茜は頬に打ち付けた水滴を手の甲で拭った。
拭った頬に泥が着くのも構わずに。
「雨⋯⋯」
見上げた空はどんよりと薄暗くなってきている。
ここふた月、日照りが続き雨らしい雨が降っていない。
今年の米はもう諦めた。
冬に雪が少なかったため当然雪解け水も少なく、田んぼ全体に水が行き渡らなかった。
仕方なく3割を休耕田にし、父親は田植え後すぐに出稼ぎに行った。
植えた苗の半分は既に枯れ、今年の米の収穫は望めない。
せめて畑だけでもと、毎日少し離れた川にまで足を伸ばし水を汲んでは懸命に水を与えたが、それも気休め程度でしかない。
乾ききってひび割れた土に水を撒くと、土の表面が水を弾く。
故に少し水を撒き浸透するのを待って、また水を撒くを繰り返す。
何もせずに枯らすよりは、ほんの少しだけでも、食べられるものが出来ればそれで良い、ただその思いだけで茜は毎日、川と畑の往復を繰り返していた。
何故、今頃なのか。
何故、もっと早くに降らなかったのか。
ひと月早く降っていれば、田んぼの稲は大丈夫だったかもしれない。
ふた月早く降っていれば、冬に生まれた弟は元気に笑っていたかもしれない。
みつき早く降っていれば、父は出稼ぎに行かずに済んだかもしれない。
雨粒は大きくなり、バタバタと地面を打ち付ける。
しばらく空を睨みつけ、ギュッと両の拳を握っていた茜は、桶と柄杓を手にし家へと帰っていく。
ずぶ濡れになりながら家へと戻ったその足で、茜は家中の『入れ物』を家の外に出す。
初めは様々な音を奏でていた入れ物達は、そのうち揃ってぴちゃんぴちゃんと音を鳴らす。
小さな茶碗に溜まった雨水を桶に入れ、桶の雨水を家の中の水瓶に入れる。
水瓶は大きいのがふたつに小さいのがひとつ。
それがいっぱいになるまで繰り返した。
瓶に桶、茶碗に鍋、そして竹筒、ありとあらゆる入れ物を雨水で満たした頃、外は雷の鳴る土砂降りの天気となっていた。
「⋯⋯体洗おう」
ポツリと呟いて、茜は服を着たまま外へ出た。
打ち付ける雨は先程より強く、暗い空には稲光が走る。
髪をまとめていた紐を解き、ワシワシと髪と頭を雨で洗う。
普段は川に入って洗うのだが、この雨なら丁度いい。
ついでにと、着物の帯も解き体と一緒に着物も洗う。
着物と言っても、薄い生地一枚のものだ。
もう3年も同じものを着ているから丈は足りないし、所々ほつれている。
これの他には母親が着ていた着物が一着と冬用の羽織があるだけだ。
あぁ、後は弟を包んでいたボロ布もあったか。
母親の着物には手をつけたくない。
せめて、秋に父親が帰ってくるまでは。
茜は力を込めて洗うと破れてしまう着物を、優しく丁寧に洗って絞り、家の中へ置いてくる。
そして、何も身につけずに土砂降りの雨の中へ戻り、暗闇の中空を見上げた。
時折闇を走る眩い光は、龍がその身体をくねらせ空を泳ぎ咆哮している様だと、旅の坊様が言っていた。
人は亡くなると天に帰るのだと言う。
だから、亡くなった人に会いたければ空に向かって手を合わせれば良いとも。
「かか様⋯」
弟は父親が出稼ぎに出た十日後に、動かなくなった。
母親は乳の出が悪かったから、と、涙を零しながら言った。
食べる物も少ない冬を、やっと越えたと思った矢先の事だった。
母親はそれからひと月もしないうちに、弟のいる場所へ旅立った。
食べる物は出来るだけ茜に与えて、自分は水以外ほぼ何も口にしていなかったようだった。
ほぼ、骨と皮だけだった母親の亡骸は、弟の隣に埋められた。
ひとりで平気かと、村の皆に心配されたが、茜はひとりで家に残った。
田んぼも、畑の世話も、食事の用意も一人でできる。
茜はもうじき10歳になるのだから。
「とと様を守って⋯⋯」
出稼ぎ先で父親が何をしているのか、茜は知らない。
ただ同じように出稼ぎに出た村の人が、戻らないことがあるのは知っている。
だから、例えどんなに日照りが続いても、例えどんなに激しい嵐が来ようとも茜は家にいる。
父親が帰る場所を守るため、母親との最後の約束を守るため。
一際大きな雷が、山間の小さな村に鳴り響く。
村の外れの一軒家。
大きくもなく小さくもないその家には、たった一人の少女が住まう。
家の南側には、三代前から開拓し受け継いできた田んぼがあり、西側には狭くは無い畑が広がっている。
家から少し離れた東側を流れる小川は、家の背後にある山から湧き出た水が集まり流れを成したもの。
その流れは、山を下りながら村の田畑を潤し、やがて山の麓の町で大きな川に合流する。
合流した川は、平地を流れ大地と人々を潤し、やがて海へと注がれる。
家の中、濡れた着物を竿に干し、囲炉裏の傍で床に寝転ぶ。
誰もいない家は、広くそして寒々しい。
何も身につけていない己の体を抱き締めて、茜は小さく呟く。
「寂しくなんかない。大丈夫、大丈夫⋯⋯」
ぎゅうっと自分の体を抱きしめ、父親の、母親の、小さな小さな弟の温もりを思い出す。
その温もりをいつまでも忘れることがないように、茜はそっと小さな身体に閉じ込めた。
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(´-ι_-`) 語彙が乏しい⋯⋯。
7/30/2024, 3:20:40 AM