真岡 入雲

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8/1/2024, 4:20:37 PM


梅雨が明けたと言う割には、ぐずついた天気が続いている。
まるで今の私の心の中のよう。

「はぁ、だいぶ泣いたなぁ」

自分の体の中にこんなにも水分があるのかと、驚いてしまうほど泣いた。
泣いて泣いて泣き疲れて眠って、起きてまた泣いて。
そんなこんなを繰り返しているうちに、世間は梅雨明け宣言が出され早五日が経っていた。
でもほら、今日もどんより曇り空。
青空なんてこれっぽっちも見えない。
私の心も一緒だ、太陽の光なんて一筋も差し込まない、厚い雲に覆われている。

「会社辞めちゃったのになぁ」

『寿退社』という、一番後腐れのない方法で、先月末に22歳から15年務めた会社を退職した。
陰で御局様とか、行き遅れとか、ロボット先輩とか呼ばれていたのも知っている。
仕事において、手を抜くことができなくて、ついつい口煩くなってしまって。
まぁ、若い子達からしてみれば、細かいことに煩いオバさんでしか無いわよね。
それなりにお給料も良かったし、福利厚生もしっかりしていて、何より上司に恵まれていた、半年前までは。
入社当初は私の教育係で、厳しくもしっかりと指導してくれた上司が定年で会社を去り、代わりに来たのが役員と縁戚とか言う中途採用者。
どこかの大きな会社で働いていたそうで、仕事はそれなりにできる人だった。
ただ、私はどうにも嫌われていて、早い話がパワハラのターゲットになってしまっていた。
同じ課の若い女の子には凄く優しかったので、そういう事なんだろう。
頭にはきたけれど、仕事は手を抜きたくなかったから我慢した。
もちろん、泣き寝入りはしたくなかったので、ホットラインとか連絡したけれども、意味は無かった。

そんな時、幸人からプロポーズされた。

幸人は私より八歳も年下で、出会った当初はからかわれているのかと思ったけど、彼は真剣だった。
けれど、私は色々な理由をつけては、彼の申し出を断っていた。
だってもう私もいい歳だし、それに恥ずかしい話だけど『彼氏いない歴=年齢』でどうすればいいのかわからなかった。
そんな私に対して、幸人は根気強く、我慢強く付き合ってくれた。
友達から始めたお付き合いは、半年後には恋人のそれになった。
急ぐことなくゆっくりと、私のペースに合わせて一緒に歩いてくれる幸人は、とても素敵な恋人だった。
交際してもうすぐ二年という時に貰った婚約指輪。
息ができなくなるくらい、嬉しくて泣いてしまった。

夢だった自分の店を開くんだと言われたのもその時。
開業資金が少し足りないという彼に、私は迷うことなくお金を渡した。
お店の場所も決めて、二人で住む部屋も決めた。
会社に通える距離では無いので、今の会社は辞めることにした。
昨日の今日で会社は辞められないから、幸人が先に引っ越して、私は後から引っ越すことにした。
引越しの準備や仕事の引き継ぎで、幸人とは部屋の契約以降、なかなか会えなかった。
部屋、電気、ガス、水道等の契約は私名義で行った。
幸人に自分は店の契約をするから、その方が良いと言われたから。

会えない間も、連絡はとっていた。
数日ごとに届く幸人からのLINE。
お店の工事の様子が画像で送られてくる。
お店の図面、何も無い空間、運び込まれる資材、壁、天井、鏡に椅子にカウンター。
幸人の夢が徐々に形になって行くのが、自分の事のように嬉しかった。

会社を辞めて二週間後、引越しの荷物を業者にお願いして、部屋を引き払い、電車に乗り込む。
ここから電車と新幹線で三時間、向こうに着くのは夕方近く。
3ヶ月近く会っていない幸人と会えることが凄く楽しみで、新幹線の中から『もうすぐ会えるね』とLINEを送った。
けれど既読がつかない。
五分、十分、三十分、一時間。
今日は駅まで迎えに来てくれる予定で、新幹線の到着時刻も教えてある。
急用で手が離せないとか?
少しの不安はあったけれど、幸人を信じていた。
駅で待っていてくれると。

雨は止むことなく降り続ける。
しとしとピチャピチャと音を立て、アスファルトの上を滑り側溝に飲み込まれて行く。
幸人と連絡がつかなくて、駅で待つこと三時間。
このまま待っているわけにも行かず、取り敢えずタクシーに乗り部屋に向かう。
マンションの前でタクシーを降りて、部屋を見上げる。
電気が点いている様子はない。
エントランスで部屋を呼び出すも、応答はなく、仕方なしに自分の鍵で解錠する。
煩いくらいの心音が自分の鼓膜に響く。
ここに来るのは三度目、内見の時と、諸々の契約の時、そして今日。
エレベーターに乗って、ガラスの向こう側に通り過ぎるフロアを見送る。
ポーンと妙に明るい音が響いて、扉が開く。
右手に曲がった突き当たりの部屋。
最上階の角部屋が、私達の新生活の場となる部屋。
ほんの小さな希望を抱いてベルを鳴らすも反応はなく、手にした鍵で解錠した。
静かに扉を開き、体を滑り込ませる。
キャリーバッグを引き寄せて、静かにドアを閉めた。

「幸人?」

暗闇に向かって、名前を呼んでみても返事は無い。
手探りでライトのスイッチを入れて、暗闇に明かりを灯した。

「⋯⋯幸人?」

生活感の感じられない空間がそこにある。
近くのドアを開けて照明をつけ、ソコに目的の人がいないのを確認する。
それを部屋の数だけ繰り返して、私は床に座り込んだ。
照明は契約したその日に揃えた。
何をするにしても一番必要となるものだから。
家電に関しては、二人揃ってから買いに行こうと決めた。
それまでは、幸人が使っているものをそのまま使う約束で。
ベッドもソファもカーテンも全部、二人で揃えようって、言って⋯⋯。
何も無い、この部屋には何も無い。
家具も家電も幸人の気配も、何一つ存在しない。

次の日来た引越し業者は、さぞ驚いただろう。
目を真っ赤に晴らしたおばさんが、ボサボサ頭で顔を出したのだから。
運んで貰った荷物はさほど多くない。
布団に衣類と少しの食器類、父と母との思い出の品が少しに位牌と写真。
それから本がダンボールに二つ分、たったコレだけ。
37年生きた人間の持ち物としては少ない。

LINEを開いて、既読のつかないメッセージを見つめる。
事故にあったのかとも考えたけど、この部屋に何も無かった理由がない。
不動産屋に、お店の物件のことを確認したら、翌日にキャンセルされましたよね?と言われた。
つまりこれは、計画的なものだと言うこと。
幸人は私と暮らす気は初めからなかった、ということ。
郵便受けに鍵だけが入った封筒が入れられていて、乾いた笑いが口から漏れた。

そこから、泣いた。
本当に、だいぶ泣いた。
両親を亡くした時以上に、泣いた。

「はぁ、馬鹿だなぁ」

あの画像を見る限り、幸人の夢は叶ったのだろう。
自分の店を持って、たくさんの人を笑顔にしたいと言っていたから。
その夢を叶えるのに、私は少しお手伝いをしてあげた、そういう事だ。
いい歳をした恋愛初心者のオバさんと付き合ってくれた、オバさんに幸せな夢をみせてくれたお礼だと思えば安いものだ。
プロに頼んだら三百万では済まないはずだから。
うん、そういうことなんだ。
いつまでもウジウジしていられない。
とりあえずは仕事を探そう。
幸いにも、前の上司に勧められて取得した資格がそれなりにある。
きっと役に立つはずだ。
資格取得は彼女の趣味だった様にも思うが、まぁ、いいか。

あぁ、でもその前に。
明日、もし晴れたら髪を切りに行こう。
ずっと幸人がケアしていた背中まで伸びたこの髪を、幸人に出会う前と同じショートヘアに切ってしまおう。
だから⋯⋯。

「あーした、天気になぁれ」

家具のない部屋で、スリッパを飛ばす。
明日、晴れることを祈りながら。



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(´-ι_-`) 国家資格がイイヨネ\( ´ω` )/


8/1/2024, 3:16:17 AM


人の中にいると酷く疲れた。
それは家族といる時も一緒で、リビングでの家族団欒とか私にとっては地獄でしか無かった。
その表情ひとつ、言葉ひとつ、行動ひとつ、それだけで私の頭の中は計算を始める。
何を?
そんなの私が知りたい。
あぁでもない、こうでもない、と色々と計算した結果、脳が、心がショートする。

考えなければいい。
私もそう思う。

気にする必要ない。
そうなんだろうね、きっと。

いつも通りで良いんだよ。
いつも通りって?

唯一の心の休まる場所は、本の中。
漫画、小説、絵本、図鑑、辞書、詩集、写真集。
本であれば何でも良かった。

小中高、そして大学と自分を騙し騙し生活を送ってどうにか卒業して、就職は一度したけれど続かなかった。
母方の祖父母の家が空き家となっていたから、逃げるようにそこに飛び込んだ。

田舎の海の見える家。
周りには民家もなくて、お隣さんは車で10分の距離。
生活は不便そのもの。
スーパーもホームセンターも病院も役所も全部が遠い。
車で片道30分、往復1時間。
でも世の中便利なもので、大きな冷蔵庫と冷凍庫があれば週一回の買い出しで十分暮らせる。
家は広く部屋は余りまくってるから、生活雑貨もストックし放題。
車は軽バン、維持費が節約できて、買い出しの荷物をいっぱい積み込めるのを選んだ。

週に一度の買い出しで、食料、生活雑貨、その他諸々を冷蔵庫と冷凍庫、ストック部屋に収納する。
後は基本的に家で過ごす。
投資とweb関連の仕事、後は親、兄弟、親戚のツテで依頼される翻訳業務で何とか生活費を稼いでいる。
残りの時間は読書と、趣味の小説を書いてネットに投稿している。
本はネットでポチッと購入。
6部屋ある空き部屋のうち、2部屋が書庫と化している。

人との繋がりが嫌な訳ではない。
ただ、対面でいると苦しくなってしまう。
チャットやメールであればそれが軽減される。
だから、家族とも電話ではなくチャットかメールでやりとりをする。
誰かと声を出して話すことは、私の世界には必要じゃない。
誰かと目を見て話をすることは、私の世界には必要じゃない。
誰かと共に食事をすることは、私の世界には必要じゃない。

これが普通ではないのは、十分過ぎるほどにわかっている。
両親も兄弟も親戚も、今まで私と出会った人達も皆、気を使ってくれていた。
普通になれるよう、努力はした。
どうすれば良いか分からなくて、色々調べて、試してみて、その分だけ苦しさが増した。
周りの優しさが、期待が、気遣いが、私を孤独にさせていく。
その事に気付いた人が苦しむことで、余計私は苦しくなる。

人の中にいると、私は苦しくなる。

『だから、一人でいたい。』

私が私であるために、私らしく生きるための唯一の我儘を、どうか許してください。



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(´-ι_-`) 一人が好きデス。


7/30/2024, 4:34:32 PM


「日和(ひより)お兄ちゃん、これなぁに?」

ついこの間六歳になり、来年の春に小学校へ上がる姪が手にしているのは、俗に言う大人の玩具。
会社の飲み会でやったビンゴ大会の景品だったヤツだ。
しかも当てたのは俺じゃない、同期の中野目だ。
奥さんと使えばいいじゃないかと言ったら、そう言うのは一切ダメな潔癖な奥さんらしい。
昔ラブホで致そうとして、マジ泣きされ大変だったそうで。
で、俺が押し付けられたわけだが、俺は俺で使う相手がいない。
いや、去年までは居たんだが、まぁ、色々あって別れて、その後は独り身だ。
独りが寂しいかと言うと、そうでも無く、結構楽しんでいたりする。
相手の都合に合わせて何かをする必要もないし、映画も食事も自分の好きなところに行ける。
むしろ色々調べて準備して、相手好みの服を着て、プレゼントして食事を奢って、なんてしなくていいのがすごい楽だとか思ってしまっている。
毎日連絡を取らなくてもいいし、好きなテレビ番組観れるし、休日はのんびりできるし、寝たいとき眠れるし、もう、最高!
まぁ、性欲は溜まるのでその捌け口は必要だけど、最近のそう言うグッツは良くできている。
しかも、ネットでポチッとやるだけで買えるので便利でもある。
え?なら貰った玩具を使えばいいじゃないかって?
ごめん、俺そっちには興味無いんだ。
尻の穴は出口のままで十分です。
って、話が脱線してるな。
取り敢えず、戻すぞ。
姪っ子、名前を菜月と言うのだが、彼女が俺の部屋に来たのは三時間前。
俺が休日朝の惰眠を貪っていると姉からのLINEが入った。

『あんた、今日と明日予定ある?』

そこで、予定があると言えばよかったのだが、まだ半分夢の中にいた俺は素直に『ない』と返してしまった。
そしてそのLINEから三十分後、姉は菜月と大きな鞄を抱えて俺の部屋に来た。
曰く、急な出張に行かないといけないのだが、旦那も今出張中で戻りは明日の夜。
本当は実家に預ける予定だったが、親戚が亡くなって父も母も葬儀に行かなければならない。
よって、明日の夜までお前が預かれ、との事で。

おかしいな、さっきまで持ってきたタブレットで何かのアニメを見ていたはずなのに、菜月の手にはピンク色のナニが握られている。しかもウニウニ動いていやがる。
すぐ使えるように多少充電されているのが仇となったな。
マジで、こんなの姉にバレたら殺されかねない。
つかアレ、ベッドの下に袋に入れたまま置いてたはずだよな、俺。

「ねぇ、これなぁに?」
「あー、それはだな、大人のための玩具だ」
「おもちゃ?どうやって遊ぶの?」

純粋って怖い。
お願いやめて、そんなキラキラした澄んだ瞳で見ないで。
自分が凄い汚れてる気分になる。

「あー、大人になればわかる。さぁ、ソレは返して」
「えー」
「ほら、早く返さないとパンケーキしぼんじゃうぞ」

そう、俺は姉が持ってきた鞄の中にあったメモと材料で、パンケーキを焼いていた。
何でも今日の昼、一緒に焼く予定だったらしい。
残念ながらうちにはホットプレートがないので、俺が焼いてしまったのだけど。
菜月は渋々といった様子でナニを返してくれた。
取り敢えず、電源を切ってジーンズの後ろポケットに突っ込む。
いや、エプロンつけてポケットにナニ突っ込んでる男が、幼児と一緒にいるとか、ただの事案じゃねぇかコレ。

「コレはサービス。ママには内緒だぞ」

皿に重ねたパンケーキの上にバニラアイスを乗せ、その上からチョコレートシロップをかけてやる。
子供が目を輝かせて、じっと食い入るように見つめる姿は純粋に可愛いと思う。

「食べて良い?」
「どうぞ」
「いただきます!」

勢いよく食べ始めた菜月を置いて、俺は洗面所へと向かった。
ポケットに突っ込んだナニを取り敢えず一番上の棚に押し込む。
それと、乾燥中のアレも同じ所に押し込んだ。
これで一先ずは安心だ。
パンケーキを食べ終わった菜月とゲームをして、夕飯は焼きそばを作って、一緒に風呂に入って寝て、次の日は散歩がてら河川敷でおにぎりを食べ、公園で遊んで買い物をして帰宅。
二人でカレーを作って食べて、迎えに来た義兄さんにもカレーを出して、食べてもらっている間に菜月を風呂に入れ、余ったカレーをタッパーに詰めて義兄さんに渡して、二人を見送った。

「はぁぁ、疲れた」

子供は本当に元気が有り余っている。
あの相手をずっとするのは本当に大変だと思う。
もし結婚して子供ができたら、自分も義兄のように積極的に育児に参加しようと思う。

「さて、寝るかぁ」


三日後の夜、姉からのLINEを見るまで、俺はすっかり忘れていた。
洗面所の一番上の棚に押し込んだナニの存在を。
送られてきた画像にはパンケーキの横に描かれたピンク色のナニの姿。
怒りMAXなスタンプの後の『日和、覚悟しときなさい』のメッセージ。
あぁ、神様、これって俺が悪いのでしょうか?


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(´-ι_-`) チョットばかし、あだると。

7/30/2024, 3:20:40 AM


茜は頬に打ち付けた水滴を手の甲で拭った。
拭った頬に泥が着くのも構わずに。

「雨⋯⋯」

見上げた空はどんよりと薄暗くなってきている。
ここふた月、日照りが続き雨らしい雨が降っていない。
今年の米はもう諦めた。
冬に雪が少なかったため当然雪解け水も少なく、田んぼ全体に水が行き渡らなかった。
仕方なく3割を休耕田にし、父親は田植え後すぐに出稼ぎに行った。
植えた苗の半分は既に枯れ、今年の米の収穫は望めない。
せめて畑だけでもと、毎日少し離れた川にまで足を伸ばし水を汲んでは懸命に水を与えたが、それも気休め程度でしかない。
乾ききってひび割れた土に水を撒くと、土の表面が水を弾く。
故に少し水を撒き浸透するのを待って、また水を撒くを繰り返す。
何もせずに枯らすよりは、ほんの少しだけでも、食べられるものが出来ればそれで良い、ただその思いだけで茜は毎日、川と畑の往復を繰り返していた。

何故、今頃なのか。
何故、もっと早くに降らなかったのか。
ひと月早く降っていれば、田んぼの稲は大丈夫だったかもしれない。
ふた月早く降っていれば、冬に生まれた弟は元気に笑っていたかもしれない。
みつき早く降っていれば、父は出稼ぎに行かずに済んだかもしれない。

雨粒は大きくなり、バタバタと地面を打ち付ける。
しばらく空を睨みつけ、ギュッと両の拳を握っていた茜は、桶と柄杓を手にし家へと帰っていく。
ずぶ濡れになりながら家へと戻ったその足で、茜は家中の『入れ物』を家の外に出す。
初めは様々な音を奏でていた入れ物達は、そのうち揃ってぴちゃんぴちゃんと音を鳴らす。
小さな茶碗に溜まった雨水を桶に入れ、桶の雨水を家の中の水瓶に入れる。
水瓶は大きいのがふたつに小さいのがひとつ。
それがいっぱいになるまで繰り返した。
瓶に桶、茶碗に鍋、そして竹筒、ありとあらゆる入れ物を雨水で満たした頃、外は雷の鳴る土砂降りの天気となっていた。

「⋯⋯体洗おう」

ポツリと呟いて、茜は服を着たまま外へ出た。
打ち付ける雨は先程より強く、暗い空には稲光が走る。
髪をまとめていた紐を解き、ワシワシと髪と頭を雨で洗う。
普段は川に入って洗うのだが、この雨なら丁度いい。
ついでにと、着物の帯も解き体と一緒に着物も洗う。
着物と言っても、薄い生地一枚のものだ。
もう3年も同じものを着ているから丈は足りないし、所々ほつれている。
これの他には母親が着ていた着物が一着と冬用の羽織があるだけだ。
あぁ、後は弟を包んでいたボロ布もあったか。
母親の着物には手をつけたくない。
せめて、秋に父親が帰ってくるまでは。
茜は力を込めて洗うと破れてしまう着物を、優しく丁寧に洗って絞り、家の中へ置いてくる。
そして、何も身につけずに土砂降りの雨の中へ戻り、暗闇の中空を見上げた。

時折闇を走る眩い光は、龍がその身体をくねらせ空を泳ぎ咆哮している様だと、旅の坊様が言っていた。
人は亡くなると天に帰るのだと言う。
だから、亡くなった人に会いたければ空に向かって手を合わせれば良いとも。

「かか様⋯」

弟は父親が出稼ぎに出た十日後に、動かなくなった。
母親は乳の出が悪かったから、と、涙を零しながら言った。
食べる物も少ない冬を、やっと越えたと思った矢先の事だった。
母親はそれからひと月もしないうちに、弟のいる場所へ旅立った。
食べる物は出来るだけ茜に与えて、自分は水以外ほぼ何も口にしていなかったようだった。
ほぼ、骨と皮だけだった母親の亡骸は、弟の隣に埋められた。
ひとりで平気かと、村の皆に心配されたが、茜はひとりで家に残った。
田んぼも、畑の世話も、食事の用意も一人でできる。
茜はもうじき10歳になるのだから。

「とと様を守って⋯⋯」

出稼ぎ先で父親が何をしているのか、茜は知らない。
ただ同じように出稼ぎに出た村の人が、戻らないことがあるのは知っている。
だから、例えどんなに日照りが続いても、例えどんなに激しい嵐が来ようとも茜は家にいる。
父親が帰る場所を守るため、母親との最後の約束を守るため。

一際大きな雷が、山間の小さな村に鳴り響く。
村の外れの一軒家。
大きくもなく小さくもないその家には、たった一人の少女が住まう。
家の南側には、三代前から開拓し受け継いできた田んぼがあり、西側には狭くは無い畑が広がっている。
家から少し離れた東側を流れる小川は、家の背後にある山から湧き出た水が集まり流れを成したもの。
その流れは、山を下りながら村の田畑を潤し、やがて山の麓の町で大きな川に合流する。
合流した川は、平地を流れ大地と人々を潤し、やがて海へと注がれる。

家の中、濡れた着物を竿に干し、囲炉裏の傍で床に寝転ぶ。
誰もいない家は、広くそして寒々しい。
何も身につけていない己の体を抱き締めて、茜は小さく呟く。

「寂しくなんかない。大丈夫、大丈夫⋯⋯」

ぎゅうっと自分の体を抱きしめ、父親の、母親の、小さな小さな弟の温もりを思い出す。
その温もりをいつまでも忘れることがないように、茜はそっと小さな身体に閉じ込めた。


━━━━━━━━━
(´-ι_-`) 語彙が乏しい⋯⋯。



7/29/2024, 4:21:37 AM


「左乃(さの)、それはどうした?」
「迷子のようだ。今、管(くだ)に親を探させているところだ」
「本部に連れて行け。案外すぐに見つかるやもしれん」
「そうか。ならば、そうしよう」

始まりは村の小さな社だった。
人の争いに巻き込まれ、命を落とした子狐を祀ったのだと伝わっている。
心優しい村の人間が、粗末ながらも建てた社を、祀られたお狐様は大層気に入った。
お狐様は感謝の印に村人を見守る事にした。
作物がよく育つよう天に祈りを捧げ、日照りが続けば雨を、長雨にはお天道様を願った。
純粋な子狐の願いは、数多の神々により叶えられた。
やがて村は裕福になり、人が増え、同時に社も徐々に大きくなり、遣えるものも増え、神事が行われるようになった。
さすれば、お狐様の格も上がり人々の願いを自身で叶えられるようになる。
それでもお狐様は変わらずに純粋で、数多の神々に可愛がられている。
故に年に一度の豊穣の大祭には、人のみならず、人でないものもチラホラと混ざっている。

「それにしても、また人が増えたな」
「そうだな」

迷子の兄妹の兄を左乃が抱き抱え、妹を右乃(うの)が抱き抱え並んで人混みの中を歩く。
兄は5歳で『トオノ ホトリ』、妹は3歳で『トオノ アヤ』と言うらしい。
迷子だと言うのに泣きもせず、左乃の問い掛けに淡々と答えるホトリは、年齢よりも随分と大人びた印象を受けた。
アヤは年相応、色々なものに興味を示し目を輝かせていた。
どこかへ駆け出しそうになるアヤを、ホトリが繋いだ手をぎゅっと握って止める、そんな光景が左乃の前で何度も繰り広げられた。
豊穣の大祭は三日三晩行われる。
何のことは無い、人も人でないもの達も、どんちゃん騒ぎが大好きなのだ。
呑んで歌って踊って食って、体力と気力の続く限り騒ぎまくる、ただそれだけの事がこんなにも楽しい。
神々の力でこの三日間は良い天候に恵まれる事が決まっている。
故に皆、何を心配することなく騒ぎまくるのだ。
人の中には村を出ていった者達も多いが、この三日間のために帰ってくる者も多い。

「始めた頃は100人もいなかったのにな」
「今年は5万人を超えたらしいぞ」
「そりゃすごい。あ、お狐様だ」
「あぁ、また神輿を担いでいる。神輿は乗るものだと言ったのに」

神輿の担ぎ手の中に、自分たちの遣える主がいる。
小柄故、周りの男たちにもみくちゃにされているが、弾けるような笑顔で担いでいる。

「ん?神輿に乗っているのは⋯篠倉の山神様か?」
「そのようだな。あぁ、すっかり出来上がっておられる」

神輿の屋根にどっしりと胡座をかいて座っていれば良いのだが、屋根に覆い被さるようにぐでっと乗っかり半分目は虚ろ。
そんな状態にもかかわらず、手にはしっかりお猪口と徳利を持っていて、チビチビと酒を口に運んでいる。

「人間がトンネルを掘ったとお怒りのようだったが⋯ご機嫌だな」
「お狐様が陽録(ようろく)に伝えたらしい」
「伝えた?何をだ?」
「篠倉の山神様は酒が滅法お好きだと。日本酒、焼酎、ビールにワイン、特に珍しいものがお好きだと」
「つまり⋯」
「賄賂だな。世界中の色々な酒をお供えすれば良い、と陽録が篠倉の社守に伝えたんだ」
「なるほど」

人間の生活の利便性のため、自然に手を入れるのは致し方ない。
しかし、やはり神にも心はある。
篠倉の山神はその気持ちを、工事の邪魔をする事で現した。
無論、人は奇っ怪な現象が起きる、工事が進まないで困り果てていた。
そこに手を差し伸べたのがお狐様、ということだ。
因みに陽録とは、お狐様を祀る社守の末の息子の名前だ。
近年珍しく、人ならざるものの姿や声を聞くことができる。
当然、お狐様や左乃、右乃とも話せる。
今はお狐様も左乃、右乃も人に見えるよう力を調整しているが。

「あ、リンゴ!」

迷子の妹アヤが右乃の腕の中から手を伸ばし落ちそうになる。
その様子を見て、左乃の腕の中にいる兄ホトリもアヤに向かって腕を伸ばした。

「危ないから、動くな」

左乃にがっしりと掴まれたホトリは、それでも妹から目を離そうとしない。
アヤはと言うと、リンゴ飴に夢中になっている。
屋台の照明の下で、キラキラと輝く飴を纏ったリンゴが気になってしょうがないようだ。
右乃はそんなアヤの様子を見て笑い、屋台の店主にリンゴ飴を二本くれるよう話している。
店主は一本をアヤに、もう一本をホトリに手渡し右乃から代金を受け取っている。
早速リンゴ飴にかじりつこうとしているアヤを静止し、右乃はリンゴ飴を覆う透明な袋を外してやる。
その様子をじっと見守っているホトリに左乃は声をかけた。

「今食べるか?」

するとホトリはフルフルと首を振った。

「そうか」

そして右乃と左乃は、迷子の兄弟を抱えて また歩き出す。
笑って走り回る子供たち、懐かしい顔に話の花が咲く大人たち、手を繋いで屋台を覗いて歩く恋人たち。
人の間を走り回る人ならざるもの、木の上や岩の上、はたまた屋台の上等で、酒盛りをしている神々。
皆が皆思い思いに楽しい時間を過ごしている。

「左乃!右乃!」

その声がした方へ首を回せば、祭りの法被を着て頭に狐の面を着けた青年が、運営本部とでかでかと文字の書かれたテントの前でブンブンと手を振っている。

「陽録、ここにいたか」
「おうよ、あれ、お狐様は一緒じゃないのか?」
「あー、神輿を担いでる」
「えっ、今年も?一体いつになったら乗ってくれるんだろう」
「一緒に騒ぎたいんだろ、その方が楽しいからな」

今も心から喜んでいるはずだ。
おかげで、周囲の空気が清々しい。

「で、その子達は?」
「あぁ、迷子だ。二ノ池近くで保護した。こっちが兄でトオノ ホトリ5歳」
「こっちが妹でトオノ アヤ 3歳」
「親は来てないか?」
「トオノ⋯今の所来てないね」

スマホの画面をスイスイとスライドして、陽録は答える。
迷子情報は、運営のLINEで共有し探すようにしている。
何せ祭りの会場は村全体、一箇所で集約していては対応できない。
迷子センターは村全体で20箇所近く、神社敷地内だけでも4箇所ある。
因みに昨年の迷子の数は378人と、大人が祭りで羽目を外すので迷子が多く出る。
故に警察の協力無くしては、この豊穣の大祭は行えないのも事実。
まぁ、人間のみならず、人ならざるものたちも大勢参加している祭りなので、迷子にもしもの事は起きないのも、この祭りの特徴だ。

「よし、じゃぁこっちで預かるね。二人はお祭り楽しんで来て!」
「陽録、お前は?」
「俺は今日は忙しいんだ。あー、でも夕方にはちょっと時間とれるかな」
「そうか、ならその頃に楓を連れて来てやる」
「へっ?」

楓とは、陽録の幼馴染で村長の娘、そして恋人。
陽録同様、左乃達を見ることが出来る貴重な人間だ。
そして、お狐様はじめ大勢の方々から好かれる稀な人間だ。

「お前もいい歳だしな。いい加減身を固めろ」
「左乃?」
「そうだな、いい頃合いだろう」
「右乃?」
「逃げるなよ、陽録」
「お狐様は既に認めているから、問題ないぞ」
「え、ちょっと」
「ではな」

左乃と右乃はそう、言い残し人混みの中へと消えて行く。
その後ろ姿に戸惑いの言葉を投げつつ、陽録は思う。
何だかんだと言いつつも、やっぱり人ならざる者達は自分勝手だ、と。

「俺にだって、計画ってもんがあるんだよ⋯」

今年の彼女の誕生日、今日からひと月と6日後にプロポーズしようと思っていたのに。
でもそんな陽録の思いとは裏腹に、事は進んでいく。
3人の話を耳にした、陽録の友達が、親戚が、人ならざるものが、夕方に向かって準備を始める。
他人の恋バナは最高の酒のツマミ。

夕方、何故か陽録の手の中には先週買って部屋に隠しておいた指輪があり、右乃、左乃に連れられて楓は人垣の割れた、花道を静かに歩いてくる。
何故自分がイベント用のステージの上に立っているのか分からないまま、陽録は楓が自分に近づいて来るのを待っている。
たくさんの人と人ならざる者達に囲まれて、一生に一度の思い出にしたいプロポーズを強制的にやらされる事に僅かな怒りを感じるが、これもまた思い出となるだろう。
大きく息を吸って、静かに吐き出して、丹田に力を込める。
楓の笑う顔、頷いた仕草、その全てを目に焼き付けて、楓を腕の中に包み込む。

「おめでとう」

方々から聴こえる祝いの言葉は、そのまま喜びの声に変わり村全体を包み込む。
今の今から、三つの夜、人も人ならざるものも、歌い踊り呑んで食べる。
さぁ、最高の思い出になる、お祭りを始めよう!


━━━━━━━━━
(´-ι_-`) 兄妹のお話もある⋯のです。

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