湯船遊作

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4/10/2024, 11:41:50 AM

春爛漫

目覚めると朝で、ゴミ捨て場だった。
私を避けるようにゴミ袋があって、起き上がると大の字ができていた。
粗大ゴミ置き場に保冷バッグが横たわっている。
どうしてここに?
身体中からアルコール臭がする。それと、燃やす予定のゴミの臭いも。
こめかみを押さえながら、昨日を思い出す。

眠い。
瞼を擦って左腕を見る。短針は午前7時を指していた。花見まではまだ2時間もある。それまでの間、肌寒さに身体を震わせながら、花弁の小雨を眺めなければならない。
私は花見の席取りを任された、5時起き6時到着のブルーシートマンだった。
まったく。
日曜日なのに出社するよりエネルギーを使った。こういうのは新入社員の仕事と、暗黙の了解かあったはずのなのだが。
しかし、仕方がない。昨日の夜。急にその暗黙の了解に従う後進達が不憫になって、「家から近い」と口走ってしまったのは私だからだ。
しかし。いやしかし、やはり許せん。それはそうとして、許せん。
だから私はカパッっと音を立てた。この音を聞くだけで今が夜な気がする。麦芽の匂いがして、飲み口に桜がついた。
「おっとっと」
沸き立つ泡に一人芝居して、喉に通した。
「その味がわかるようになったら大人だよ」
学生時代の、にへらにへらしていたミステリアスなショートカットを思い出した。
「ええ! じゃあ僕、子供ってことですか」
「そうだよ、僕」
「……いまから私にします」
「似合わないぞ、僕」
「それじゃどうすればいいんですか! 」
「どうもしなくていいよ、僕」
先輩はまたにへらにへら笑って、そうして卒業していった。
「僕は辞めちゃったの? 私」
なんでそう言ってくれなかったんですか。私は僕の方が良かったって、貴方は思っていたでしょうに。そう言ってくれれば、私はまた僕に戻ったのに。
お陰で私は、あれからずっと私ですよ。
ブルーシートの右端が折れていた。それを正そうと思った。
保冷バッグを持つ。と、重い。当たりを見回して、知り合いはいない。
秘密の扉を開けるみたいにバッグを開けて、350mlを取り出した。
1本分軽い。よし。ブルーシートを正すと、随分軽くなった気がするバッグをその上に置いた。
また、パカッっと音をさせた。

……その後は確か、一番最初に来た新人が空き缶を片付けてくれて、私は空を見ていた。あとはもう上を見たり下を見たりしながら、夜になった。
左腕を見る。朝6時で、今日は月曜日だ。
酒臭い欠伸をシャツの袖で隠す。
するとボタンの横にサクラの花びらがついていて、こりゃ豪華だなって、僕は笑った。

12/7/2023, 3:19:04 AM

逆さま

高校入学してすぐ。部活・同好会説明会でのことだった。
「来なくていいよ、うちにはさ。サッカー部とか、吹奏楽部とか、華々しいとこあるから。そっち行った方がいいと思う」
束ねた黒髪を真っ直ぐ降ろした人だった。
彼女は他の部活を見に行けとでも言うように、ほっそりとした白い腕をふらふら振った。
何かを諦めたようにたまらなく冷たい言葉。目尻は緩んでいる。世相から外れた様はどこか魔術的な魅力を持っている。
僕は宙ぶらりん同好会に入会を決意した。

その日の放課、文化棟最上階。廊下は使わない教材の入ったダンボールがところどころに山積みされていた。下階と違って人がいない。静謐が一体を支配している。
その最奥。世界の隅っこのような場所に、宙ぶらりん同好会の会室はあった。
「反対になってる……」
『宙ぶらりん同好会』と書かれたプレートが、逆さに吊られている。
僕はドアを叩いた。
「どちら様ですか」
ガラガラ
開くと、あの時の先輩が眉をひそめて僕をじっとみてくる。背筋をピンと張っている。
「新入生です!」
「……何しに来たの?」
「青春しに」
「馬鹿じゃないの」
先輩はぷいっと背を向けて中へ戻って行く。アップルミントの匂いがほんのり漂った。
「彩珠ちゃん! ……ごめんね。彼女、不器用なんだ」
代わりというように、男の先輩が出てきて言った。彩珠先輩っていうのか。放課なのに、セットしたばっかりみたいに整った髪をしていた。
「大丈夫です」
僕は言った。
「小嶋(こじま)といいます。新入生だよね?」
「はい」
「来てくれて嬉しいよ。いや、ほんとに」
小嶋さんは胸をなでおろした。
「説明会でキツイこと言われなかった? 」
「いや全然」
「そりゃよかったよ。彩珠ちゃん、言葉が悪いとのあるから。……立ち話もなんだから、ささっ、中へ」
会釈して中へ。辺りを見回す。ドア側にロッカーや棚が、窓側に長テーブルがある。彩珠先輩は椅子に座って窓外を眺めている。夕日が当たって眩しそうだ。
テーブル上のお菓子とマグカップが風景によく馴染んでいた。ここだけ時間がゆっくり進むような、そんな気がした。
「そこの椅子にどうぞ」
小嶋さんはやけに低姿勢に言った。
「ありがとうございます」
座るのを見計らって僕も座る。
「彩珠ちゃん。黄昏てないで」
「黄昏てる訳じゃありません」
「じゃあスカイフィッシュ?」
「スカイフィッシュ探してる訳でもありません!」
「照れてるんだって。説明会上手くやれなかったって言ってたから。来てくれて嬉しいよね」
小嶋さんは独り言のように言った。彩珠先輩はキッと小嶋さんを睨んだ。
「彩珠ちゃんの自業自得だよ。黄昏てることにしてあげようと思ったのに」
「そんな事頼んでません。それに、黄昏るなんて変な人だって思われるかもしれないじゃないですか! 」
「そうかなぁ?」
「そうですよ!」
聞いている限り、小嶋さんが3年生で、彩珠先輩が2年生なんだろう。
「ほら、彩珠ちゃん。新入生くんが暇そうにしてるから。何か話してあげないと」
小嶋さんはおせっかいな母のように言った。
「新入生くんって酷いですよ! 名前聞いてないんですか!」
「……うっかりしてた」
小嶋さんは頭の後ろを撫でながら言った。
「『うっかりしてた』じゃないですよ! 」
「ごめんごめん」
「『ごめんごめん』じゃないです! 」
彩珠さんは小嶋さんがわざと名前を聞いていないことに気がついていないらしい。
「……霧払 彩珠(きりばら いりす)。君、名前は?」
彩珠先輩は俯いて言った。
「夏寄 冬喜(なつより ふゆき)です」
「ふーん……」
彩珠先輩は鼻を鳴らすと、黄昏に目を向けた。眩しいのか、大きな目を細めている。白い肌は赤みを帯びていた。
「『ふーん……』じゃ駄目でしょ! 彩珠ちゃん、先輩なんだから」
小嶋さんは言った。
「新入生の自主性を育てようとしてるんです」
「早すぎるよ! というか一方的すぎるよ!」
2人のやり取りは楽しそうだ。あの時の直感は正しかった。ここならば僕の望む学生生活が送れる。
「彩珠先輩、でいいですか?」
「……なんでもいいよ」
「じゃ、彩珠先輩って呼びますね!」
「……君はなんて呼べばいいの」
「なんでも構いませんよ」
「困るんだけど」
「じゃ、夏寄で」
「……夏寄くんね」
彩珠先輩は俯いた。
「夏寄くん。僕のことは小嶋先輩と呼んでくれ」
「小嶋さんは小嶋さんがいいです」
「なんで!」
「小嶋さんっぽいから」
小嶋さんはガクッと肩を下ろした。
「夏寄、いいね」
彩珠先輩は意地悪に笑った。
「小嶋さんっぽいですよね」
「うん。小嶋さんっぽい」
「でもずっと小嶋さんって呼ぶのも他人行儀な気がしません? 」
「わかる。そういう時はコジコジって呼んでるよ」
彩珠先輩は口角を緩めて言った。
「コジコジですか」
「そそっ。昼休み遭遇した時に『コジコジ、ジュース奢って』みたいな」
遭遇って。エイリアン見つけたみたいな言い方じゃないか。小嶋さんには悪いけど……。
「黙って聞いてれば酷くないか。夏寄くんも笑って! 」
小嶋さんは全く調子を崩さない笑顔で言った。
「すみません小嶋さん」
「コジコジごめんね」
「まったく……」
小嶋さん全然怒ってない。むしろ喜んでるまである。何となくそんな気がしたから小嶋さん呼びにしたんだけども。
「ほら、夏寄くん。一応、活動内容を話すね」
「いいよコジコジ。夏寄なら入ってくれるよ」
「彩珠ちゃんの仕事でしょ! ほら、ちゃんと教えてあげて」
「……話すことなくないですか? 小嶋先輩、お手本見せてください」
「しょうがないなぁ……」
彩珠先輩は僕を見て眉を上げた。困ったことがあったら先輩呼びするといいらしい。
「じゃ、説明するね。宙ぶらりん同好会の活動目的は『逆さまから物事を見ること』です。噛み砕くと、世間と逆さまのことをしてより物事を深く見て、知り、考えることかな。例えば、皆が右を見たら左を見ます。青シャツが流行っていたら白シャツを着ます。私生活には取り入れなくていいよ。ここだけの話、形骸化してるから」
皆と逆さまのことするの大変ですもんね。とは言う気にならなかった。
「で、活動内容なんだけど。『会話より汲み取れるあらゆる推定を思考しつつ、積極的なコミニュケーションを取り社交性を身につける』です」
「つまり? 」
「『会話より汲み取れるあらゆる推定を思考しつつ、積極的なコミニュケーションを取り社交性を身につける』」
小嶋さんは笑顔で静止している。つまり、何もしない雑談部らしい。僕は頷いた。
「理解が早くて助かるよ。活動日は毎週火・木・金曜日。夕方5時から7時までって一応決まってます。基本もっと早くからいるけどね。学校外の活動があれば僕に言ってね」
「はい」
「それで、入会届だね」
小嶋さんは屈むと、もそもそと動いてバッグから取り出した。
「来たら渡す決まりになってます。入ってくれると嬉しいな。要らなかったら捨ててくれて構いません。連絡も要らないからね」
小嶋さんと彩珠先輩は僕から視線を逸らした。今日みたいなことをずっと続ける同好会なんだろう。U18とか、甲子園とか、目的がある新入生には暇で仕方ないだろう。
だから入会を断られてばかりなんだ。
僕はペンケースからボールペンを取り出した。
「説明会の時から入会を決めてました。いま書いてもいいですか?」
小嶋さんは口をすぼめた。
時計は18時を指している。地平線に落ちかけた夕日が、彩珠先輩の顔を真っ赤に染めた。

11/13/2023, 2:56:30 PM

また会いましょう

地球から真っ直ぐ、アンドロメダ銀河を抜けてどこまでも。星間1号線に終わりは無い。日々膨張し続ける宇宙と同じスピードで道路は伸び続ける。
終わりない道路の先が見たくて、僕は5年前から軽星間走行車(うちゅうようバイク)に跨っている。
「馬鹿なことを考えるやつだな」
友達の言葉を思い出すには、これまで走った道を双眼鏡で4光年見返さないといけない。もうきっと会えないから、僕は前を見る。
道路を真っ直ぐ横切る道灯の列が見えた。
「交差点か」
星間101号線と唯一の交差点。
交差点には星間走行車のエネルギー補給ステーションがある。僕はエンジンを思い切り吹かして、ステーションに向かった。
「ゴショモウノ サービスハ ナンデスカ」
相変わらず無愛想なロボットだ。
各ステーションには全く同型の補給用ロボットが常駐している。わざと機械音声風に作っているらしく、聞く度なんだか笑ってしまう。
僕はいつも通り光子エネルギーの補充と、1ヶ月分の食料、休憩用にブルーベリージャムベーコンサンドを注文した。
「いい趣味してんじゃん」
背後から声がした。
「ロボ。私にもブルーベリージャムベーコンサンドを頂戴。ベーコンはカリカリにね」
「カシコマリマシタ」
ロボはカウンター奥へ颯爽と抜けていく。
振り向くと、そこには赤毛を肩まで伸ばしたラフな格好の女性がいた。
「誰?」
僕は言った。
「ギンガノ・ワタリドリ。キミは?」
嘘つけ。だから僕は、
「スーツケースノ・ワタリドリ」
と言った。
「スーツケースって呼んでも?」
「勿論。ギンガノ、でいいよね?」
「もちろん!」
フフフ――…………。
ウフフ――…………。
なぜだか分からないけど、僕と彼女の目的は同じで、お互いそれを察した気がした。
「ギンガノは何処から?」
隣に座った彼女に僕は言った。
「森の星から」
「森の星?」
そう聞くと、彼女は人差し指を口の前に立てた。
「それもそうだね」
「分かってくれて嬉しい」
彼女は寂しげに言った。
僕たち旅人は、昔のことをあまり話さない。行き先が帰り道になってしまう気がするから。
「スーツケースはどこから?」
ギンガノは
「水の星から」
「……それじゃ分かっちゃうよ?」
「まぁ、いいじゃんか」
「……それもそうだね」
僕と彼女にブルーベリージャムベーコンサンドが届いた。
「いただきます」
手を合わせ、一礼した。
「丁寧だね」
ギンガノは上目遣いで言った。
「今日は特別だから」
「カッコつけたい相手、いるんだ」
「まぁね」
ウフフ……
彼女も一礼した。
「丁寧だね」
僕は目を逸らして言った。
「特別らしいからさ」
「合わせたい相手、いるんだ」
「まぁね」
フフフ……
僕と彼女は同じタイミングでサンドにかぶりついた。
「なんだ。僕の真似?」
「私の真似でしょう?」
「かもしれないね」
「私も、君の真似な気がしてきた」
「適当言って」
「それがそうでも無いんだよ」
彼女は優しく微笑んだ。
……。
「ギンガノも、宇宙の先が見たいの?」
「うん。それも、101号線の先が見たいの」
「そっか」
「スーツケースも?」
「うん。1号線の先が見たくて」
僕は彼女を見ないで言った。お互い妥協点は無さそうだ。じゃあ、言えることなんてもうないや。
一緒かはともかく、隣を見ながら目指したかったんだけど。
「ロボ。僕のサンド、ホイルで包んでくれないか」
「カシコマリマシタ」
ロボットは僕のサンドをあっという間に持っていく。ちょっとくらい待ってくれてもいいのに。
「私もそうしようと思ったのに。早いのね」
「……」
「……ごめん。言い過ぎちゃった」
彼女は微笑んだ。もちろん、僕も。
「僕も言いすぎても?」
「うん」
「カササギ・ツカサ。本名。ギンガノも、良ければ教えてくれない?」
彼女は視線を下ろすと、少ししてから上げた。
「……ナギウミ・カモメ」
「カモメ」
「なに?」
「また交差点で」
「……うん。また交差点で」

11/11/2023, 3:34:01 AM

ススキ


ある夜の野原。
その日は風が強く、ちょっとやそっと話してもヒトには聞こえない。
だから、第1回ススキ会議は紛糾した。
「かの毛無し猿共は我らの身体を踏み折るのだ! これ以上、黙って同胞の死を見とることなどできぬ! よって、猿共が触れたら泡を吹くような毒を、我らは持つべきである!」
穂先が紫がかったスズキは言った。
彼は五体満足派と呼ばれるススキの過激派で、ヒト科ヒト属ヒトを毛無し猿と呼ぶ品のないやつだ。ファッションと称した紫ツンツンの穂先は、ヒトを怯えさせ近づかせないようにする武器らしい。
「そうは言うがね。そんな強毒を我らは内包し、かつ、これまで通りの生活ができるというのかね」
私は言った。
「不可能では無い、と考えています」
紫ツンツンの隣、やけに鋭い葉っぱのススキが言った。
「過去、私たちはセイタカアワダチソウ共の毒に犯され根を枯らしていました。しかし現在、私たちにとってかの毒は水をすするように取り込んでいます。よって、長期的観点から、強毒を取り込み、これまでの生活を遅れると考えます」
「ふざけるな!」
私の隣、まだ若い種子を身につけたススキは言った。
「アンタの言い分だと、ようは幾らかの俺たちは死んじまうんだろ! 」
「……ええ」
「ふざけるな! 俺やお前はともかく、じいさんや紫ツンツンだって倒れる可能性があるんだ! そんな不確定で危ない橋を、ススキ全体で渡ろうだなんて間違ってる! 」
……ふむ。
気持ちは嬉しいのだが、少し言葉が強すぎる。第1回ススキ会議は主張をぶつける場であるが、否定する場では無い。――まだ若いからであろうが。
案の定、
「ふむ。間違っている、とは?」
と鋭い葉っぱのススキは言いながら、ケイ酸を葉先でふしゅふしゅとたぎらせている。
「まぁまて」
私は言った。
「毒を持つことはヒトへの対応策の一つとして効果的だろう。だから、毒を持った後、ヒトがどんなことを考えるのか、考えようじゃないか」
「……ええ。それもそうですね」
鋭い葉っぱのススキは言った。
「それじゃ!」
若い種子を身につけたススキが言った。
「君の気持ちは本当に嬉しいのだよ。だけどね、私たちはもしかしたら、ヒトの手によって絶滅するかもしれないんだ。その危機に耐えるための毒で死んでしまうのなら、私は構わないのさ」
「……」
「それで、どうかね?」
「はい。人に対する毒を持つことで、人に刈り取られる可能性があります」
鋭い葉っぱのススキがそう言った瞬間、
「どういうことだ!」
と紫ツンツンは言った。
「触れられないための毒があるのにどうやって刈り取られるというのだ! 」
「彼らは道具を使います。鋭い刃は彼らの手を汚さずに、私たちの身体を、首を、いとも容易く断ち切るのです」
その言葉に議会の誰もが絶句した。
毒を持ってなお……。
勿論ヒトが道具を使うことを、知らなかった訳では無い。
どう、どうすれば……。
満月が頂点に達した。
「ここまで! 本日のススキ会議は終了! 続きは次の月が満ちるとき。以上。解散! 」
これまでじぃっと黙っていた背のいちばん長い議長ススキが言った。
すると風はふと止んで、荒野はすっかり静かになった。

11/8/2023, 3:16:57 PM

意味がないこと

僕は久しぶりに、鳥の鳴いているタバコ屋へ行った。
店主のお爺さんは相変わらず店先に立って居ない。呼び鈴を鳴らさねば裏から出てこないのだ。きっとドラマでも見て時間を潰しているんだろう。
でもそのお陰で、僕はじっくり銘柄を見られる。黄色いラクダ。引かれた矢。オリーブに鳩。白地に北斗七星。
ちょっと前までタバコにうるさいヤツがいて、このタバコ屋に通っていた。

「『あばばばば』って吸いたくてね」
そいつはまた訳の分からないことを言い始めた。
「何の話?」
僕は眉をひそめた。
「おいおい。タバコ屋の前で『あばばばば』って言ったらバットに決まってるじゃないか」
「バット?」
「ゴールデンバットだよ」
全く彼はどこから仕入れてくるのかよく分からない雑学の蒐集家で、その日はゴールデンバットなるタバコの話をしているらしい。
「中原中也って授業でやったろう」
「聞いたことはあるような……」
「有名人だぜ? 杜甫、李白、白居易が唐の三大詩人なら、中也は昭和の詩を一手に担った詩の聖人さ」
自慢げに彼は話した。
こいつはいつもこんな調子だ。僕の知る有名人はテレビでコミカルに話す人達だ。教科書の人物じゃない。でも彼はその逆だ。俳優とかアイドルとか、そういう人たちの名前を一切知らない。
「中也の慣れ親しんだそのゴールデンバットを、僕は吸いたいんだよ」
「ふーん」
なにがそのだよ。どうせ憧れてるんだろう。彼はカッコつけ屋だから言わないだろうけど。
話を聞いていたのか、店の奥からお爺さんがのそのそやってきた。
「ゴールデンバットは無いねぇ」
「そんな……」
彼は肩を落とした。そんな落胆ある?
それっぽいことをしてみて、強がっているらしい。ゴールデンバットを吸って見たかったんだと思う。
「……。それじゃ、ピース缶ください」
「丸缶ね。はいよ」
彼はピース缶を受け取った。
どこか表情が暗い。よっぽどだったみたいだ。
「タバコなのに缶に入ってるんだ」
「うん。内蓋があってね、開けるとほんのり上品なバニラの匂いがするんだよ」
「ふーん」
「かの三島由紀夫が愛したタバコでね……」
そんなやり取りを、僕たちは毎週やっていた。

チリンチリン――
僕は呼び鈴を鳴らした。
「お客さん久しぶりだね。あれっ? いつもの元気な人はいないのかい?」
お爺さんは相変わらず、寝癖のまま奥からやってきた。
「ええ。オンライン出社ってやつに切り替わったらしくて、毎月引っ越しては色んなところで仕事をしてるんです」
「へぇ……。全然想像つかない仕事だね」
「ライターをやってるんです。ゲームかなんかのストーリーを作ってるらしくて」
「作家さんか!」
お爺さんは頭を降った。小説家か何かと勘違いしてるのかな? まぁ、同じようなもんだろうけど。
「物知りだったからねぇ。盗み聞きするのが趣味だったんだよ」
お爺さんはニカッと笑った。
「ごめんね。久しぶりに来てくれたからつい話しちゃったよ。それで、何を買うんだい? 」
「缶ピースください」
群青にオリーブと鳩が描かれた缶を差した。
「おっ。ヤニ食いだねぇ」
「これにハマっちゃって。全部あいつのせいなんですよ」
ポケットから三島由紀夫の文庫本を出して見せると、お爺さんはまた、ニカッと笑った。

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