別に、あなたのことを想い続けているとかじゃないけれど。ふとした瞬間に思い出す。雨の日にパスタを食べたときとか。ヒールが高めのパンプスを履いたときとか。ささやかな日常にあなたがいたことを少しだけ実感する。
未練があるのかしらと自虐的に笑って、とはいえ嫌な記憶ではないから怒りも悲しみも湧いてこない。あなたがいなくなった日々を感慨もなく生きている。たぶん明日には忘れている。
でもきっと。たとえば新しい恋をして、結婚して、子供が出来たとしても。別にそんなに嫌いじゃなかったから、ささやかな日常の中でたまにあなたを思い出すのだろう。これからも、ずっと。
「お願いがあるのです」
たとえば、ぼくが旅立った時。明くる日の空はうららかで、心地よい風が花びらを揺らし、穏やかな空気が満ちた素晴らしい朝だとして。あなたは、ぼくがいなくなったことを嘆いてくれますか。
つまらないお願いではありますが、どうか記憶の片隅に留めておいてください。それだけでぼくは、この先で己の身に何があろうとちっとも怖くありません。冷たい夜に浮かぶ星のひとつになったとしても、決して後悔はないでしょう。
ただ、あなたがぼくを想ってくだされば。残すもののないぼくの生涯にもすこしは意味が生まれるのだと、そう思えてやまないのです。
「ですから、どうかあなただけは、ぼくの死を悲しんでください」
それが、たったひとつの願いです。
「実は俺、」
おれの幼い弟に顔を近づけ、内緒話。友人はわざわざ周囲を見渡すふりまでしたあと、小声で囁いた。
「……魔法使いなんだよね」
「ほんとー?! にーちゃんしってた?!!」
「いや、おれも初耳。まさか魔法使いと友達だったとは……!」
「そ。びっくりしただろ?」
視線が“合わせろ”と言っているので、大袈裟に驚いてみせたら弟はすっかり信じ込んでしまったらしい。興奮しきりで魔法を見せて! とせがみ立てる。エイプリルフールとはいえ嘘でしたと言える雰囲気じゃなくなったなと思っていたら、にんまりと笑った友人はおもむろに弟が着るパーカーのポケットを指差した。
「ポケットには何か入ってる?」
「ぽっけ? ううん、はいってないよ」
「それじゃあ俺が魔法を掛けるから、呪文が終わったらもう一度確認してみてくれるかな?」
「う、うん……!」
「いくぞ~」
ポケットに向けていた人差し指をくるりと振り、唱えるのは謎の呪文。魔法に関して全くの無知であるおれは、それが友人のでっち上げなのか、何かの作品の引用なのかすらちっともわからない。
弟は期待に満ちた様子で自分のパーカーのポケットを確かめる。そしてはっとした顔をすると、慌てて小さな手をおれたちの前に突き出した。
「ちょこ!! ちょこがはいってた!!」
「チョコだったかあ。お菓子を出す魔法なんだけど、何が出るかは俺にもわからなかったんだよね」
「そんな雑な魔法ある?」
「そんなもんだって」
「すごいすごい! もっとだせる? もっとみたい!」
「残念ながらここまで。本当はみんなに秘密だから、あんまり使うと怒られちゃうんだ」
「えー!!」
「ほらほら、困らせるなよ。また今度見せてもらえ」
「ちぇー」
若干不服そうではあったが、友人と指切りの約束をした上、チョコを頬張った弟はすぐに機嫌を直した。次はどんな魔法を見せてもらおうとニコニコ悩み始めた弟に聞かれないよう、友人にそっと声を掛ける。
「つーか、どんなマジック? いつ仕掛けてた?」
「見ての通りだよ」
「わからんて」
「だから、魔法」
「……はあ?」
「ははっ、顔怖」
いやおれにまでわかりきった嘘をつく必要ないだろ。そう思ったが、けたけた笑う友人をいくら問い詰めても、タネは教えてくれなかった。
「今日はエイプリルフール。でたらめだって許される日だろ?」
それは母からの呪いだった。息を引き取る前のただ一言がわたしの人生を狂わすものとなった。あのときの声が、景色が、脳裏にこびりついている。何度も何度も繰り返されている。
かくあれかしという願いに蝕まれ、わたしの人生は義務となった。眠ることすら、食べることすら、友を選ぶことすら。誰が間違っていると言うだろうか。正しいと思うだろうか。きっと答えなどない。誰も教えてはくれない。
視界にちらつく影を追い、耳に残る声を追い、あのときの言葉だけを救いとして。わたしは今日も、死者のために息をした。
「私がいなくなったあとも、どうか幸せに生きてね」
わかってるよ。ねえ、母さん。わたしは幸せになれていますか。
下卑た言葉を掛けられようと、嫉妬の眼差しを向けられようと。彼女は素知らぬ態度で愛らしく微笑む。いつの日か、そんな毎日は辛くないのかと聞いてみたことがあった。されたことがない質問だったらしく、彼女は少し意外そうにしながら「それも仕事のうちよ」と事も無げに言ってのけた。……それからだっただろうか。彼女の美しさではなく、強さに惹かれるようになったのは。
僕は金もない、地位もない男であるのは自他共に認める事実であった。その上で僕のことをちゃんと一人の客として扱ってくれる彼女に対し、相応しい男でありたかった。教養を身に付け、身嗜みを整え、またそれらを十分に叶えられるよう必死で働いた。たかだか女ひとりにのぼせ上がってと言われたこともあったが、そもそも僕は恥も外聞も気にするような立場ではない。それこそ素知らぬ顔をして嫌味や罵倒を受け流した。
彼女をあの場所から救いたいとか、選ばれて贔屓をされたいとか、おこがましいことは思わない。全部は自己満足だ。誰よりも僕自身が、彼女の隣にいるための自信を得たかっただけなのだ。
「だから君に応えてほしいとは考えていない。ただ知っていてほしいんだ。……その覚悟が出来るまで、物や花に頼って本心を伝えなかった僕を許してくれ」
彼女の領域。小さな寝室で片膝をつき、指先まで可憐なその手を取る。ランプに照らされる、驚きに満ちた顔を見上げながら心からの言葉を贈った。
「僕は君を、誰よりも一番愛している」
情けないほど緊張で震えた声だった。彼女は何度か瞬きをした後に、やわらかく目を細めてくすくすと笑った。その姿に思わず息を飲む。見上げた先にいたのは、いつも誰かから向けられる感情を微笑みで躱す女ではなく、夢見るように甘い眼差しを持つ乙女だった。
「応えなくていいなんて、随分つれないことを言うのね。わたしはその言葉を聞く時を、そしてあなたにこの言葉を伝える瞬間を待っていたのよ。――わたしもあなたを愛しているわ。どうか、あなたの世界へとわたしを連れ出して」