記憶の海
最近、物忘れがひどくなった。常に何か大切なものを忘れているような気がして、頭の奥が疼く。なにか思い出せそうになっても、それは波のように揺蕩い、泡のように消えて行ってしまう。そうやって考えがごちゃごちゃして、まとまらない日は、早いうちに眠ってしまうに限る。そう思って布団を被り、まとまらない考えを頭のすみに追いやる。開けっぱなしにした窓から吹き込んだ夜風が頬を撫で、だんだんと睡魔が襲ってくる。今夜はすぐ、眠りに落ちることができそうだ。
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気がつくと、私は海のなかにいた。目の前には透き通ったクラゲが泳ぎ、名前もわからない小魚がじゃれあっている。わけがわからない。今夜は確か、早めに眠りについたはずだ。夢を見ているのだろうか。そう考えると納得がいった。水の中だというのに呼吸ができるし、冷たさも感じない。夢を見るのはいつぶりだろうか。もっとも、この夢も明日の朝には忘れてしまうのだろうが。
「ようこそ記憶の海へ」
イルカのエコーのような、水の中であぶくが弾けるような、不思議な声が出し抜けに聞こえてくる。声のする方を向くと、消えてしまいそうな白い肌と、深海のような深い色の髪を靡かせる美しい少女がそこにいた。
「わたしは、番人」
「この海を、守るもの」
不思議な声が再び発せられる。
番人って、なんだ?
そもそも、記憶の海とはなんなのだ?
まただ、頭の奥が疼く。私は、この場所を知っている気がする。
「ふふ、ここがなんなのかと疑問に思っているような顔をしていますね」
少女は少し嬉しそうにして言った。完全に図星だ。自分はそんなに考えが顔に出るようなタイプでは無いと思っていたのだが。それにしても、なぜだろう。この少女の声を聞いていると、すごく懐かしくて、哀しいような気持ちになる。
「その疑問に、答えてあげましょう。」
「ここはあなたの記憶の一部。あなたの思い出や感情が大切にしまわれている場所です。昔はよくここで会っていたのですが、、、その記憶はもう、流れて行ってしまったようですね」
少女の美しい顔が、哀しみに歪む。その顔を見ると、頭の奥が疼く。思い出せそうで思い出せない、その時と同じ、なんともいえない感情。
「よかったら、そこにいるクラゲに触ってみてください。もしかすると、まだ流れていない可能性もあります。」
少女の言葉に従い、そっとクラゲに触れる。するとたちまちそれは弾け、私の指に吸い込まれていった。
━━━━どうして今まで忘れていたのだろうか。
子供の頃、私はよくここを訪れていた。海を泳ぎまわり、少女と笑い合い、たくさん話をした。毎日ここを訪れるために眠りについていた。新しい記憶をたくさん生み出していた。
やっと頭の疼きがおさまった。ずっと思い出したかったのは、このことだったのだ。
「どうやら、、、あたり、、、ですね、、、。し、、、もう、、、目覚、、、うです、、、。」
「また、、、会え、、、待って、、、いますね。」
海の底から泡が湧き出て、少女の声が聞き取れない。泡の隙間から少女の哀しそうな顔が垣間見えた。どうして、そんな顔をしているのだろう。
泡はやがて視界を埋め尽くし、何も見えなくなった。
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目が覚めると頬が濡れていた。夢でも見ていたのだろうか。
また、頭の奥が疼く。
「ただ君だけ」
その言葉のなんと甘やかで美しいものか。いつも君のことを目で追い、君の表情に一喜一憂する。いつのまにか、私の世界はただ君だけになってしまったようだった。この気持ちが恋なのだと、君のことが好きなのだと、気がついたのは大分後になってからだったように思う。その理由が同性だったからなのか、仲のいい友達だったからなのかはわからない。自分の気持ちに気がついてからは、私の思いはますます募っていった。君と話すだけで1日が輝いて感じられ、君が他の人と話しているのをみてドス黒い何かが心に立ち込めた。そうやって、自分の気持ちをころころと持て余していた時、他の友達が好きな人に告白するのだと言った。それを聞いて、私はどうしたいのだろうかと考えた。このままただ眺めているだけがいいのか、それともこの思いを打ち明けたいのか。もし君が好きな人ができたと言ったら、きっと後悔するだろうとは気がついていた。しばらくの月日が経ち、とうとう意を決してメッセージを打ち込む。「明日、話したいことがあるから放課後に会いたい。」帰ってきたメッセージはいいよ、と。絵文字付きで。教室の前で君を待つ時間は、永遠にも感じられた。心臓がドクンドクンと早鐘を打つ。やっと出てきた君に向かって「好きです。私と付き合ってください。」と勢いに任せて伝える。君は、少し戸惑うようにえぇ、とうなってから、イタズラっぽく笑った。「じゃあ、返事は3年後ね。」そうやって笑う君に恋をしたのに、その時ばかりはそれが憎らしく感じられた。もっと早くしてよと文句を言うと、わかったわかったと言う君とその日はそのまま別れた。不安に感じていた通り、今もまだ返事は返ってこない。冗談だと思われたのだろうか。クラスの子と楽しそうに話している君を見ると、いつもより黒い感情が積もっていく。私には君だけ、なのに。
未来への船。
人は誰しも生涯にひとつの船を持っている。小さいもの、大きいもの、モーターつき、手漕ぎ、それは人それぞれ違う。だけどみんな、同じ場所へ向かって、ただただ船を漕いでいく。生きていると障害にぶつかってしまうこともある。嵐、渦潮、岩礁。航海には危険がつきものだ。それによって壊れてしまう船、沈んでしまう船だってある。また、沈んでいく仲間の船をただただ眺めることしかできないことだってあるだろう。それでも私たちは海を渡っていくのだ。時には港で休んだっていい。進路を変えてみたっていい。そうやって、日の昇る地平線に向かって、今日も舵を切るのだ。