真岡 入雲

Open App


ブブッ

短く震えて、スマホがメッセージの着信を告げる。
無駄のない短い文章で告げられる、今日の待ち合わせ場所。

「クリシュナ、ね⋯⋯」

ちょうど一年前、彼と出会った店だ。
会社の同僚に教えてもらった、古びた雑居ビルの地下にある落ち着いた雰囲気のバー。
お酒は然ることながら、ちょっとした食事も頼めば出してくれる、しかも絶品ともなれば通わないはずがない。
週三日の勢いで通っていた私に声をかけてきたのは、この店の常連の男ケイだった。
話によるとケイとマスターは十年来の友人で、マスターのパートナーはケイの幼馴染という仲だという。
私はと言えば、三十を過ぎて二年近く、母親の「良い人いないの?」攻撃を避けるようになって久しく、最後に男と付き合っていたのは四年前。
しかも別れた理由が、いつの間にか自分が二股の浮気相手の方になっていたとか、笑うに笑えない。

『俺、今度結婚する。暫く会えないけど、待っていてくれるよな?』

一瞬何を言われたのか理解できなかった。
言われた言葉を口の中で小さく呟く、何度も何度も意味が理解できるまで。
そして、理解した瞬間、とびっきりの笑顔で相手の顔面にグーパンチをお見舞いしてやった。
結婚相手は取引先の社長の娘だとか何とかで、断れなくて、とか愛してるのはお前だけだ、とか言っていたけれどそんなのはどうでも良かった。
こんなくだらない男に五年もの時間を費やしていたのかと思うと、悔しくて情けなくて馬鹿らしくて泣きたくなった。

その点、ケイは分かりやすかった。
俗に言う遊び人で、誰にでも親切で、誰にでも優しくて、誰にでも愛を囁く。
だから初めから体だけの関係で、交わした約束は『一緒に朝を迎えないこと』。
同僚には言われた、馬鹿じゃないのか、と。
自分でもそう思う、いい歳して体だけの関係とか、それこそ本当に時間の無駄でしかない。
それでも、人肌が恋しいと思ってしまう。
嘘でもいいから、誰かに愛されたいと思ってしまう。
でも、もう傷付きたくないとも思う、ただのアラサー女の我儘でしかない。
そしてケイは、その我儘に付き合ってくれているだけだ。

「いらっしゃい」

カラカラン、と軽い金属音が鳴る扉を開けるとそこに広がるのは優しい空間。
年月を経た木が独特の輝きを放ち、静かに流れるJAZZの音がこの空間に溶け込んでいる。
カウンターに目的の人物が居ないのを確認して、端の方に腰掛ける。

「フォールン・エンジェルを」
「畏まりました」

最近入った若いバーテンダーに注文をして、一つ息を吐き出す。
いつからだろうか、彼と会うのがこんなにも楽しみになったのは。
話すのが楽しいのは初めからだった、それは覚えている。
身体を重ねるようになるまで、そんなに時間はかからなかった。
まぁ、半分自暴自棄になっていたというのもあるけれど。
遊び人だから、なのかどうかは分からないけれど、彼は酷く優しく抱いてくれる。
体の相性も悪くない、と言うよりも凄く良くて困るほど。

「何だ、顔赤いぞ?」

突然の背後からの声にびくりと肩が揺れた。
振り返らなくてもわかる、ケイだ。

「気のせいよ」
「そうか?キャロルを」
「畏まりました、ケイさん」

私の前にフォールン・エンジェルを置いた新顔のバーテンダーに、彼は慣れたように注文する。
あれは人たらしだ、と言っていた同僚の言葉を思い出す。
確かにそうなのだろう。
常連客の皆がケイに一言二言声をかけて行く、男も女も関係なく。
それに笑顔で答える彼は、実に楽しそうだ。
私もその中の一人に過ぎないのかと思うと、胸が締め付けられるように痛くなる。
この感情が何なのか分からないほど初心じゃない。
だから余計に自分が嫌になる。
この感情を無理やり箱の中に押し込めて、ただの女を演じる。

「はい、プレゼント」
「⋯⋯何の?」
「出会った記念の、というのは冗談で、お土産。出張でチョット海外にね。気に入ってくれると良いけど」
「ありがとう。開けても?」
「もちろん」

包みを開いて出てきたのは、青い石を中央に飾ったペンダント。
少しくすんではいるけれど、細工は素晴らしいし、何よりもデザインが私好みだった。

「アンティークだけど、好きだろ?こういうデザイン」
「えぇ、凄い⋯ステキ」

店の照明の下、キラキラと輝く石が目の前を通り過ぎる。

「着けてやる」

サラリと言って、私の後髪を左の肩に寄せ慣れた手つきでペンダントを着けてくれる。
髪を整えるのと同時に、周りに気付かれないよう、首筋を彼の指がなぞっていく。

「⋯⋯ありがとう、大切にするわ」

カクテルを飲み干して、店を出る。
二人並んで歩いていつものホテルに向かおうとしたら、腕を引かれた。
今日はコッチ、と言って連れていかれたのは、誰もが知るホテル。
導かれるまま部屋に入って、カーテンの閉まった窓辺で振り返ったケイはとても笑顔だった。

「え、なに?」
「前に言ってたろ。夜景の綺麗なホテルで、シャンパンに苺を浮かべてお祝いしたいって」
「言った、けど、何のお祝い?」
「俺たちが出会って、一年のお祝い、かな」
「キザ過ぎない?」
「そう? でも、嫌いじゃないだろ、こういうの」
「悔しいけど、好きだわ」

開けられたカーテンの向こうには、大小様々な光が溢れている。
そっと手に持たされた、苺の浮かんだシャンパンの泡の弾ける音。

「俺たちに」
「⋯⋯乾杯」

クイッとシャンパンを含むと、ほんのりと苺の香りが口の中に広がる。
私の様子をじっと見ていたケイは、自分の演出に満足したのか一つ頷くとシャンパンを一気に飲み干した。

どうして、こんなにも優しくするのだろう。
体だけの関係なのだから、こんなことしなくてもいいのに。
もっとドライでいてくれれば、こんな思いはしなくて済んだはずなのに。

目が覚めるといつも、ケイの温もりを探してしまう。
かつてした、約束を違えること無く、朝になればケイの姿は隣にはない。
既に冷たくなった、ケイの跡に指を這わせて虚しさにキツく目を閉じる。
そんな朝をこれからどれだけ迎えるのだろうか。

夢の中ならば言える。
ケイが好きだと、ケイを愛していると。
変なプライドに邪魔されず、臆病な自分に負けることなく、心の中をさらけ出して。
私の目が覚めるまでに、いなくなってしまう彼を引き留めたくて、でもできなくて。
今夜も私は眠りに落ちる。
ふわふわとした浮遊にも似た感覚に全身を支配され、時折降り注ぐキスの嵐に束の間の幸福を感じながら。



━━━━━━━━━
(´-ι_-`) 【目が覚めるまでに】じゃなくて【目が覚める前に】だな(¯―¯٥)

8/4/2024, 5:28:09 AM