ジリジリと肌を焼かれる感覚
顳かみから滝のように流れる汗
屈んだままの膝は痛く
足もそろそろ痺れてきた
「何で、今やらなきゃいけないの?」
その問いに答えてくれる人はいない
ただ生ぬるい風が吹き抜けていくだけ
「暑いよぅ」
口にすれば余計に暑く
己で発した言葉に後悔する
一週間残業をしてやっとの事で休みをもぎ取った。
実家に着いたのが二時間前で、着いたそうそう着替えを渡され、麦わら帽子と軍手と鎌と虫除けスプレー
そしてタオルと凍ったペットボトルと一緒に、ここ、一族のお墓に連行された。
「クソ兄貴!」
車で私を置き去りにした人物に悪態をつく。
明日の墓参り前に綺麗にしておかないといけないって、それはわかる。
けど、何で私が?
私、さっき帰ってきたばっかりなんですけど?
ってか
「暑ーい」
田舎の墓ってやつは無駄に広く山の中にある。
かく言う我が家の墓もご多分にもれず広い。
虫に食われるので長袖長ズボン長靴の完全防御で、草が生え放題の墓と格闘すること一時間。
渡されたペットボトルは半分以上が空だ。
「ったく、お兄ちゃんがきちんと草むしりしてれば、こんなに草ぼうぼうにならなかったはずじゃんか」
昨年までは母親が定期的に草むしりをしていたらしい。
が、この春父の転勤で一緒に海の向こうへ飛んで行ってしまった。
ちょいちょい送られてくるLINEを見る限り、随分と楽しくやっているようで良かったけれど。
とりあえず、とっとと終わらせて家で涼みたい。
草を抜いて、刈って移動して、時折大きな蜘蛛や、名前の知らない虫と格闘して、ペットボトルの水が無くなった頃に草刈りも終了した。
「あぁぁぁ、終わったぁ」
あとは墓石を綺麗にして⋯⋯。
「バケツが無い!水も無い!」
キョロキョロと辺りを見回して、少し離れた所に水道の蛇口とバケツらしきものを発見。
仕方がないが歩いて向かう。
相変わらず汗は滝のように出てくる。
首周りも背中もウエストも汗でびちょびちょだ。
このままでは倒れるかもしれない。
「はぁ、気持ちいい」
バケツに溜めた水に手を浸し、タオルも一緒に濡らす。
さて、あと少しだ、頑張れ私!
たっぷりと水を汲んだバケツを汗だくになりながら運び、浸したタオルで墓石に水をかける。
「あっつい!」
黒い墓石は太陽の熱を含んで、卵が焼けそうなくらいに熱い。
タオルで拭いた傍から、水があっという間に蒸発していく。
でも、私に残された体力は少ない。
手を止めることなく墓石を拭きあげ、残ったバケツの水を墓石の上からかけて全ての作業は終了した。
「おわった⋯⋯」
早く涼みたいし、シャワーを浴びたい。
私をここに置き去りにした人物に連絡をすべくスマホを⋯⋯。
「うそでしょう⋯⋯」
着替えた時にスマホを持ってくるのを忘れた。
ポケットを叩いても、服をパタパタさせてもスマホは出てこない。
しょんぼりと肩を落として、空になったペットボトルに飲めない水を入れ、濡らしたタオルを首に巻いて、徒歩三十分の実家を目指す。
ジリジリと肌を焼く太陽を背負って、緩やかな下りの道をひとり歩く。
願わくば、気を利かせたクソ兄貴が迎えに来てくれますように。
━━━━━━━━━
(´-ι_-`) 毎日暑いデスネー
【お題:鐘の音 20240805】
都にも、街にも、村にも、人の住む場所には必ず鐘楼がある。
鐘楼には鐘の魔具が設えられており、日に二度奏でられる鐘の音が、魔物から人々の生活と命を護る。
特殊な力を宿した道具を魔具と言い、魔具を作る者を魔具師と呼ぶ。
魔具師は誰でもなれるわけではなく、己の魔力を他へ移すことが出来る者のみがなれる職業である。
そして、彼の祖父もまた魔具師であった。
「そろそろだな」
彼はすくりと立ち上がると、部屋の奥の扉を開けた。
人ひとりが通れるほどのドアを潜ると、両の手を伸ばせば壁につくほどの狭い空間に出る。
そこに設えられた、木の梯子に手を掛け彼は躊躇無く登り始める。
建物の高さにして五階分以上、部屋自体も地上四階に位置しているため、上まで登ればその高さは目も眩むほどだ。
最後の段を登り、彼は目を細める。
東側の山の稜線が薄っすらと色付き始めている。
藍色の空が次第に明るくなり、朱色に染まりだす。
じきに太陽が顔を出し、この断崖にへばりつく様にしてできた小さな村にもその光の恩恵をもたらすのだろう。
村の北側、背後に絶壁を背負うような形でこの村の鐘楼は建っている。
東側は北側から続く急峻な山、西も同じく山ではあるがこちらはなだらかな斜面で、柑橘の木が植えられている。
そして目の前、南側には数件の古びた建物と、目が覚めるほど青い色をした海が広がっている。
「今日も平和な一日でありますように」
別に決まりという訳では無いが、彼は毎日そう口にしてから鐘を鳴らす。
一際大きな鐘を三回、小さい鐘と中くらいの鐘を交互に四回、大きい鐘、小さい鐘、大きい鐘中くらいの鐘、と複雑に組合せて独特の音色を響かせる。
鐘の音は背後の絶壁に反響し、遠くの東の山にぶつかって戻ってくる。
この鐘の音が聞こえる範囲が鐘の魔具の有効範囲。
鐘の音が澄んで聞こえればそれだけ魔具の効果は高い。
大きな都市などは大鐘楼を中心として複数の鐘楼を配置し、大鐘楼の鐘の音に合わせ他の鐘楼も鐘を鳴らすことで範囲を広げ、効果を高めていると聞く。
最後に大きな鐘を鳴らし、その音が大気に溶け込み消えるまで彼は目を閉じていた。
彼の家はその昔、この地を収める領主の一族だった。
優秀な兄の元、兄を支え共に領地の民に平和と繁栄をと身を粉にして働いていた。
だが、狡猾な臣下に騙され兄を罠にはめる形となってしまった彼の先祖は自ら兄に申し出て、領地の最果てのこの地に居を移した。
かつて良質な宝石が採掘された東の山の管理という名目で。
既に石は枯れ、猫の額ほどの土地では自分達が食べるものを作るので精一杯。
目の前の海には高い断崖を下って行くしか方法がなく、また海に出たとしても大型の魔物が生息しているため漁に出ることも難しい。
そんな誰からみてもなんの旨味もない、寧ろあるだけ管理に手間がかかるような土地に彼は今、ひとりで住んでいる。
三年前、流行病で相次いで両親を亡くし、魔具師であり、彼の師匠である祖父も前の冬に老衰で旅立った。
彼に兄弟はなく、一族の者も皆死に絶えた。
彼が最後のひとりなのだった。
「さて、食糧の買い出しに行かないと」
無駄に広い屋敷は、ここに移り住んだ際に領主である兄が建ててくれた物だと聞いている。
事実、屋敷の造りは古く200年ほど前の建築様式だ。
ただ、この屋敷がほぼ当時のまま保たれているのは、屋敷の至る所にある魔具のおかげだ。
劣化することも汚れることも無く、破損しても時間が経てば元の状態に戻るようになっている。
そしてその魔具の多くは初代の手で作り出されたもので、鐘楼の大きい鐘も初代が作ったものだった。
彼は部屋に戻りマントを羽織る。
深い緑色のマントは父が使っていた物だ。
因みに家具や服、小物等も魔具のおかげか劣化することがない。
ただし、食べ物や飲み物等はその範囲では無いようで、普通に悪くなる。
目下、彼の目標は食べ物や飲み物の劣化を防ぐ、若しくは遅らせる魔具の作成だ。
「おっと、薬草薬草っと」
山で採取した薬草は街でいい値段で売れる。
時間を見ては山に入り、採取した薬草を乾燥させている。
溜まった薬草を革袋に入れ、腰に剣を穿き馬を車に繋ぐ。
西の山を越えた先、隣の領へ続く街道沿いにある街まで三時間ほど。
今から出れば、日が落ちる前には余裕で戻ってこられる。
「準備よし!」
両親がいた頃は、街に泊まって翌日に帰る事もあった。
その時に聞く、村とは違う鐘の音を今でもたまに思い出す。
一人になってしまった今は、村から出られるのは朝の鐘と夜の鐘の間だけ。
鐘を鳴らし忘れると、家畜や畑が魔物に荒らされる。
先祖が守ってきた土地を、そんな事で失うわけには行かないのだから。
「さ、出発だ」
この先どれだけの鐘を鳴らすのか、彼には分からない。
晴れの日も、曇りの日も、雨の日も、風の日も、うだるほど暑い朝も、凍えるほど寒い夜も、彼は鐘を鳴らす。
今はその音を耳にするのがたとえ自分一人だけで、誰もいない村に虚しく響くだけだとしても。
この小さな村とも呼べない場所で彼は待つ。
彼の鳴らす鐘の音を、共に聞いてくれる誰かが来るのを。
━━━━━━━━━
(´-ι_-`) カエルノタメニカネハナル ル҉*\( * ॑˘ ॑* )
熱に浮かされたように、彼女は口にする。
『好き』『愛している』と、俺の名を呼び、普段決して口にすることの無い言葉を続ける。
これはただのリップサービスで彼女の本心ではないと、彼女の熱にショートしきった脳に教えてやるが、身体は正直だ。
快楽を、熱を、愛を求めて彼女を自分の腕の中に閉じ込める。
ケイ
それが、人の欲望を飲み込みごちゃ混ぜにして出来上がった、この街での俺の名前。
両親や祖父母からのプレッシャーに負けそうになっていた俺を、幼馴染が連れ出してきてくれた街。
初めは好きになれなかった。
綺麗な表通りと違い、一本路地裏に入れば道幅は狭く、そして薄暗い。
すえた匂いが鼻をつき、聞こえてくるのは普段聞くことの無い野蛮な言葉ばかり。
酔ったいい大人が、通りのそこかしこで誰かと肩を組み大声で笑い合い、フラフラとした足取りでどこかの店に入っていく。
それは人間の汚い部分を見せられているようで、不快でしか無かった。
幼馴染は慣れたように路地を歩き、時折声をかけてくる者と二言三言、言葉を交わし『クリシュナ』と看板が掲げられている雑居ビルの地下へと降りていく。
階段を一段下る毎に、外の喧騒が小さくなり店の扉の前では気にならないほどになった。
そして、ドアに付けられたベルの乾いた金属音が鳴り、目の前に現れたそのBARは、不思議と落ち着く空間だった。
幼馴染のパートナーがマスターを務めるその店は、良い酒と簡単な食事を提供してくれる。
ケイという名前でその店にいる間、いや、この街にいる間、俺は自由だった。
自分の欲望のまま自由に生きるということが、こんなにも心を軽くしてくれるものだとは知らなかった。
それまで自分を縛りつけていたものを脱ぎ捨て、自由に振る舞う、ただそれだけで生きている実感が持てた。
それから、上手く息が吸えなくなると、俺はクリシュナに通った。
どこの誰かなんて誰も詮索しない、ただのケイを暖かく迎えてくれる場所に。
若い頃は、まぁ、色々な誘いに乗って遊んだ事は否定しない。
そこに愛がなくても、楽しい時間を過ごすことはできるし、愛がないからこそ後腐れなく関係を持てる。
でもそれも、ある程度歳を重ねてくると落ち着くもので、最近は誘いに乗ることも稀になっていた。
ただ、ケイはそれで良かったが、現実の俺はそうもいかなかった。
両親や祖父母は事ある毎に、見合い話を持ってくる。
相手は自分で決めると何度言っても、聞く耳を持たない。
良い人がいるのなら連れて来いとは言われているが、そんな相手はいなかった。
現実の自分に近付いてくるのは、俺ではない作られた人間を見ている者達で、結局彼女等は地位や金が目当てでしかない。
兄達に言わせれば、金だけで大人しく従うのなら面倒がなくていいらしいが、俺は生涯の伴侶となる人物をそんな風には割り切れなかった。
そんな時、出会ったのが彼女だった。
一目惚れと言うと大袈裟だけれど、似たようなものだろう。
初めて話をした時から、とても楽しかった。
何度か話しているうちに、つい口が滑って彼女を誘ってしまった。
すると彼女は『一緒に朝を迎えないこと』と、条件を付けた。
逆なら言われたことはあるが、一緒に朝を迎えない、つまりお互い本気にはならない、という事か。
もう既に遅い気もするが、俺はその条件を飲んだ。
彼女と会える時は、どんなつまらないことでも楽しく思えた。
仕事上のトラブルも、積み上げられた書類の対応も、煩わしい両親と祖父母の見合い攻撃も、彼女と会えるだけで全て乗り越えられる。
階段を下り、店のドアを開けカウンターに座る彼女の後ろ姿を見つけた時、宝物を見つけたような昂揚感が全身を巡る。
軽く酒を飲み、時には食事をして、楽しい時間を過ごして、二人で店を出る。
いつものホテルに向かい、彼女の首筋に顔を埋め、彼女の温もりを、熱を、匂いを、艶やかな声を脳にインプットする。
そして、彼女を抱いた後、ベッドに沈む彼女を残して部屋を出る、その時が一番苦しい。
また会うために、彼女を一人残し離れなければならない、その瞬間が苦しい。
けれど、彼女との約束を破るだけの勇気は、まだ持てなかった。
「えっ?」
「あれ、聞いてなかった?ってっきり聞いてると思ってたわ。失敗したぁ、ゴメン、ケイ。今の聞かなかった事にして」
彼女の友人の、顔馴染みの常連客が、手を合わせ俺に拝むように頭を下げる。
わかったと返事をして、手元のギムレットを口に含む。
今日は約束をしていた訳じゃない。
ただ、明日から暫く海外に行かなければならないから、運良く会えれば、と思って来ただけだったが。
二股?結婚?少し待て?
五年も付き合った相手に対して、よくそんなことが出来る、と腹を立てた所で、自分が言える立場ではない事を思い出す。
だが、しかし⋯⋯。
「ケイは⋯⋯、ううん、何でもない」
彼女の友人が言いたい事は、何となくわかるが、それは俺達の問題であって他人が口を出すことでは無い。
そしてそれがわかっているからこそ、彼女の友人は何も言わない。
俺は残りのギムレットを一気に飲み干し、挨拶をして店を出た。
彼女と出逢って、もうすぐ一年。
今の関係は酷く歪で、それでいてぬるま湯に浸かっているような安心感がある。
でも、このままでは俺も彼女も、先に進めない。
それならば、この関係を先に進めるのも、壊すのも、彼女を最初に誘った俺がすべきだ。
心の整理をする時間は、与えられているのだから。
シーツの波間に沈む彼女にキスの雨を降らす。
額に、頬に、唇に、鼻筋に。両の瞼に、首筋に、そして贈ったペンダントを指に絡め、青い石にキスを落とす。
出張先で見つけたアンティークのペンダントと同じデザインの指輪。
彼女が好きそうだとも、彼女に似合いそうだとも思って、衝動的に買ってしまった。
「⋯⋯キミは、まだ怖いのか?」
裏切られるのが、だから本気にはならない、いや、なりたくないんだろう。
『一緒に朝を迎えないこと』
そんな条件を出しながら、キミはいつも一人で寝てしまう。
キミを置いて部屋を出るのはいつも俺の役目だ。
でも、今日は⋯⋯。
「おはよう」
ゆっくりと目を開けたキミに朝の挨拶を。
あぁ、寝起きのキミはこんなにも可愛いのか。
何度か瞬きを繰り返して、キミは小さく呟くように『おはよう』と口にする。
その口を自分の口で塞ぎ、腕の中にキミを閉じ込める。
離したくない、と全身が叫ぶ。
身動ぎするキミの頭を自分の肩に寄せて、キミの耳に俺の言葉を届ける。
「ずっと一緒に朝を迎えたかった」
その言葉に君の体が硬くなる。
「この関係を終わらせたかった」
俺の腕の中から逃れようと、腕に力を込めるキミを俺も力を込めて抱きしめる。
ゴメン、苦しいかもしれない。
けど、もう少しだけ俺に時間をくれないか。
「その場限りじゃなく、きちんと先を見据えて付き合いたい。俺はもっとキミのことが知りたい」
腕に込められていた力が消え、代わりに小さな声が聞こえた。
「⋯⋯嘘⋯⋯だって、他にも⋯⋯」
「他?⋯⋯あぁ、昔はまぁ遊んでいたけど、今はキミだけだ」
「⋯⋯」
「信じられない?」
無言で頷いたのがわかる。
まぁ、そうだよな。
「ケイっていうのは、昔飼っていた犬の名前」
「⋯⋯えっ?」
どうすれば信じてもらえるかなんて分からないから、ただ、自分の事を話した。
クリシュナに初めて行った時のこと、通っていた理由、家族のこと、仕事のこと、俺に寄ってくる女性たちのこと、隠さずに正直に。
「好きとか愛してるとか、言葉だけなら何とでも言える、そう思っていた。けど、昨日、キミに言われてわかった」
「⋯⋯なに、を?」
「どう、言われるかじゃなく、誰に言われるかが重要なんだとわかった。キミが『ケイ、好き』『ケイ、愛してる』って言う度に、凄く嬉しかった、そして苦しかった。だって『ケイ』は俺の本当の名前じゃない」
「だって、私⋯」
そう、キミは俺の本当の名前を知らなかった、だから当然だ。
これは単に俺の身勝手でしかない。
「だから、俺の名前を呼んで欲しい。そして、俺以外の人には言わないで欲しい」
「ふふっ、随分、狭量ね」
「自分でもそう思う」
俺の言葉にキミがクスクスと笑う。
そんなキミを俺はギュッと抱きしめる。
「約束して。隠し事はしないで、お願い」
「約束する」
「それから、朝は一緒に迎えたい」
「もちろ⋯⋯仕事とかで無理な時が出てくるな」
「じゃぁ、『できるだけ朝は一緒に迎える』で」
「約束する」
「それから⋯⋯キスして」
初めてキミと迎える朝は、新しい関係の始まり。
軽く唇を何度か重ね、俺はキミの指にリングを嵌めた。
青く輝く石を朝日に翳し微笑んだキミの笑顔を、俺は一生忘れない。
━━━━━━━━━
(´-ι_-`) 遅くなりました。最後駆け足スミマセン。昨日のお話の続きをケイsideで。
ブブッ
短く震えて、スマホがメッセージの着信を告げる。
無駄のない短い文章で告げられる、今日の待ち合わせ場所。
「クリシュナ、ね⋯⋯」
ちょうど一年前、彼と出会った店だ。
会社の同僚に教えてもらった、古びた雑居ビルの地下にある落ち着いた雰囲気のバー。
お酒は然ることながら、ちょっとした食事も頼めば出してくれる、しかも絶品ともなれば通わないはずがない。
週三日の勢いで通っていた私に声をかけてきたのは、この店の常連の男ケイだった。
話によるとケイとマスターは十年来の友人で、マスターのパートナーはケイの幼馴染という仲だという。
私はと言えば、三十を過ぎて二年近く、母親の「良い人いないの?」攻撃を避けるようになって久しく、最後に男と付き合っていたのは四年前。
しかも別れた理由が、いつの間にか自分が二股の浮気相手の方になっていたとか、笑うに笑えない。
『俺、今度結婚する。暫く会えないけど、待っていてくれるよな?』
一瞬何を言われたのか理解できなかった。
言われた言葉を口の中で小さく呟く、何度も何度も意味が理解できるまで。
そして、理解した瞬間、とびっきりの笑顔で相手の顔面にグーパンチをお見舞いしてやった。
結婚相手は取引先の社長の娘だとか何とかで、断れなくて、とか愛してるのはお前だけだ、とか言っていたけれどそんなのはどうでも良かった。
こんなくだらない男に五年もの時間を費やしていたのかと思うと、悔しくて情けなくて馬鹿らしくて泣きたくなった。
その点、ケイは分かりやすかった。
俗に言う遊び人で、誰にでも親切で、誰にでも優しくて、誰にでも愛を囁く。
だから初めから体だけの関係で、交わした約束は『一緒に朝を迎えないこと』。
同僚には言われた、馬鹿じゃないのか、と。
自分でもそう思う、いい歳して体だけの関係とか、それこそ本当に時間の無駄でしかない。
それでも、人肌が恋しいと思ってしまう。
嘘でもいいから、誰かに愛されたいと思ってしまう。
でも、もう傷付きたくないとも思う、ただのアラサー女の我儘でしかない。
そしてケイは、その我儘に付き合ってくれているだけだ。
「いらっしゃい」
カラカラン、と軽い金属音が鳴る扉を開けるとそこに広がるのは優しい空間。
年月を経た木が独特の輝きを放ち、静かに流れるJAZZの音がこの空間に溶け込んでいる。
カウンターに目的の人物が居ないのを確認して、端の方に腰掛ける。
「フォールン・エンジェルを」
「畏まりました」
最近入った若いバーテンダーに注文をして、一つ息を吐き出す。
いつからだろうか、彼と会うのがこんなにも楽しみになったのは。
話すのが楽しいのは初めからだった、それは覚えている。
身体を重ねるようになるまで、そんなに時間はかからなかった。
まぁ、半分自暴自棄になっていたというのもあるけれど。
遊び人だから、なのかどうかは分からないけれど、彼は酷く優しく抱いてくれる。
体の相性も悪くない、と言うよりも凄く良くて困るほど。
「何だ、顔赤いぞ?」
突然の背後からの声にびくりと肩が揺れた。
振り返らなくてもわかる、ケイだ。
「気のせいよ」
「そうか?キャロルを」
「畏まりました、ケイさん」
私の前にフォールン・エンジェルを置いた新顔のバーテンダーに、彼は慣れたように注文する。
あれは人たらしだ、と言っていた同僚の言葉を思い出す。
確かにそうなのだろう。
常連客の皆がケイに一言二言声をかけて行く、男も女も関係なく。
それに笑顔で答える彼は、実に楽しそうだ。
私もその中の一人に過ぎないのかと思うと、胸が締め付けられるように痛くなる。
この感情が何なのか分からないほど初心じゃない。
だから余計に自分が嫌になる。
この感情を無理やり箱の中に押し込めて、ただの女を演じる。
「はい、プレゼント」
「⋯⋯何の?」
「出会った記念の、というのは冗談で、お土産。出張でチョット海外にね。気に入ってくれると良いけど」
「ありがとう。開けても?」
「もちろん」
包みを開いて出てきたのは、青い石を中央に飾ったペンダント。
少しくすんではいるけれど、細工は素晴らしいし、何よりもデザインが私好みだった。
「アンティークだけど、好きだろ?こういうデザイン」
「えぇ、凄い⋯ステキ」
店の照明の下、キラキラと輝く石が目の前を通り過ぎる。
「着けてやる」
サラリと言って、私の後髪を左の肩に寄せ慣れた手つきでペンダントを着けてくれる。
髪を整えるのと同時に、周りに気付かれないよう、首筋を彼の指がなぞっていく。
「⋯⋯ありがとう、大切にするわ」
カクテルを飲み干して、店を出る。
二人並んで歩いていつものホテルに向かおうとしたら、腕を引かれた。
今日はコッチ、と言って連れていかれたのは、誰もが知るホテル。
導かれるまま部屋に入って、カーテンの閉まった窓辺で振り返ったケイはとても笑顔だった。
「え、なに?」
「前に言ってたろ。夜景の綺麗なホテルで、シャンパンに苺を浮かべてお祝いしたいって」
「言った、けど、何のお祝い?」
「俺たちが出会って、一年のお祝い、かな」
「キザ過ぎない?」
「そう? でも、嫌いじゃないだろ、こういうの」
「悔しいけど、好きだわ」
開けられたカーテンの向こうには、大小様々な光が溢れている。
そっと手に持たされた、苺の浮かんだシャンパンの泡の弾ける音。
「俺たちに」
「⋯⋯乾杯」
クイッとシャンパンを含むと、ほんのりと苺の香りが口の中に広がる。
私の様子をじっと見ていたケイは、自分の演出に満足したのか一つ頷くとシャンパンを一気に飲み干した。
どうして、こんなにも優しくするのだろう。
体だけの関係なのだから、こんなことしなくてもいいのに。
もっとドライでいてくれれば、こんな思いはしなくて済んだはずなのに。
目が覚めるといつも、ケイの温もりを探してしまう。
かつてした、約束を違えること無く、朝になればケイの姿は隣にはない。
既に冷たくなった、ケイの跡に指を這わせて虚しさにキツく目を閉じる。
そんな朝をこれからどれだけ迎えるのだろうか。
夢の中ならば言える。
ケイが好きだと、ケイを愛していると。
変なプライドに邪魔されず、臆病な自分に負けることなく、心の中をさらけ出して。
私の目が覚めるまでに、いなくなってしまう彼を引き留めたくて、でもできなくて。
今夜も私は眠りに落ちる。
ふわふわとした浮遊にも似た感覚に全身を支配され、時折降り注ぐキスの嵐に束の間の幸福を感じながら。
━━━━━━━━━
(´-ι_-`) 【目が覚めるまでに】じゃなくて【目が覚める前に】だな(¯―¯٥)
「お前の部屋、病室みたいだな」
彼の言いたいことは何となくわかる。
けれど、言葉は選ぶべきだと思う。
白を基調とした私の部屋には、物が少ない。
と言うより、見える所に物を置かないようにしている。
何故か、と問われれば『生活感』が出るから。
私は今どき珍しい、七人兄弟の真ん中。
まぁ、親の再婚で七人兄弟になっただけで、私は元々一人っ子だった。
父さんが再婚するまでは、二人で住んでいた家に継母とその子供六人がやってきた。
二人で暮らすには広かった家も、九人で暮らすとなれば狭くなる。
それまで一人部屋だった私は、同い年の姉との二人部屋になった。
兄弟仲は悪くなく、みんなと仲良くワイワイ暮らしていたけれど、一つだけ問題があった。
私は目につくところに物が沢山あるのが苦手で、『生活感』のある空間ではリラックスできない。
何故かと聞かれても良くは分からないけれど、気が散って集中できなくなるし、落ち着かない。
酷くなると眠ることすらできなくなってしまう。
これは多分、小さい時からそういう環境で育ってきた所が大きいのだと思う。
だから、同い年の姉との二人部屋は私には辛かった。
姉は片付けができない人では無いが、色々と物を置くのが好きで、可愛いぬいぐるみ、綺麗なジュエリーボックス、見せる収納という名のマガジンラック等、私の苦手とするものばかりを部屋に持ち込んだ。
そして極めつけはアイドルのポスター。
壁一面、所狭しと貼られて私は絶望した。
対策としては、姉のエリアと私のエリアに分け、間をカーテンで仕切った。
これでどうにか余計な物が視界に入らない空間を確保した。
それでも、普通の生活空間は、もうどうしようも無く我慢するしかなかった。
なので、長期の休み等は祖父母の家に避難したり、ホテル合宿をするなど色々と対策した。
高校を卒業し、大学に通うのと同時に家を出た。
と言っても、実家から二駅離れた、駅にほど近いマンション。
父の友人の持ち家で、仕事の関係で六年ほど海外へ行くことになったため、その間だけ住む人を探していた。
ただ、持ち家なので知らない人に貸すのは気が引けるので、どうしようかと悩んでいた所に、丁度よく私が家を出る事を検討し父に相談したのだった。
父としても、家から近いし、自分の仕事場にも近い。
駅からも近くセキュリティも万全な物件だったため、言う事なしで即決した。
そして二週間前、六年間暮らしたマンションを本来の家主に返すため、私は引越しをした。
会社に徒歩で通える距離にある、少し年季の入った賃貸マンションへ。
造りは古いが内装はリノベーションされていてとても綺麗だし、家賃もお手頃価格。
必要な家具を揃え、荷物の整理が終わり、新しい部屋が整ったのがつい一週間前のことだ。
で、ここで冒頭に戻るわけだけど、大学を卒業し、無事希望した研究職に就いて二年弱。
仕事でよくペアを組まされる、同期の男性が吐いたセリフがアレ。
「いいから、早く」
「ヘイヘイ」
私が急かすと彼は手にしていたキャリーを床に置き、蓋を開けた。
しばらくじっと待つと中から白い手がにゅっと出てきた。
そして次に丸いフォルムの頭が出てくる。
「椿姐さん、宜しくお願いします」
彼がそう言うと、『椿姐さん』と呼ばれた白猫は短く「ニャッ」と鳴いて周囲をぐるりと見回した。
音を立てず、部屋を時計回りに歩く姿を私と彼は目で追う。
心做しか室温が下がった気がした。
何をしているかと言うと、除霊と言われるやつ。
引越しをしてから、あまり眠れていなかった私に対し、彼が声をかけてきた。
最近引越ししたか、と。
会社の総務には手続きをしたが、引っ越した事は誰にも話していなかった。
不審がる私に対し彼は一つ大きく息を吐き出すと耳元で言った。
『ここのところ眠れてないよな。あと左の肩から腰にかけて痛いだろ?』
聞けばそう言う能力を持っているらしい、けれど自分は見えるだけなのだとも。
初めは半信半疑だったけれど、色々と知らないはずのことを言い当てられて、信じるしか無かった。
「ねぇ、いるの?やっぱり」
「いる。というか、思った以上に居てびっくりだわ」
「えっ」
会社では三体くらいとか言ってた気がするけど、それ以上ってこと?
「んー、この部屋がダメなんだな」
「どういう事?引っ越さないとダメって事?」
流石に引っ越して二週間でまた引越しはキツイ、肉体的にも金銭的にも。
「そうじゃなくて、病室みたいだろ、この部屋。白ばっかで、物も少ないから殺風景だし。病室に似てるから寄ってくるんだよ。で、寝るんだベッドに。お前と一緒に⋯⋯」
彼の視線はベッドへと注がれる。
つられて私もベッドへと視線を移した。
一緒に寝る、その光景を想像してしまい、さぁっと血の気が引いた。
「カーテンとベッドカバーの色を変えて、あと猫とか犬とか飼えれば良いけど、ここペット禁止物件?」
「ううん、OK物件だけど、仕事でいないことの方が多いから可哀想な気がして」
「確かにそうか⋯⋯、なら植物とか熱帯魚とか、少しでも生気を感じるものを置くことだな」
「わかった」
観葉植物なら置いてもそれほど気にはならない。
ただ、あまりたくさんは無理だけど。
「後は時々こうして椿姐さん連れてきてやる」
「えっ、⋯⋯ありがと?」
「何で疑問形なんだよ」
軽いデコピンを貰って、全然痛くない額に手を置く。
椿姐さんは相変わらず部屋の中を歩いている。
時折立ち止まっては、ミャウと鳴いてまた歩き出すのを繰り返す。
椿姐さんは除霊ができるそうで、多分今も部屋を歩き回りながら除霊してくれている。
報酬はチュールと猫缶で十分で、後は彼に夕飯を一回分奢る約束。
これで安眠が手に入るなら安いものだ、そう思って、だいたい月に一回から二回、椿姐さんに来ていただいた。
これがきっかけで、いつの間にか彼と付き合い始めて気がついたら結婚していたとか、何だか騙されたんじゃないかしら、と今でも時々思う。
けれど、小さな息子が何も無い空間に向かって手を伸ばして笑っていたり、椿姐さんの子供が家の中を歩いて、時々ミャウと鳴いていたりするから、多分騙されてはいない⋯⋯よね?
━━━━━━━━━
(´-ι_-`) お猫様は神秘的デス( ΦωΦ )