池上さゆり

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5/12/2023, 10:43:14 AM

 子どもが好きで、子どもと接する仕事をしたくて保育士に就いた。毎日子どもの面倒を見ているうちに、いつしか自分の子どもを育てたいという願望が芽生えた。
 保育士としてある程度経験を積んだところで、長年恋人だった彼と結婚をした。彼も子どもが好きで子だくさんな家庭がいいと何度も話していた。
 その期待通り、結婚してから間もなくして子どもに恵まれた。旦那のサポートや職場の理解もあって、無事に子どもを産むことができた。人生の中で一番幸せな瞬間だったかもしれない。
 環境に恵まれたおかげで子育てにそこまで苦労しなかった。
 目の前で子どもが成長していく様子を見ていくのは楽しかった。保育士である時間では立ち会うことのできない成長の瞬間をたくさん見届けた。無邪気な顔をしてママと呼ばれるのが、どれだけ愛おしかったか。
 だけど、そんな時間は長く続かなかった。中学生になる頃にはママともお母さんとも呼ばれることはなくなった。喧嘩が増えてクソババァと言われる度に心が耐えきれなくて泣き崩れた。どうして、前までそんなこと言う子じゃなかったのに。自分の子育てが失敗したんじゃないかと思ったけど、どこで間違えたのかもわからない。この頃から生まれたモヤモヤの正体が分からなくて苦しい時間が続いた。
 一度できた溝はなかなか埋めることができなくて、ろくに会話をしないまま数年経った。成人式に親として見届けに参加した。目の前で多くの友人と今までの思い出話や、恋人とのこと、将来のことで盛り上がっているのを見て吐き気がした。
「お母さん、ここまで育てくれてありがとう。なかなか素直になれなくてごめんね」
 もう、目の前に立っているのは私がいないと生きていけない子どもじゃなかった。もう、自立して一人で生活できるだけの力を持った大人だった。
「お母さん泣かないでよ」
 旦那と子どもに背中を撫でられて、今までのモヤモヤがなんだったのかがわかった。
 私、自分の子どもに成長なんてしてほしくなかったのだ。ずっと、私の手を借りて生きる、なにもできない子どものままでいて欲しかったのだと。

5/11/2023, 10:39:01 AM

 まっすぐな目で、汚れの知らない心で、力のこもった声で愛を叫ぶ彼が気持ち悪かった。
 だけど、一人で過ごすことに限界を迎えていた私はそれを受け入れた。私の方が十歳も年上だ。バツイチで年長の子どももいる。それでもいい。私の苦しみを半分だけでも分けてほしいという言葉に縋るしかなかった。

「きっとあんたは、寂しさが限界に達したとき傍にいてくれる人を選ばないよ」

 親友から言われた言葉を当時は否定していた。だって、実際に一人でも子どもは育ってくれた。だけど、初婚のときに旦那の地元に引っ越ししたせいで、頼れる人が周囲にいなかった。離婚したせいで両親との関係も悪くなって実家も頼れなかった。独りの時間を誤魔化そうと、服飾の経験を活かして子どもの服を作り続けた。それでも埋まらない心に苦しめられている中、現れたのが彼だった。
 すぐに同棲を始めて、彼と子どもが仲良くなるように頑張った。お互い人見知りしていたけど、時間が解決して今では彼の膝に子どもが自ら座りに行くようになった。夜の時間だって、久々に感じる人のぬくもりに不覚にも泣いてしまった。愛される幸せを思い出した。

 親友の言っていたことは本当だった。愛されているだけで日々の生活に自信が持てる。自分という存在を肯定できる。ただの都合のいいパートナーにでもなってくれればと思っていたのに、今では彼と子どもが世界一愛おしい。

5/10/2023, 12:52:27 PM

 幼稚園で飛んでいる蝶々を何度も追いかけた。みんな綺麗な花に止まって細い口を伸ばして花の蜜を吸っている。捕まえたくなって、そっと手を伸ばした。閉じた羽を指で挟んで持ち上げる。近づいて眺めても綺麗な模様をしていた。先生に呼ばれてパッと放すと手にキラキラとした粉が付いていた。夢の粉だと僕は思ったけど、先生は鱗粉だと言った。
 それから小学生になって大きな虫籠にモンシロチョウを飼い始めた。狭い思いはしてほしくなかったから一番大きいものをお父さんに買ってもらった。長生きしないことはわかっていたけど、死んでも外に代わりがたくさんいることを思うとそんなに悲しくなかった。
 ある日、眺めるだけの日々に飽き始めていた僕はあの夢の粉を集めてみたいという衝動に駆られた。お母さんの部屋に行くと小さな小瓶があったからこれいっぱいに貯めようと決めた。その日からは外でたくさんのモンシロチョウを捕まえた。一匹ずつ、ピンセットで羽を捕まえて使っていない絵の具の筆で粉を落とした。一年以上かけて小瓶をいっぱいにした時、僕は満足感でいっぱいになった。だけど、その数だけ虫籠はモンシロチョウの死体で埋まった。夢の粉を取られた彼らはなぜか、飛ぶことができなくなった。
 蝶が生きている姿よりも、小瓶に詰められた夢の粉の方がずっと綺麗にみえた。
 虫籠のゴミを庭に捨てた次の日、お母さんに怒られた。なんだか、いろんなことを言われたけどそのほとんどを覚えていない。
 部屋に戻った僕は真っ白でキラキラした夢の粉が詰まった小瓶を眺めていた。次はモンキチョウ、その次はアゲハチョウでやってみよう。夢の粉がたくさん集まったら、きっと僕も蝶になれるんだ。

5/9/2023, 1:08:47 PM

 自分が一番幼いときの最初の記憶が、その後の人生において指針になるという。

 私にとってそれは、泣き叫びながら何かの紙を破く母の姿だった。怒っていたのたか、父がその横で必死に慰めていたのを覚えている。なにを言っていたのかまではわからないが、それとなく母と距離を置くようになった理由かもしれない。

 母は大切なことを私が大人になっても、教えてくれなかった。そのせいで、学生時代は多くの苦労をした。先生からは忘れ物が多いと怒られて。周囲からは空気が読めないと言われて。自分では時間管理ができないことに困った。それは社会人になってからも続いた。事務職として雇われた会社で、淡々とした作業はこなせるものの、途中で話しかけられたり、新しい仕事を渡されたりすると、さっきまでなにをやっていたのかわからなくなる。何度も上司に怒られてついに社長に呼び出された。クビになるんだと覚悟をしていたが、社長は真剣な面持ちで発達障害の検査を受けてみないかと勧めた。自分は健常者だと信じたかった反面、周囲の人と同じことができない原因があるのならそれを知りたいと思った。
 幼い頃からのかかりつけの病院に行ってみると、見覚えのある医者がいた。久しぶりだねと声を掛けてくれて嬉しかった。そのまま社長からの話を伝えた。すると、医者は訝しげな表情をしてカルテを読み返した。
「君にはADHDの診断がとっくの昔に出ているよ。お母さんから聞いたことない?」
 その言葉に目を見開いた。長らく帰っていなかった実家に寄って母にその話をした。すると、母はひどく怒って水の入ったコップを投げつけた。
「あんなの嘘に決まってるでしょ! 私が生んだんだから障害者のわけがない。あなたは健常者よ。二度とその話をしないで」
 この人とは話にならないと即座に思った。ここで思い出したのが、最初の記憶だ。あの時、母が破っていたのは診断書だったのではないだろうか。あの記憶は忘れられない、いつまでも。
 これから障害を自覚して生きていかなければならない。今まで感情のコントロールができなくて、爆発してしまうことが何度もあった。だけど、あの時の母のようになってしまって、現実から目を背けた人生を歩んではいけない。
 これからは、たくさんの人に助けてもらいながら生きていこう。そうすれば、きっともっと息がしやすくなる。

5/8/2023, 11:19:46 AM

 告げられた余命は一年だった。ただし、それは延命治療を施し続けた場合の話。治療をしないというのであればもっと短いらしい。
 それを聞いた途端、両親はその場で泣き崩れた。だけど、それを言われた張本人である私に自覚はなくてどこか他人事のように感じていた。
 私の意見なんて無視して始まった延命治療はそれはそれは辛いものだった。一日に何度も交換される点滴。何のために付けられているのかわからないたくさんのコード。食事のたびに出される大量の薬。トイレすら自力で行けなくなって、視界に入るのはカーテンと無数の穴が空いたような模様をした天井だけ。
 副作用で何度も吐いて、動かなくなった身体はどんどん細くなっていった。まるでミイラになっていく自分の姿を見ているようだった。いつか枯れ果てて無くなってしまうこの身体と早く、お別れがしたかった。
 ある日、母に元気になったらやりたいことはないの?と訊かれた。私には元気になったらの言葉が、死んじゃう前にと変換されて聞こえた。
「元気になれないってわかってるのに、そんなこと訊くの?」
 ひどい言葉だと思った。母なりに気遣ったであろう一言を台無しにした。でも、それすら素直に受け入れられないほど心は憔悴しきってた。見えてくる命の終わりに涙を流すことすらできなかった。何度も謝ってくる母の顔も見たくなかった。
 結局、死に際になっても最後の願い一つ思い浮かばなかった。思考すらまとまらなくなった。

 一年後、宣告された余命通りに寿命を終えた。最後まで他人事のように感じていた人生は終わりを迎えてもなお、自分のものにはならなかった。

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