「まって」
私には、双子の姉がいた。容姿端麗、頭脳明晰、文武両道。部活動の大会に出れば賞状を持って帰り、テストを受ければ満点のテスト用紙を持って帰ってくる。そんな、なんでもできる姉だった。歳は数分しか離れていないというのに、いつも背中を追いかけていたように思う。それでも時々こちらを振り返って手招きをしてくれる、優しい姉だった。そんな完璧な姉にも、私だけに見せる一面があった。親に隠れて夜更かしして2人で話していた時、塾を仮病で休んで遊びに行った時、2人だけの時に見せるイタズラっぽい笑顔が私は大好きだった。
私は今日学校を休んだ。それでも、制服に袖を通す。何故だか視界がぼやけてよく見えない。メガネはちゃんとかけてきたはずなのに。
扉を開けると、姉の顔が見えた。私の好きな笑顔とは似ても似つかない、青白い顔。手の届かない場所へと向かおうとするあなたに思わず、
「まって」
と声をかける。こんな時まで私を置いて先にいくなんて。
すぐに、追いつくからね、
「まだ知らない世界」
目が覚めると、カサリと葉の動く音が聞こえる。
ここはどこだろう。周りは木々に囲まれて薄暗く、ここがどこで、いつなのかわからない。そもそも、なぜ私はこんなところにいるのか。そして、私は何者だったか。何一つ思い出せない。ただ何かを探していたということだけはわかる。それがなんなのかもさっぱり見当はつかないが。ここで考えているだけでは埒があかないので、森の中を進んでいくことにする。おそらくこの森のことを私はよく知っているのだろう。直感に任せてしばらく木々の間を進んでいくと、とうとう開けた場所に出た。そこにあったのは、小さな小屋。1人で住むにしても少し狭いであろうこじんまりした小屋は、まるで私を待ち構えていたかのような風貌で佇んでいた。扉の目に行くと鍵がかかっていたが、錆びついて壊れてしまっていたようで、いとも簡単に開けることができた。小屋の中に一歩踏み入れると、懐かしい匂い。思わず頬を雫が伝う。きっと私のよく知る世界。
でも、今の私はまだ知らない世界。
「手放す勇気」
小さい頃から、なんでも溜め込んでしまう癖があった。食べ終わったお菓子の箱、小さくなってしまった鉛筆、綺麗な包装紙など。もう使わない、もういらないとわかっていても、なぜか手放せない。この気持ちだってそうだ。こうしていつまでもうずくまって、ウジウジしていることを君は喜ばないことなんてわかっている。それでも、いつまでも気持ちに沈んで何もしないでいたいと思ってしまう。この気持ちは手放さなければならない。
君は死んだのだから。僕のせいで。
あの日君は駅前で僕のことを待っていた。一緒にレストランに行こうという約束をしていた。そこで指輪を、結婚指輪を渡そうと思っていたんだ。なんて言いながら渡したらいいのかわからなくて、考えながら向かっていたら待ち合わせの時間に遅れてしまった。本当に、少しだけ。それでも、着いた時にはもう遅かった。駅前がなんだか騒がしくて、嫌な予感がしていた。こういう時の予感というものは、よく当たってしまうものだ。
事故だった。僕にはただ、血に濡れて救急車で運ばれていく君を見ていることしかできなかった。飲酒運転のトラックが飛び込んできたらしい。即死だったそうだ。待ち合わせに遅れていなければ。そもそもあの日呼び出していなければ。一日中後悔ばかりしている。こんな僕の姿を見たら君は、「もう、馬鹿だなぁ」と笑うだろうか。そんな姿を思い出すだけで、涙が出てくる。それでも、このままぼーっとし続けるわけにはいかない。
まだ新しく、日光を浴びてキラキラと輝く君のお墓。あの日渡せなかった指輪と愛の告白。目をつむって手を合わせていると、「私のことなんて忘れて、元気に過ごしてよ」という君の声が聞こえた気がした。あの時ああしていれば、なんて後悔の言葉は手放そうと思う。でも、君のことを思う気持ちだけは、この恋心だけは、何があっても手放さない。
「光り輝け、暗闇で」
光がさした後には、必ず闇がある。だから私には光なんて、要らない。
朝起きて、何も考えずぼうっと過ごす日々。そんな日々に光なんてない。必要がない。ただただ薄暗く、じっとりとした場所に居座っているだけ。そうしていると、光も闇も感じなくていい。安全地帯。
そばにあるフェンスに触れると、カシャンと音が鳴る。下を見ると、沈みかけた太陽が地面を赤々と照らしている。ここから飛び降りたら、もっと楽になれるのだろうか。あの光に、飛び込んだら。、、、、、、、、、、、、、、、光。
散々そんなものはいらないと言っていながら、私はまだ無意識にそれを欲していたのか。失笑。馬鹿らしい。
フェンスにぐっと力を加える。それを飛び越え、体がふわりと宙に浮く。光へ、真っ逆さま。光を感じないために、光へ向かうなんて、全く矛盾した話だ。
今更、光を感じたって遅いのに。
「酸素」
首元にある段差にそっと触れる。私の首には、生まれつき、エラがついていた。魚とかについている、あのエラ。胎児の時に母親の子宮を泳いでいた名残なんだって。変に手術とかをしたら危ないから、そのままにしておいたほうがいいんだって。一生無くならないかもしれないんだって。お医者さんが言ってた。
いつだったか、誰かが私に言った。「魚人間」って。それを聞いて私は悲しむわけもなく、確かにな、って思った。私の家の近くには海がある。「魚人間」にとっては最高の立地。私の首元を見るとみんな、決まって気味が悪そうな、でも好奇心が抑えられないような、そんな目で私を見る。この「魚人間」を産み出した家族でさえも。それがたまらなく居心地が悪くて、いつからか地上で呼吸するのが苦しいと思うようになった。そんな時は、迷わず海に駆け込む。
ざぶん。
海に入ると冷たい水が肌を撫で、エラがぶわりと広がり活動を始める。酸素が美味しい。1日の中で1番、生きている、と感じられる時間。この時間があるから私は生きていける。ただ1人、海に浮かんで何も考えずにぼうっと過ごすだけの時間。孤独、だけど優しい、そんな時間。本当に、その時間さえあれば他に何も要らなかったのに。
砂浜をジャリジャリと鳴らしながら、今日も海と向かう。今日は一段と空気が薄く感じられた。早く海に潜りたい。楽になりたい。そう思って、制服が濡れるのも構わず、海に頭を沈める。
、、、、、、おかしい。いつものような解放される感覚が全くない。苦しいままだ。むしろ、もっと苦しくなる。だんだんと意識が朦朧としてきて、ついに水面に顔を出す。違和感を感じて、首元を探るが、ない。ない。なぜ。私のエラが、ない。信じることができなくて、もう一度探ると、やはり、そこには小さな出っ張りが残っているだけで、呼吸をするための穴が跡形もなくなくなっている。再び鼓動が速くなり、血管がぶわっと広がるような悪寒をおぼえる。苦しい。地上に出ても、海に潜っても。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。
今更、普通の人間になるなんて。私はもう、エラがなければ生きていけないのに。
不意に足元に小魚が泳いでるのが見えて、思わず水面を叩く。それはビクッとからだを震わせ泳ぎ去っていく。私も、本当の魚になりたかった。「魚人間」なんて中途半端なものではなくて。自由に海を泳ぎ回りたかった。
放心状態のまま、海の奥へと進んでいく。もう、命を感じられる場所でなくなった海の奥へと。どこまでも。どこまでも。
もし生まれ変わるのなら、次は魚になりたい。