真岡 入雲

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熱に浮かされたように、彼女は口にする。
『好き』『愛している』と、俺の名を呼び、普段決して口にすることの無い言葉を続ける。
これはただのリップサービスで彼女の本心ではないと、彼女の熱にショートしきった脳に教えてやるが、身体は正直だ。
快楽を、熱を、愛を求めて彼女を自分の腕の中に閉じ込める。

ケイ

それが、人の欲望を飲み込みごちゃ混ぜにして出来上がった、この街での俺の名前。
両親や祖父母からのプレッシャーに負けそうになっていた俺を、幼馴染が連れ出してきてくれた街。
初めは好きになれなかった。
綺麗な表通りと違い、一本路地裏に入れば道幅は狭く、そして薄暗い。
すえた匂いが鼻をつき、聞こえてくるのは普段聞くことの無い野蛮な言葉ばかり。
酔ったいい大人が、通りのそこかしこで誰かと肩を組み大声で笑い合い、フラフラとした足取りでどこかの店に入っていく。
それは人間の汚い部分を見せられているようで、不快でしか無かった。

幼馴染は慣れたように路地を歩き、時折声をかけてくる者と二言三言、言葉を交わし『クリシュナ』と看板が掲げられている雑居ビルの地下へと降りていく。
階段を一段下る毎に、外の喧騒が小さくなり店の扉の前では気にならないほどになった。
そして、ドアに付けられたベルの乾いた金属音が鳴り、目の前に現れたそのBARは、不思議と落ち着く空間だった。
幼馴染のパートナーがマスターを務めるその店は、良い酒と簡単な食事を提供してくれる。
ケイという名前でその店にいる間、いや、この街にいる間、俺は自由だった。
自分の欲望のまま自由に生きるということが、こんなにも心を軽くしてくれるものだとは知らなかった。
それまで自分を縛りつけていたものを脱ぎ捨て、自由に振る舞う、ただそれだけで生きている実感が持てた。

それから、上手く息が吸えなくなると、俺はクリシュナに通った。
どこの誰かなんて誰も詮索しない、ただのケイを暖かく迎えてくれる場所に。
若い頃は、まぁ、色々な誘いに乗って遊んだ事は否定しない。
そこに愛がなくても、楽しい時間を過ごすことはできるし、愛がないからこそ後腐れなく関係を持てる。
でもそれも、ある程度歳を重ねてくると落ち着くもので、最近は誘いに乗ることも稀になっていた。
ただ、ケイはそれで良かったが、現実の俺はそうもいかなかった。
両親や祖父母は事ある毎に、見合い話を持ってくる。
相手は自分で決めると何度言っても、聞く耳を持たない。
良い人がいるのなら連れて来いとは言われているが、そんな相手はいなかった。
現実の自分に近付いてくるのは、俺ではない作られた人間を見ている者達で、結局彼女等は地位や金が目当てでしかない。
兄達に言わせれば、金だけで大人しく従うのなら面倒がなくていいらしいが、俺は生涯の伴侶となる人物をそんな風には割り切れなかった。

そんな時、出会ったのが彼女だった。
一目惚れと言うと大袈裟だけれど、似たようなものだろう。
初めて話をした時から、とても楽しかった。
何度か話しているうちに、つい口が滑って彼女を誘ってしまった。
すると彼女は『一緒に朝を迎えないこと』と、条件を付けた。
逆なら言われたことはあるが、一緒に朝を迎えない、つまりお互い本気にはならない、という事か。
もう既に遅い気もするが、俺はその条件を飲んだ。

彼女と会える時は、どんなつまらないことでも楽しく思えた。
仕事上のトラブルも、積み上げられた書類の対応も、煩わしい両親と祖父母の見合い攻撃も、彼女と会えるだけで全て乗り越えられる。
階段を下り、店のドアを開けカウンターに座る彼女の後ろ姿を見つけた時、宝物を見つけたような昂揚感が全身を巡る。
軽く酒を飲み、時には食事をして、楽しい時間を過ごして、二人で店を出る。
いつものホテルに向かい、彼女の首筋に顔を埋め、彼女の温もりを、熱を、匂いを、艶やかな声を脳にインプットする。
そして、彼女を抱いた後、ベッドに沈む彼女を残して部屋を出る、その時が一番苦しい。
また会うために、彼女を一人残し離れなければならない、その瞬間が苦しい。
けれど、彼女との約束を破るだけの勇気は、まだ持てなかった。

「えっ?」
「あれ、聞いてなかった?ってっきり聞いてると思ってたわ。失敗したぁ、ゴメン、ケイ。今の聞かなかった事にして」

彼女の友人の、顔馴染みの常連客が、手を合わせ俺に拝むように頭を下げる。
わかったと返事をして、手元のギムレットを口に含む。
今日は約束をしていた訳じゃない。
ただ、明日から暫く海外に行かなければならないから、運良く会えれば、と思って来ただけだったが。
二股?結婚?少し待て?
五年も付き合った相手に対して、よくそんなことが出来る、と腹を立てた所で、自分が言える立場ではない事を思い出す。
だが、しかし⋯⋯。

「ケイは⋯⋯、ううん、何でもない」

彼女の友人が言いたい事は、何となくわかるが、それは俺達の問題であって他人が口を出すことでは無い。
そしてそれがわかっているからこそ、彼女の友人は何も言わない。
俺は残りのギムレットを一気に飲み干し、挨拶をして店を出た。
彼女と出逢って、もうすぐ一年。
今の関係は酷く歪で、それでいてぬるま湯に浸かっているような安心感がある。
でも、このままでは俺も彼女も、先に進めない。
それならば、この関係を先に進めるのも、壊すのも、彼女を最初に誘った俺がすべきだ。
心の整理をする時間は、与えられているのだから。

シーツの波間に沈む彼女にキスの雨を降らす。
額に、頬に、唇に、鼻筋に。両の瞼に、首筋に、そして贈ったペンダントを指に絡め、青い石にキスを落とす。
出張先で見つけたアンティークのペンダントと同じデザインの指輪。
彼女が好きそうだとも、彼女に似合いそうだとも思って、衝動的に買ってしまった。

「⋯⋯キミは、まだ怖いのか?」

裏切られるのが、だから本気にはならない、いや、なりたくないんだろう。
『一緒に朝を迎えないこと』
そんな条件を出しながら、キミはいつも一人で寝てしまう。
キミを置いて部屋を出るのはいつも俺の役目だ。
でも、今日は⋯⋯。


「おはよう」

ゆっくりと目を開けたキミに朝の挨拶を。
あぁ、寝起きのキミはこんなにも可愛いのか。
何度か瞬きを繰り返して、キミは小さく呟くように『おはよう』と口にする。
その口を自分の口で塞ぎ、腕の中にキミを閉じ込める。
離したくない、と全身が叫ぶ。
身動ぎするキミの頭を自分の肩に寄せて、キミの耳に俺の言葉を届ける。

「ずっと一緒に朝を迎えたかった」

その言葉に君の体が硬くなる。

「この関係を終わらせたかった」

俺の腕の中から逃れようと、腕に力を込めるキミを俺も力を込めて抱きしめる。
ゴメン、苦しいかもしれない。
けど、もう少しだけ俺に時間をくれないか。

「その場限りじゃなく、きちんと先を見据えて付き合いたい。俺はもっとキミのことが知りたい」

腕に込められていた力が消え、代わりに小さな声が聞こえた。

「⋯⋯嘘⋯⋯だって、他にも⋯⋯」
「他?⋯⋯あぁ、昔はまぁ遊んでいたけど、今はキミだけだ」
「⋯⋯」
「信じられない?」

無言で頷いたのがわかる。
まぁ、そうだよな。

「ケイっていうのは、昔飼っていた犬の名前」
「⋯⋯えっ?」

どうすれば信じてもらえるかなんて分からないから、ただ、自分の事を話した。
クリシュナに初めて行った時のこと、通っていた理由、家族のこと、仕事のこと、俺に寄ってくる女性たちのこと、隠さずに正直に。

「好きとか愛してるとか、言葉だけなら何とでも言える、そう思っていた。けど、昨日、キミに言われてわかった」
「⋯⋯なに、を?」
「どう、言われるかじゃなく、誰に言われるかが重要なんだとわかった。キミが『ケイ、好き』『ケイ、愛してる』って言う度に、凄く嬉しかった、そして苦しかった。だって『ケイ』は俺の本当の名前じゃない」
「だって、私⋯」

そう、キミは俺の本当の名前を知らなかった、だから当然だ。
これは単に俺の身勝手でしかない。

「だから、俺の名前を呼んで欲しい。そして、俺以外の人には言わないで欲しい」
「ふふっ、随分、狭量ね」
「自分でもそう思う」

俺の言葉にキミがクスクスと笑う。
そんなキミを俺はギュッと抱きしめる。

「約束して。隠し事はしないで、お願い」
「約束する」
「それから、朝は一緒に迎えたい」
「もちろ⋯⋯仕事とかで無理な時が出てくるな」
「じゃぁ、『できるだけ朝は一緒に迎える』で」
「約束する」
「それから⋯⋯キスして」

初めてキミと迎える朝は、新しい関係の始まり。
軽く唇を何度か重ね、俺はキミの指にリングを嵌めた。
青く輝く石を朝日に翳し微笑んだキミの笑顔を、俺は一生忘れない。


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(´-ι_-`) 遅くなりました。最後駆け足スミマセン。昨日のお話の続きをケイsideで。

8/5/2024, 8:05:45 AM