『風を感じて』
彼女は自然を愛する人だった。
穏やかな陽の光、小鳥のさえずり、草木の匂いと散る花弁、寄せる波とどこまでも広がる青空。
彼女はよくこう言った。
「私も自然の一部になりたい」
生命力に溢れた自然と同じように私もなりたいと。
そう言う彼女の瞳は自然と同じ力強さを秘めていた。
彼女が自然を感じるのは決まってガラスを1枚隔てた世界からだった。
ベッドの上から雲の流れを見つめ、水平線のきらめきを見つめるだけだった。
しばらくして起き上がることができなくなっても、彼女は自然を愛した。
触れられない自然を、息をすることでしか感じられない世界を愛していた。
「波の冷たさを、空の高さを、風の揺らぎを、いつか私も感じられるかな」
そう涙を流す彼女の手を握り、僕は約束した。
「大丈夫、約束するよ。僕が叶えてあげる」
嬉しそうに、寂しそうに、ふわりと笑う彼女はそのまま深い眠りについた。
そして僕は今、海岸へと続く階段を降りている。
約束を果たすため、彼女と手を繋いで降りていく。
潮の匂いの混ざった風が優しく頬を撫でる。
僕は彼女に微笑みかけてそっと手を離す。
彼女がふわりと宙に舞う。
さらさらと風と混ざって自然に溶ける。
僕はこの先ずっと
風を感じて、彼女を感じるのだろう。
2025.08.09
41
『夏』
今から三年前、高校二年生のときのこと。
潮風が柔らかい黒髪をさらい、じっとりと汗をかいたうなじが露になる。
こめかみを伝う汗をバレないように横目でそっと見つめる。頬の輪郭を撫で、首までゆっくりと流れるそれに浮かぶ感情をぐっと抑える。
溶けたアイスクリームが君の手に流れる。雫となって垂れる前に君の舌でそっと舐め取られる。
生唾を飲み込んで僕の喉仏が動くのがわかった。
「美味しいね」
そう言って笑う君は、まるで向日葵のようで夏が良く似合っていた。
君は海が好きだと言っていた。寄せる波の音も潮風の匂いも、陽の光に反射して輝く水平線が好きだった。
スカートの裾をあげて裸足になり、そっと波に足を踏み入れた君は冷たいと言いながら気持ちよさそうに目を閉じた。
僕もそれを真似てズボンを捲り、靴下を脱いで隣に立つ。
足を撫でる波が心地よくて、君の隣に立っていられるこの時間がずっと続いて欲しかった。
その夜に君は姿を消した。
あまりにも突然だった。
あの日、僕らは僕と君の家の分かれ道でいつものようにまたねって言い合ったのに。
いつもと変わらない笑顔で、確かにまたねって。
それじゃあ、どうして?
どうして君はどこにもいないの?
君はどこに行ってしまったんだろうか。
あの水平線に飲み込まれてしまったのだろうか。
それならば、どうか、どうか僕も連れて行って欲しかった。
君の消えた夏がまたやってくる。
僕はまだ、あの日に取り憑かれたままだ。
2025.07.14
40
『雨上がり』
雨が好きだと言った君は、雨に殺された。
透明な傘をクルクルと回しながら前を歩く君は、踊るように歩いて水溜まりをパシャリと踏んだ。
下校時間の夕暮れ時。
静かに降る雨に少し白っぽい橙の夕焼けが反射する。
不意に君は振り向いて僕に言う。
「世界最後の日は雨がいい」
そう言ってまた傘をくるりと回す。
僕はそんな最後の日は御免だと思った。
雨は嫌いだ。
服は濡れるしジメジメしてる。生まれつきのくせっ毛は本領発揮していつもの倍はくるくるになる。
さらさらとした黒髪を揺らしながら、彼女はふふっと笑う。羨ましい限りだ。
その日の夜。君は死んだ。
本当に世界最後の日になってしまった。
それを知ったのは翌日で、よく晴れた朝だった。
昨日の雨が嘘のように、太陽がうざったいほど輝いていた。
彼女はきっと雨の神様に魅入られてしまったのだろう。
目立った外傷はなく、眠りについたまま目を覚まさなかったらしい。
どこかのプリンセスと同じでキスをしたら目が覚めるんじゃないか、なんて思ったが僕にそんなに資格はない。
だからきっと彼女は連れていかれしまったんだと僕は思う。
雨の神様に見初められて、雨上がりとともに君も連れてかれたんだ。
雨が好きだと言った君は、雨に殺された。
だから僕は、雨が嫌いだ。
2025.06.01
39
『空に溶ける』
ほのかに揺らいだ水面に自分が映る。
パッとしないなんとも情けない顔だ。
不意に魚が顔を出し、滑らかな鱗をキラリと光らせて水底に沈むんでいく。
自分の顔がぐにゃりと崩れていく。
遠くではカモの夫婦が寄り添い浮かんでいる。
穏やかな昼下がりだった。
空は淡い水色で白い月が浮かんでいる。
雲は風にゆっくりと押し流されていく。
頭の奥からぼんやりと幼い頃の記憶を思い出す。
僕らは露に濡れることもいとわず野原に寝そべって空を見上げている。
穏やかな風がそっと頬をなでる。
そう、まるで今日みたいに気持ちのいい日だった。
隣りには君がいて、瞼を閉じて世界を感じた。
土や草の匂い、そよそよとした風の音、鳥のさえずりと魚の跳ねた水の音。
そして、君の柔軟剤。
君は流れる雲を見つめ
「龍がいる」
と呟いた。「龍?」と僕が聞き返すと君は雲の塊を指さしもう一度
「あそこに、龍がいる」
と言った。確かにそれは、龍だった。
悠々と空に浮かぶ龍を僕らは眺めていた。
ポチャンと魚が跳ねる。
スーツが汚れるのも気にせず、黒いネクタイを解く。無駄に大きく成長した身体であの日と同じように寝そべる。
流れる雲を見つめていると、だんだんそれは形を変えていき大きな龍となった。
驚いた。大人になってしまった自分にはもう見ることは叶わないと思っていた龍がいた。紛れもなくあの日見た龍だった。
君にも見せたかった。視界が滲んだと思ったら頬が濡れた。龍はゆっくりと空に昇って消えていった。まるでじんわりと熱が冷めるかのように溶けていった。
そして二度と姿を見せることはなかった。
2025.05.20
38
『ラブソング』
その昔、私には愛する人がいました。
少し赤みがかった茶髪に色素の薄い瞳、ブラウンの柔らかい色のメガネが良く似合う人でした。
出会いは大学のサークルでした。
それは文化祭の実行委員会で総勢100人ほどの大きなサークルでした。
5月の爽やかな風が気持ちいいある日の昼下がり、私は入部届を出そうと部室に向かいました。
少し立つけの悪いドアをゆっくりと開けると、そこには誰もいませんでした。
電気は点いていない部屋は少し仄暗く、しかしそれが落ち着く明るさでした。窓からは日が差し込んでいてホコリが反射してキラキラと輝いていました。
私は荷物をいくつかある椅子の適当なところに置いて、部室内を観察しました。
壁にはたくさんのポスターと写真が貼り付けてあり、そのどれもに眩しいほどの笑顔が写っていました。
ふと、一枚の写真に惹かれ手を伸ばしました。
その時、ガタンッと扉の開く音がして反射的に振り向くと背の高いメガネの男性が立っていました。
それが、貴方でした。
あれから私は貴方に猛アピールをしましたね。
偶然を装って授業終わりに会ったり、コンビニについて行ったり。今思うとストーカーだとか、うざったい存在だったと思います。
それでも優しく笑ってくれた貴方の、そんなところが好きでした。
貴方の卒業の日。
私は貴方に曲を送りました。
昔から趣味で作詞作曲をしていて、その話をしたら貴方がぜひ聞かせて欲しいと言い約束をしていたのです。
これは私の最初で最後の人に贈った曲です。
私の精一杯の、等身大のラブソングです。
もう二度と作ることは無いでしょう。
貴方のいないこの世界では、私の作るラブソングなんてなんの価値もないのです。
どうして私を置いていったのですか。
優しすぎるのも困りものですよ。
それでも、私は貴方のそんなところも愛しちゃうのですから、お互い様ですね。
もう一度会う時には、また曲を作りますね。
貴方の為だけのラブソングを。
2025.05.06
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