池上さゆり

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5/1/2023, 10:30:17 AM

 中学校の校外学習で初めて訪れた美術館で印象に残っているのは、赤一色で描かれた風景画だった。草も、建物も、人も、すべてが赤色で構成されていて、不自然なはずなのに、どこか人の目を奪うような魅力が確かにそこにあった。その作者を忘れないように、配られてパンフレットにマーカーペンでメモしたのを覚えている。
 高校に進学してからは美術部に入った。周囲の人が様々な色を使って絵を描いていくのに対して、私はあの日感化された絵が忘れられず、青一色で描いていた。本当は赤で描きたかったが、真似をしていると思われても嫌だったので別の色にした。だが、一色で濃淡を表したり、違和感のない絵に仕上げるのはすごく技術のいることだと知った。
 二年生の夏休み。美術部の顧問からここの卒業生が近くの美術館で個展を開くということで、そのチケットをもらった。そこに書かれていた名前は、中学の時に見たあの作者だった。
 興奮が抑えきれず、初日に一人で美術館を訪れた。別館の方で展示してあると看板に書かれており、胸の高鳴りを抑えながら進んでいった。
 中に入ってすぐに展示されていたのは、やっぱりあの時と同じように赤一色で描かれた絵だった。次の部屋、次の部屋へと進んでいっても色は増えなかった。それは食べ物だったり、満月の夜だったり、走っている犬の絵だった。これが見たかったんだと嬉しい気持ちのまま最後の部屋に入った。壁一面に飾られた大きなその絵はカラフルなリビングの絵だった。比喩などではない。これまで赤しか使われていなかったのに、青や黄色、緑、オレンジ、紫と色鮮やかな絵が飾られていた。
「なんで……」
 突然裏切られたような気持ちになった。絵の横に書かれている紹介文に目を移した。
「私は今まで色覚障害を患った妹が見る世界を知りたくて、赤一色で世界を飾ってきました。そんな妹も最新技術により特殊なメガネをかけることで私と変わらない世界を見ることができるようになりました。これは妹が最も愛する世界です」
 すぐには理解できず立ちすくんでいた。
「驚かれましたか」
 突然後ろから声をかけられて振り返ると、若い女性が立っていた。そういえば、初日は在廊していると書かれていた。きっとこの人が作者なのだと思った。
「私、あなたの描く赤色の世界が好きだったんです。なんで……」
「ありがとうございます。でも、私はプロでもなければ、これで生活をしているわけではありません。所詮、誰かのためにしか絵を描けないただの一般人なのです」
 優しい笑顔を浮かべているのに、未熟で一方的な片思いをしていた私はただひたすらに裏切られたとしか思えなかった。
 

4/30/2023, 12:35:54 PM

 不登校だった私の元にある日、楽園とだけ書かれたチケットのようなものが届いた。日付が変わる十二時に窓を開けてお待ちください。お迎えにあがりますとだけ書かれている。
 誰かのイタズラだろうと思いながらも、心のどこかで期待しつつ夜中を待っていた。少し仮眠を取って、眩しさで目を開けると窓の外が光っていた。真っ白な光が部屋を照らしている。窓を開けてみると、まさしく天使のような笑顔を浮かべた小学校低学年ぐらいの女の子が手を伸ばしていた。なにも言葉を発さないまま、導かれるようにその手を取った。
 ふわりと身体が浮いて、目も開けてられないほどの強い光に包まれた。次に目を開けたときは、色鮮やかな花畑がどこまでも続いていた。楽園という名にふさわしい場所だった。先ほどまで手を握っていたはずの女の子もいなくなっており、なんとなく歩いてみる。裸足なのに、痛みはなく、地面は柔らかくて温かい。
 すると、どこからか泣き声が聞こえた。声がする方へ走っていくと見覚えのある背中があった。すぐ近くまで来ているのにその子は私に気づかない。正面にまわって顔をのぞいてみると、私を不登校にまで追い詰めた張本人だった。思わず、後ずさる。
 ごめんなさいとひたすらに繰り返している。なにに対して謝っているのかはわからない。戸惑っていると、後ろから突然服の裾を引っ張られた。そこにいたのは迎えに来てくれた天使の女の子だった。
「その子が泣いてる理由知りたい?」
 首を横に振る。今さら、この人のことを知りたいなんて思えない。その場を去ってもずっと耳の中には彼女の泣き声がこびりついていた。時間だよと再び女の子がお迎えに来る。あっという間に元いた部屋に戻された。泣いている理由ぐらい聞いても良かったかもしないと後悔していた。
 次の日、なんとなく保健室登校ならできる気がして三時間目が終わるぐらいの時間に学校へ行った。だが、保健室に先生はおらず空いていたベッドを勝手に使った。カーテンが閉められた隣のベッドから聞こえてきたのは昨日と同じ泣き声。
「どうしたの」
 顔を見ずになら、歩み寄れる気がした。

4/29/2023, 12:05:14 PM

 祖母が亡くなった。
 遺された遺書に書かれていたのは、自分の灰を海に撒いて欲しいという願いだった。当然、家族と親戚間で議論になった。
 遺骨は残しておくべきだと言う人と、祖母の最後の願いを叶えたいという平行線の話し合いが続いていた。
 私は祖母がその願いを残した理由を生前に一度だけ聞いていた。戦争の世を生きていた祖母と祖父。二人は結婚してから一緒に過ごした時間が本当に短かったという。理由は祖父が海兵として戦争に駆り出されたからだ。だが、祖父は故人として帰ってきた。海に沈んだせいで、遺品の一つも見つからなかったという。だから祖母は、自分が死ぬときは愛する人と同じ場所に沈みたいと言っていた。
 だが、その話を知っているのは私だけのようだった。だから私は話し合いがまだまとまっていない中、祖母の遺灰を持って話に聞いていた海まで車を走らせた。
 ようやく辿り着いたそこは、なにもなかった。落ちたら即死するであろう高さ。真下には剝き出しになった岩礁が姿を現している。祖父が亡くなった場所はきっとここよりももっと遠い海なのだろう。でも、同じ海で再会できるのならきっと幸せだ。
 そう思って、祖母の遺灰を手に取った。握りしめた手を広げると、風に乗って祖母は海へ飛んで行った。
 祖母が何十年も愛し続けた人と、この海で再会できることを祈っている。

4/28/2023, 12:57:29 PM

 限界なんですと泣いていた先輩を助ける方法はなんだろうとずっと考えていた。限界だと訴えかけながらも、毎日笑顔で登校して日常を送っている先輩にとってはそれだけで必死なんだったと思う。
 だから、限界だという訴えかけが死にたいに変わった時驚かなかった。死なれたら悲しいなんて言葉も言えなかった。理由を訊く勇気もなかった。ただ、それを受け止めて泣いている先輩の背中をさすってあげることしかできなかった。
 ある日、夏服の上にカーディガンを羽織って先輩が登校してきた。いつもの笑顔はなく、深く沈んだ表情を隠さず歩いていた。いつもの放課後になってまた屋上に集まった。体調の心配をすると、袖を捲って傷だらけになったその腕を見せてきた。リストカットしたのだとすぐにわかった。
「昨日、切ってお湯につけてたけど全然死ねなくて。だからもっとたくさん切ってしまえばって思ったんだけど、全然ダメだったの」
 嗚咽をもらしながら、涙を流す先輩。私にこの痛みはわからない。だけど、本気で死のうとして、ここまで追い詰められている先輩が見ていて胸が締め付けられた。
「先輩、本気で死にたいのなら私が手助けします」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげて、先輩は驚いた顔をしていた。
「じゃあ、お願いがあるの」
 二人で屋上のフェンスを乗り越えた。風が強く吹き付ける中、下を向くと舗装された煉瓦造りの道があった。ここから落ちれば確実に死ぬことができる。手を繋いだ先輩の横顔には涙の跡が浮かんでいたが、表情はどこかすっきりとしていた。するりと私の手を離した刹那、先輩は地面に背を向けて落ちていた。はっきりと聞こえたありがとうが先輩の最後の言葉だった。

4/27/2023, 11:45:37 AM

 僕が高校生のとき、父は小学生の妹と母と僕の三人を残して交通事故で亡くなった。今でも、葬式で母が泣き崩れていた姿を覚えている。残された三人で支え合いながら生きていかなければならないと考えていたが、僕が思っていた以上に母は強かった。葬式以来、一度も泣かず、常に笑って僕らを育ててくれた。
 成人して母にプレゼントを送った。それと同時に母からも父の遺産の一部だといって、お金を受け取った。父が亡くなった後も、僕たちのことをしっかりと考えて母が生きているところを見て、安心して会社の近くで一人暮らしを始めた。定期的に実家にも顔を出して、それなりに充実した生活を送っていた。
 その数年後、妹も成人して事務職に就いた。三人でお祝いの食事に出掛けて楽しく過ごした次の日。
 母は自殺した。なんの前触れもなく、突然の訃報に現実を受け止めきれなかった。親族との付き合いもほとんどなかった母の葬式には子どもである僕たち二人と、職場の人、友人が何人か参列しただけだった。遺された家で妹と今後について話し合っていると、警察から遺書を受け取った。
「お父さんが亡くなったあの日、私もあとを追うつもりでした。でも、残される二人のことを思うとそれもできなくて、成人するまでは私がしっかりと責任持って育てようと決めていました。愛する人がいなくなったこの世界の中で二人の成長がお母さんの生きる意味でした。ありがとう。幸せになってね」
 なんだ、母は何年も笑顔を取り繕っていたのだ。本当は誰もよりも辛かったのに、それを僕たちの前で出さないように我慢していたのだ。生きる意味を達成した母はこの日を待ち望んでいたのだ。
 そう思うと、責める気力もわかなかった。
 辛い中笑顔で育ててくれてありがとうと二人で遺影の前で手を合わせた。

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