『風が運ぶもの』
春の初めに君と出会った。
ポニーテールを揺らしながらランニングをする彼女を見かけたのは、家から徒歩10分の大きな公園だった。
サッカー場や野球場が併設され、サイクリングやランニング用の道が整備された公園のベンチに僕は座っていた。
2キロ走っただけでヘトヘトになり休憩していた僕の目の前を爽やかに駆け抜ける彼女の姿が印象的だった。
脂肪でぷくぷくに太った僕と違い、彼女の手足はしなやかに長く、筋肉で引き締まった身体が美しかった。
しばらくして彼女がまた僕の目の前を通り過ぎる。
その軽やかな姿につられて僕も彼女の後ろを走り始めた。
彼女に追いつこうとして、僕は無様に転んだ。
ズデン、と大きな音を立てて転んだ。
彼女は音に振り向き大丈夫ですか?
と僕に手を差し伸べてくれた。
ふんわりと柔軟剤に混ざって汗の匂いがする。
美人は汗もいい匂いなんだな、と変態じみたことを思いながら立ち上がる。
あれから数日後、僕は毎日彼女を求めて公園に走りに来ていた。
風の強い日だった。
また3キロ走ってクタクタになり、ベンチで休憩していると風でなにかが飛んできた。
それは以前嗅いだことのある匂いのするタオルだった。
もしや、と思うと予想は的中。
彼女が駆け足で僕の元へ来る。
風が、彼女を運んでくれたみたいだ。
風が運ぶもの、それは恋なのかもしれない。
そんなことを思いながらまた彼女と走り出した。
2025.03.06
17
『約束』
幼なじみが病気になった。
長い間苦楽を共にした親友で戦友で盟友だった。
あいつが中学の時に初恋の失恋で泣いた時も、高校で告白のお膳立てをしたのに3日で浮気され別れた時も、大学で遊んでる女に引っかかりそうになった時も、俺はずっと隣にいた。
やっと気の合う恋人と出会え、結婚の報告を受けたのも俺が1番最初だった。
もちろん付き合う前から相談は俺がのっていた。
幸せになれよなって一緒に涙も流した。
それなのに今、何故かこいつは無機質な部屋でベッドに横たわり動かない。
サッカー部で鍛えられた身体もすっかり痩せ細り見る影もない。
将来に希望が無いから、と彼女と別れたあとは以前にも増して衰弱していった。
あまりにも見てられなかった。
幼なじみが病気になって3年が経った。
もう長くないそうだ。だから最期に1つお願いを聞いて欲しい。
2人の思い出の大きな桜の木のある公園を、俺はゆっくりと車椅子を押しながら歩く。桜並木を抜けた先にある見晴台で押すのを止める。
「それで、お願いってなんだ?」
しばらくしてあいつは死んだ。
苦しい闘病の末とは思えないほど穏やかな顔をしていた。
あいつの好きだった青色の花束を持って墓参りをしている間、俺はあいつとの約束を思い出す。
「あのな、俺を殺して欲しいんだ」
「は?」
「お願いだ」
「だって、何言って…」
「理由は聞かないでくれ」
やめてくれよ、そんな笑顔で言うなよ。
桜の満開が過ぎ、ピンクの絨毯を作る頃。
あの人同じ公園に俺らはいた。
そしてあいつは懐から薬の入った小瓶を渡してきた。
何の薬かは分からないが、あいつの表情で悟る。
そして俺は、震える手で薬を飲ませた。
ありがとう
あいつの口がそう動いたことに気づいてどうしようもなく叫びたくなった。
なんでこいつが、なんで、なんで、なんで!!
後悔はしていない。
してはいけない、と思っている。
してしまったら、あいつの覚悟を無駄にしてしまうと思ったからだ。
それでも病気になったのがあいつじゃなければ、とは考えずにはいられない。
2025.03.04
16
『ひらり』
彼女と出会ったのは雪の降る寒い日だった。
今年2度目の雪の日でハラハラと舞う白い塊を目で追っていた。
暖房の効いたカフェでコーヒー片手に本を読んでいた僕はそっと伸びをして、時計に目をやった。
15時28分。そろそろおやつの時間だ。
ここのカフェのケーキを食べたことはまだなく、ショーケースの前で悩んでいた。
チョコレートケーキにモンブラン、ミルフィーユも捨て難い。
どれも美味しそうでうーん、と唸っていていると
後ろから突然女性の声がした。
「もしお悩みでしたら、この桜のケーキがおすすめですよ。期間限定なんです」
そう話しかけてきた。それが、彼女だった。
一瞬誰に言っているのか分からなかったが目がぱっちりと合い、ニコッと微笑まれてしまったらもう
「それならこのケーキにします!」
と言うしかない。
それから彼女とは何度かカフェで偶然会うと話すようになった。
雪が溶け、桜が舞い散る頃になった。
期間限定のケーキが明日で終わりとなった今日、僕は彼女に告白しようと思っていた。
カフェで彼女を待って2時間が経つ。いつもなら15時半頃に来るはずが、16時になっても何時間経っても、彼女がカフェに現れることはなかった。
彼女の連絡先は知らず、会う手段はカフェしかなかった僕には為す術もなくそのまま家に帰った。
あれから毎日僕はカフェに通ったが、彼女が来ることはなかった。その1年後僕は別の街に引っ越すことになった。
カフェに行くことはもう無くなったが、この季節になると毎年思い出す。
本を読む手を止め、空を見上げる。
白い花弁がひらりと舞い落ち、そっと地面に触れるとじんわり溶けて消えてなくなった。
2025.03.03
15
『誰かしら?』
ある日突然、貴方が私を忘れた。
なんの前ぶりもなく貴方が目を覚ましたら私のことを覚えていなかった。
「貴女は、どちら様でしょうか?」
そう問われた私は強いショックを受けた。悲しいやら驚きやらで感情がぐちゃぐちゃになった。
思い当たるきっかけは特になく、強いて言うのなら昨日のこと。桜を2人で見に行ったあとからなんだか変な違和感を彼に覚えたことくらいだった。
それも大したことはなく、ただ少し、いつもより疲れてそうだっただけである。
「私を、忘れてしまったの?」
そう問うと、貴方は申し訳なさそうに眉を下げて
「申し訳ない。どうにも思い出せなくて」
と言った。困った時に首に手を当てる癖はそのままのようだった。
それから彼に私たちが夫婦であったこと、出会ったきっかけ、昨日は何をしたかなどを説明した。
しかし、出会った場所も時間帯も、昨日桜を見に行ったことも彼は全て覚えていた。
私だけが、彼の記憶から消えてなくなっていた。
それから一年が経ち、また桜が咲いた。
それでも彼は私を思い出すことは無かった。
彼とあの日と同じ場所の桜を見に行くことにした。
そうすればなにか思い出せると思ったからだ。
一年前とは違う距離感で桜並木を歩く。
青空と桃色のコントラストが美しく、どこかに誘われてしまいそうな錯覚を覚える。
花びらが散るのがゆっくりに感じられた。
次にまぶたを開くとそこは見慣れた家の天井だった。
えっと、私どうしてここに?
彼に私を思い出させるために桜を見に行って、それで……彼って?
起き上がると見知らぬ男性が水の入ったコップを持って立っていた。
「目が、覚めたのか」
「貴方は、誰かしら?」
2025.03.02
14
『芽吹きのとき』
貴女と出会って五年が経ちました。
笑顔の可愛らしいあなた。
花がお好きだと仰っていたのをよく覚えています。
春は河川敷で満開に咲く桜を
夏は駅近くの向日葵畑へ
秋は谷に咲く彼岸花で
冬は雪の被る椿
四季折々の花をあなたと一緒に楽しみました。
花畑でスカートをヒラヒラさせて歩く貴女の後ろ姿をお慕いしておりました。
出会って二年目の春に私はあなたにプロポーズをしました。
顔を真っ赤にして薔薇の花を九本束ねた花束を差し出しました。その手は震えていて格好良いとはあまり言えませんでした。
そんな私に貴女は微笑み頷き、花束を受け取ってくれました。そして貴女はそのまま薔薇に顔を近づけ目を瞑りそっと香りを感じました。その姿が私には美しく非常に尊いもののように感じました。
出会って三年目、私たちは別れました。
お互いを愛するまま私たちは離れなければなりませんでした。
今日で出会って五年目の春です。
別れてから二年目の春です。
私は貴女に会いに行きます。ずっと怖くて足をなかなか運べなかったのですが、やっと貴女に会う心づもりができました。
満開の桜の下に静かに佇む貴女。纏う雰囲気はあの頃と同じ優しい花のようでした。
私はそっと石を撫でました。
貴女が下に眠る石を。
ひんやりとして硬くて、昔のような柔らかさはありませんでしたが確かに貴女はそこにいました。
ふと見ると、墓石の隅に双葉が生えているのが見えました。
芽吹きのとき、私はまた貴女に出会い別れたあの日から止まった時間が進み出すのを感じました。
2025.03.01
13