答えられるような人で尊敬していた。だから、妻の後ろに隠れて自分の無知がバレないうちは気持ちが楽だった。
 だが、子どもが小学生になり勉強を教えてほしいと乞われるようになった。小学生の問題なら解けるだろうと調子に乗って問題集を見せてもらった。だが、中学受験を視野に入れている子どもが解こうとしている問題はどれも難関で、恥ずかしながらなにも教えることはできなかった。
 その夜、妻に呼び出された。
「子どもの前ではバカなことぐらい隠して。親が自分よりバカだなんて思われたら舐められるでしょ。それに私も恥ずかしいわ」
 大きなため息をついてそう言われると、なにも言い返せなくて俯くことしかできなかった。だが、妻にそう指摘された頃にはもう手遅れで、子どもから勉強のことについて質問されることはなくなった。家の中では常に、子どもと妻が私がわからない話で盛り上がっている。子どもが成長すればきっとこんなことが増えるのだろうと思うと耐えられなかった。
 その予感は見事に的中し、高校生になる頃には見下した態度を取られることが多くなった。無知でも仕事で困ることはなかったのに、家庭での居場所を失った。それが、惨めで、恥ずかしくて、耐えられなくて、離婚した。妻とは連絡を取り続けていたが、子どもから連絡が来ることはなかった。
 学生時代、もっと勉学に励んでいればこうはならなかったのだろうか。今そんなことに気づいても手遅れだということはわかっている。
 それでも、後悔せずにはいられなかった。

5/14/2023, 2:32:28 PM

 それは新しい季節の訪れを知らせる春の花。ひらりひらりと舞うように、風に身をまかせて、春を祝う。
 この木の下で起きた出来事は何十年、何百年と年輪が記憶していく。
 校舎が建てられるのを見届けた。辺りが火の海になるのを見た。宝物が埋められるのを見た。愛の告白を聞いた。永遠の別れと涙を抱いた。時代が変わって、校舎も新しくなった。いつの間にか生徒の制服も変わった。
 だけど、いつの時代も満開の姿を見せると多くの人が笑顔になった。木の下に人が集まって、遊んで、笑って、和気藹々としていた。この幸せを届けるのが私の役目だと思っていた。
 そんな私にも、限界が訪れた。長年、私の面倒を見てくれていた人たちが懸命にどうにかしようとしてくれたが、どうにもならなかった。見えてくる命の終わりに不思議と悲しくはならなかった。
 きっと、同じ場所で私じゃない誰かが、私と同じようにここに住む人々の人生を見守り続けてくれる。そう思うと安心できる。私が何百年も前に貰い受けたのと同じように、私も次へ託す出番が来たのだ。
 ついに限界を迎え、人々の勇気ある決断で私は切り取られた。根も残さずに、燃やされるだろう。
 できることなら、私の中に残る記憶も全て次へ託してやりたかった。だけど、そんなことは叶わない。
 きっとあと十何年すれば、また新しい花がこの場所を照らしてくれるだろう。

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