熱に浮かされたように、彼女は口にする。
『好き』『愛している』と、俺の名を呼び、普段決して口にすることの無い言葉を続ける。
これはただのリップサービスで彼女の本心ではないと、彼女の熱にショートしきった脳に教えてやるが、身体は正直だ。
快楽を、熱を、愛を求めて彼女を自分の腕の中に閉じ込める。
ケイ
それが、人の欲望を飲み込みごちゃ混ぜにして出来上がった、この街での俺の名前。
両親や祖父母からのプレッシャーに負けそうになっていた俺を、幼馴染が連れ出してきてくれた街。
初めは好きになれなかった。
綺麗な表通りと違い、一本路地裏に入れば道幅は狭く、そして薄暗い。
すえた匂いが鼻をつき、聞こえてくるのは普段聞くことの無い野蛮な言葉ばかり。
酔ったいい大人が、通りのそこかしこで誰かと肩を組み大声で笑い合い、フラフラとした足取りでどこかの店に入っていく。
それは人間の汚い部分を見せられているようで、不快でしか無かった。
幼馴染は慣れたように路地を歩き、時折声をかけてくる者と二言三言、言葉を交わし『クリシュナ』と看板が掲げられている雑居ビルの地下へと降りていく。
階段を一段下る毎に、外の喧騒が小さくなり店の扉の前では気にならないほどになった。
そして、ドアに付けられたベルの乾いた金属音が鳴り、目の前に現れたそのBARは、不思議と落ち着く空間だった。
幼馴染のパートナーがマスターを務めるその店は、良い酒と簡単な食事を提供してくれる。
ケイという名前でその店にいる間、いや、この街にいる間、俺は自由だった。
自分の欲望のまま自由に生きるということが、こんなにも心を軽くしてくれるものだとは知らなかった。
それまで自分を縛りつけていたものを脱ぎ捨て、自由に振る舞う、ただそれだけで生きている実感が持てた。
それから、上手く息が吸えなくなると、俺はクリシュナに通った。
どこの誰かなんて誰も詮索しない、ただのケイを暖かく迎えてくれる場所に。
若い頃は、まぁ、色々な誘いに乗って遊んだ事は否定しない。
そこに愛がなくても、楽しい時間を過ごすことはできるし、愛がないからこそ後腐れなく関係を持てる。
でもそれも、ある程度歳を重ねてくると落ち着くもので、最近は誘いに乗ることも稀になっていた。
ただ、ケイはそれで良かったが、現実の俺はそうもいかなかった。
両親や祖父母は事ある毎に、見合い話を持ってくる。
相手は自分で決めると何度言っても、聞く耳を持たない。
良い人がいるのなら連れて来いとは言われているが、そんな相手はいなかった。
現実の自分に近付いてくるのは、俺ではない作られた人間を見ている者達で、結局彼女等は地位や金が目当てでしかない。
兄達に言わせれば、金だけで大人しく従うのなら面倒がなくていいらしいが、俺は生涯の伴侶となる人物をそんな風には割り切れなかった。
そんな時、出会ったのが彼女だった。
一目惚れと言うと大袈裟だけれど、似たようなものだろう。
初めて話をした時から、とても楽しかった。
何度か話しているうちに、つい口が滑って彼女を誘ってしまった。
すると彼女は『一緒に朝を迎えないこと』と、条件を付けた。
逆なら言われたことはあるが、一緒に朝を迎えない、つまりお互い本気にはならない、という事か。
もう既に遅い気もするが、俺はその条件を飲んだ。
彼女と会える時は、どんなつまらないことでも楽しく思えた。
仕事上のトラブルも、積み上げられた書類の対応も、煩わしい両親と祖父母の見合い攻撃も、彼女と会えるだけで全て乗り越えられる。
階段を下り、店のドアを開けカウンターに座る彼女の後ろ姿を見つけた時、宝物を見つけたような昂揚感が全身を巡る。
軽く酒を飲み、時には食事をして、楽しい時間を過ごして、二人で店を出る。
いつものホテルに向かい、彼女の首筋に顔を埋め、彼女の温もりを、熱を、匂いを、艶やかな声を脳にインプットする。
そして、彼女を抱いた後、ベッドに沈む彼女を残して部屋を出る、その時が一番苦しい。
また会うために、彼女を一人残し離れなければならない、その瞬間が苦しい。
けれど、彼女との約束を破るだけの勇気は、まだ持てなかった。
「えっ?」
「あれ、聞いてなかった?ってっきり聞いてると思ってたわ。失敗したぁ、ゴメン、ケイ。今の聞かなかった事にして」
彼女の友人の、顔馴染みの常連客が、手を合わせ俺に拝むように頭を下げる。
わかったと返事をして、手元のギムレットを口に含む。
今日は約束をしていた訳じゃない。
ただ、明日から暫く海外に行かなければならないから、運良く会えれば、と思って来ただけだったが。
二股?結婚?少し待て?
五年も付き合った相手に対して、よくそんなことが出来る、と腹を立てた所で、自分が言える立場ではない事を思い出す。
だが、しかし⋯⋯。
「ケイは⋯⋯、ううん、何でもない」
彼女の友人が言いたい事は、何となくわかるが、それは俺達の問題であって他人が口を出すことでは無い。
そしてそれがわかっているからこそ、彼女の友人は何も言わない。
俺は残りのギムレットを一気に飲み干し、挨拶をして店を出た。
彼女と出逢って、もうすぐ一年。
今の関係は酷く歪で、それでいてぬるま湯に浸かっているような安心感がある。
でも、このままでは俺も彼女も、先に進めない。
それならば、この関係を先に進めるのも、壊すのも、彼女を最初に誘った俺がすべきだ。
心の整理をする時間は、与えられているのだから。
シーツの波間に沈む彼女にキスの雨を降らす。
額に、頬に、唇に、鼻筋に。両の瞼に、首筋に、そして贈ったペンダントを指に絡め、青い石にキスを落とす。
出張先で見つけたアンティークのペンダントと同じデザインの指輪。
彼女が好きそうだとも、彼女に似合いそうだとも思って、衝動的に買ってしまった。
「⋯⋯キミは、まだ怖いのか?」
裏切られるのが、だから本気にはならない、いや、なりたくないんだろう。
『一緒に朝を迎えないこと』
そんな条件を出しながら、キミはいつも一人で寝てしまう。
キミを置いて部屋を出るのはいつも俺の役目だ。
でも、今日は⋯⋯。
「おはよう」
ゆっくりと目を開けたキミに朝の挨拶を。
あぁ、寝起きのキミはこんなにも可愛いのか。
何度か瞬きを繰り返して、キミは小さく呟くように『おはよう』と口にする。
その口を自分の口で塞ぎ、腕の中にキミを閉じ込める。
離したくない、と全身が叫ぶ。
身動ぎするキミの頭を自分の肩に寄せて、キミの耳に俺の言葉を届ける。
「ずっと一緒に朝を迎えたかった」
その言葉に君の体が硬くなる。
「この関係を終わらせたかった」
俺の腕の中から逃れようと、腕に力を込めるキミを俺も力を込めて抱きしめる。
ゴメン、苦しいかもしれない。
けど、もう少しだけ俺に時間をくれないか。
「その場限りじゃなく、きちんと先を見据えて付き合いたい。俺はもっとキミのことが知りたい」
腕に込められていた力が消え、代わりに小さな声が聞こえた。
「⋯⋯嘘⋯⋯だって、他にも⋯⋯」
「他?⋯⋯あぁ、昔はまぁ遊んでいたけど、今はキミだけだ」
「⋯⋯」
「信じられない?」
無言で頷いたのがわかる。
まぁ、そうだよな。
「ケイっていうのは、昔飼っていた犬の名前」
「⋯⋯えっ?」
どうすれば信じてもらえるかなんて分からないから、ただ、自分の事を話した。
クリシュナに初めて行った時のこと、通っていた理由、家族のこと、仕事のこと、俺に寄ってくる女性たちのこと、隠さずに正直に。
「好きとか愛してるとか、言葉だけなら何とでも言える、そう思っていた。けど、昨日、キミに言われてわかった」
「⋯⋯なに、を?」
「どう、言われるかじゃなく、誰に言われるかが重要なんだとわかった。キミが『ケイ、好き』『ケイ、愛してる』って言う度に、凄く嬉しかった、そして苦しかった。だって『ケイ』は俺の本当の名前じゃない」
「だって、私⋯」
そう、キミは俺の本当の名前を知らなかった、だから当然だ。
これは単に俺の身勝手でしかない。
「だから、俺の名前を呼んで欲しい。そして、俺以外の人には言わないで欲しい」
「ふふっ、随分、狭量ね」
「自分でもそう思う」
俺の言葉にキミがクスクスと笑う。
そんなキミを俺はギュッと抱きしめる。
「約束して。隠し事はしないで、お願い」
「約束する」
「それから、朝は一緒に迎えたい」
「もちろ⋯⋯仕事とかで無理な時が出てくるな」
「じゃぁ、『できるだけ朝は一緒に迎える』で」
「約束する」
「それから⋯⋯キスして」
初めてキミと迎える朝は、新しい関係の始まり。
軽く唇を何度か重ね、俺はキミの指にリングを嵌めた。
青く輝く石を朝日に翳し微笑んだキミの笑顔を、俺は一生忘れない。
━━━━━━━━━
(´-ι_-`) 遅くなりました。最後駆け足スミマセン。昨日のお話の続きをケイsideで。
ブブッ
短く震えて、スマホがメッセージの着信を告げる。
無駄のない短い文章で告げられる、今日の待ち合わせ場所。
「クリシュナ、ね⋯⋯」
ちょうど一年前、彼と出会った店だ。
会社の同僚に教えてもらった、古びた雑居ビルの地下にある落ち着いた雰囲気のバー。
お酒は然ることながら、ちょっとした食事も頼めば出してくれる、しかも絶品ともなれば通わないはずがない。
週三日の勢いで通っていた私に声をかけてきたのは、この店の常連の男ケイだった。
話によるとケイとマスターは十年来の友人で、マスターのパートナーはケイの幼馴染という仲だという。
私はと言えば、三十を過ぎて二年近く、母親の「良い人いないの?」攻撃を避けるようになって久しく、最後に男と付き合っていたのは四年前。
しかも別れた理由が、いつの間にか自分が二股の浮気相手の方になっていたとか、笑うに笑えない。
『俺、今度結婚する。暫く会えないけど、待っていてくれるよな?』
一瞬何を言われたのか理解できなかった。
言われた言葉を口の中で小さく呟く、何度も何度も意味が理解できるまで。
そして、理解した瞬間、とびっきりの笑顔で相手の顔面にグーパンチをお見舞いしてやった。
結婚相手は取引先の社長の娘だとか何とかで、断れなくて、とか愛してるのはお前だけだ、とか言っていたけれどそんなのはどうでも良かった。
こんなくだらない男に五年もの時間を費やしていたのかと思うと、悔しくて情けなくて馬鹿らしくて泣きたくなった。
その点、ケイは分かりやすかった。
俗に言う遊び人で、誰にでも親切で、誰にでも優しくて、誰にでも愛を囁く。
だから初めから体だけの関係で、交わした約束は『一緒に朝を迎えないこと』。
同僚には言われた、馬鹿じゃないのか、と。
自分でもそう思う、いい歳して体だけの関係とか、それこそ本当に時間の無駄でしかない。
それでも、人肌が恋しいと思ってしまう。
嘘でもいいから、誰かに愛されたいと思ってしまう。
でも、もう傷付きたくないとも思う、ただのアラサー女の我儘でしかない。
そしてケイは、その我儘に付き合ってくれているだけだ。
「いらっしゃい」
カラカラン、と軽い金属音が鳴る扉を開けるとそこに広がるのは優しい空間。
年月を経た木が独特の輝きを放ち、静かに流れるJAZZの音がこの空間に溶け込んでいる。
カウンターに目的の人物が居ないのを確認して、端の方に腰掛ける。
「フォールン・エンジェルを」
「畏まりました」
最近入った若いバーテンダーに注文をして、一つ息を吐き出す。
いつからだろうか、彼と会うのがこんなにも楽しみになったのは。
話すのが楽しいのは初めからだった、それは覚えている。
身体を重ねるようになるまで、そんなに時間はかからなかった。
まぁ、半分自暴自棄になっていたというのもあるけれど。
遊び人だから、なのかどうかは分からないけれど、彼は酷く優しく抱いてくれる。
体の相性も悪くない、と言うよりも凄く良くて困るほど。
「何だ、顔赤いぞ?」
突然の背後からの声にびくりと肩が揺れた。
振り返らなくてもわかる、ケイだ。
「気のせいよ」
「そうか?キャロルを」
「畏まりました、ケイさん」
私の前にフォールン・エンジェルを置いた新顔のバーテンダーに、彼は慣れたように注文する。
あれは人たらしだ、と言っていた同僚の言葉を思い出す。
確かにそうなのだろう。
常連客の皆がケイに一言二言声をかけて行く、男も女も関係なく。
それに笑顔で答える彼は、実に楽しそうだ。
私もその中の一人に過ぎないのかと思うと、胸が締め付けられるように痛くなる。
この感情が何なのか分からないほど初心じゃない。
だから余計に自分が嫌になる。
この感情を無理やり箱の中に押し込めて、ただの女を演じる。
「はい、プレゼント」
「⋯⋯何の?」
「出会った記念の、というのは冗談で、お土産。出張でチョット海外にね。気に入ってくれると良いけど」
「ありがとう。開けても?」
「もちろん」
包みを開いて出てきたのは、青い石を中央に飾ったペンダント。
少しくすんではいるけれど、細工は素晴らしいし、何よりもデザインが私好みだった。
「アンティークだけど、好きだろ?こういうデザイン」
「えぇ、凄い⋯ステキ」
店の照明の下、キラキラと輝く石が目の前を通り過ぎる。
「着けてやる」
サラリと言って、私の後髪を左の肩に寄せ慣れた手つきでペンダントを着けてくれる。
髪を整えるのと同時に、周りに気付かれないよう、首筋を彼の指がなぞっていく。
「⋯⋯ありがとう、大切にするわ」
カクテルを飲み干して、店を出る。
二人並んで歩いていつものホテルに向かおうとしたら、腕を引かれた。
今日はコッチ、と言って連れていかれたのは、誰もが知るホテル。
導かれるまま部屋に入って、カーテンの閉まった窓辺で振り返ったケイはとても笑顔だった。
「え、なに?」
「前に言ってたろ。夜景の綺麗なホテルで、シャンパンに苺を浮かべてお祝いしたいって」
「言った、けど、何のお祝い?」
「俺たちが出会って、一年のお祝い、かな」
「キザ過ぎない?」
「そう? でも、嫌いじゃないだろ、こういうの」
「悔しいけど、好きだわ」
開けられたカーテンの向こうには、大小様々な光が溢れている。
そっと手に持たされた、苺の浮かんだシャンパンの泡の弾ける音。
「俺たちに」
「⋯⋯乾杯」
クイッとシャンパンを含むと、ほんのりと苺の香りが口の中に広がる。
私の様子をじっと見ていたケイは、自分の演出に満足したのか一つ頷くとシャンパンを一気に飲み干した。
どうして、こんなにも優しくするのだろう。
体だけの関係なのだから、こんなことしなくてもいいのに。
もっとドライでいてくれれば、こんな思いはしなくて済んだはずなのに。
目が覚めるといつも、ケイの温もりを探してしまう。
かつてした、約束を違えること無く、朝になればケイの姿は隣にはない。
既に冷たくなった、ケイの跡に指を這わせて虚しさにキツく目を閉じる。
そんな朝をこれからどれだけ迎えるのだろうか。
夢の中ならば言える。
ケイが好きだと、ケイを愛していると。
変なプライドに邪魔されず、臆病な自分に負けることなく、心の中をさらけ出して。
私の目が覚めるまでに、いなくなってしまう彼を引き留めたくて、でもできなくて。
今夜も私は眠りに落ちる。
ふわふわとした浮遊にも似た感覚に全身を支配され、時折降り注ぐキスの嵐に束の間の幸福を感じながら。
━━━━━━━━━
(´-ι_-`) 【目が覚めるまでに】じゃなくて【目が覚める前に】だな(¯―¯٥)
「お前の部屋、病室みたいだな」
彼の言いたいことは何となくわかる。
けれど、言葉は選ぶべきだと思う。
白を基調とした私の部屋には、物が少ない。
と言うより、見える所に物を置かないようにしている。
何故か、と問われれば『生活感』が出るから。
私は今どき珍しい、七人兄弟の真ん中。
まぁ、親の再婚で七人兄弟になっただけで、私は元々一人っ子だった。
父さんが再婚するまでは、二人で住んでいた家に継母とその子供六人がやってきた。
二人で暮らすには広かった家も、九人で暮らすとなれば狭くなる。
それまで一人部屋だった私は、同い年の姉との二人部屋になった。
兄弟仲は悪くなく、みんなと仲良くワイワイ暮らしていたけれど、一つだけ問題があった。
私は目につくところに物が沢山あるのが苦手で、『生活感』のある空間ではリラックスできない。
何故かと聞かれても良くは分からないけれど、気が散って集中できなくなるし、落ち着かない。
酷くなると眠ることすらできなくなってしまう。
これは多分、小さい時からそういう環境で育ってきた所が大きいのだと思う。
だから、同い年の姉との二人部屋は私には辛かった。
姉は片付けができない人では無いが、色々と物を置くのが好きで、可愛いぬいぐるみ、綺麗なジュエリーボックス、見せる収納という名のマガジンラック等、私の苦手とするものばかりを部屋に持ち込んだ。
そして極めつけはアイドルのポスター。
壁一面、所狭しと貼られて私は絶望した。
対策としては、姉のエリアと私のエリアに分け、間をカーテンで仕切った。
これでどうにか余計な物が視界に入らない空間を確保した。
それでも、普通の生活空間は、もうどうしようも無く我慢するしかなかった。
なので、長期の休み等は祖父母の家に避難したり、ホテル合宿をするなど色々と対策した。
高校を卒業し、大学に通うのと同時に家を出た。
と言っても、実家から二駅離れた、駅にほど近いマンション。
父の友人の持ち家で、仕事の関係で六年ほど海外へ行くことになったため、その間だけ住む人を探していた。
ただ、持ち家なので知らない人に貸すのは気が引けるので、どうしようかと悩んでいた所に、丁度よく私が家を出る事を検討し父に相談したのだった。
父としても、家から近いし、自分の仕事場にも近い。
駅からも近くセキュリティも万全な物件だったため、言う事なしで即決した。
そして二週間前、六年間暮らしたマンションを本来の家主に返すため、私は引越しをした。
会社に徒歩で通える距離にある、少し年季の入った賃貸マンションへ。
造りは古いが内装はリノベーションされていてとても綺麗だし、家賃もお手頃価格。
必要な家具を揃え、荷物の整理が終わり、新しい部屋が整ったのがつい一週間前のことだ。
で、ここで冒頭に戻るわけだけど、大学を卒業し、無事希望した研究職に就いて二年弱。
仕事でよくペアを組まされる、同期の男性が吐いたセリフがアレ。
「いいから、早く」
「ヘイヘイ」
私が急かすと彼は手にしていたキャリーを床に置き、蓋を開けた。
しばらくじっと待つと中から白い手がにゅっと出てきた。
そして次に丸いフォルムの頭が出てくる。
「椿姐さん、宜しくお願いします」
彼がそう言うと、『椿姐さん』と呼ばれた白猫は短く「ニャッ」と鳴いて周囲をぐるりと見回した。
音を立てず、部屋を時計回りに歩く姿を私と彼は目で追う。
心做しか室温が下がった気がした。
何をしているかと言うと、除霊と言われるやつ。
引越しをしてから、あまり眠れていなかった私に対し、彼が声をかけてきた。
最近引越ししたか、と。
会社の総務には手続きをしたが、引っ越した事は誰にも話していなかった。
不審がる私に対し彼は一つ大きく息を吐き出すと耳元で言った。
『ここのところ眠れてないよな。あと左の肩から腰にかけて痛いだろ?』
聞けばそう言う能力を持っているらしい、けれど自分は見えるだけなのだとも。
初めは半信半疑だったけれど、色々と知らないはずのことを言い当てられて、信じるしか無かった。
「ねぇ、いるの?やっぱり」
「いる。というか、思った以上に居てびっくりだわ」
「えっ」
会社では三体くらいとか言ってた気がするけど、それ以上ってこと?
「んー、この部屋がダメなんだな」
「どういう事?引っ越さないとダメって事?」
流石に引っ越して二週間でまた引越しはキツイ、肉体的にも金銭的にも。
「そうじゃなくて、病室みたいだろ、この部屋。白ばっかで、物も少ないから殺風景だし。病室に似てるから寄ってくるんだよ。で、寝るんだベッドに。お前と一緒に⋯⋯」
彼の視線はベッドへと注がれる。
つられて私もベッドへと視線を移した。
一緒に寝る、その光景を想像してしまい、さぁっと血の気が引いた。
「カーテンとベッドカバーの色を変えて、あと猫とか犬とか飼えれば良いけど、ここペット禁止物件?」
「ううん、OK物件だけど、仕事でいないことの方が多いから可哀想な気がして」
「確かにそうか⋯⋯、なら植物とか熱帯魚とか、少しでも生気を感じるものを置くことだな」
「わかった」
観葉植物なら置いてもそれほど気にはならない。
ただ、あまりたくさんは無理だけど。
「後は時々こうして椿姐さん連れてきてやる」
「えっ、⋯⋯ありがと?」
「何で疑問形なんだよ」
軽いデコピンを貰って、全然痛くない額に手を置く。
椿姐さんは相変わらず部屋の中を歩いている。
時折立ち止まっては、ミャウと鳴いてまた歩き出すのを繰り返す。
椿姐さんは除霊ができるそうで、多分今も部屋を歩き回りながら除霊してくれている。
報酬はチュールと猫缶で十分で、後は彼に夕飯を一回分奢る約束。
これで安眠が手に入るなら安いものだ、そう思って、だいたい月に一回から二回、椿姐さんに来ていただいた。
これがきっかけで、いつの間にか彼と付き合い始めて気がついたら結婚していたとか、何だか騙されたんじゃないかしら、と今でも時々思う。
けれど、小さな息子が何も無い空間に向かって手を伸ばして笑っていたり、椿姐さんの子供が家の中を歩いて、時々ミャウと鳴いていたりするから、多分騙されてはいない⋯⋯よね?
━━━━━━━━━
(´-ι_-`) お猫様は神秘的デス( ΦωΦ )
梅雨が明けたと言う割には、ぐずついた天気が続いている。
まるで今の私の心の中のよう。
「はぁ、だいぶ泣いたなぁ」
自分の体の中にこんなにも水分があるのかと、驚いてしまうほど泣いた。
泣いて泣いて泣き疲れて眠って、起きてまた泣いて。
そんなこんなを繰り返しているうちに、世間は梅雨明け宣言が出され早五日が経っていた。
でもほら、今日もどんより曇り空。
青空なんてこれっぽっちも見えない。
私の心も一緒だ、太陽の光なんて一筋も差し込まない、厚い雲に覆われている。
「会社辞めちゃったのになぁ」
『寿退社』という、一番後腐れのない方法で、先月末に22歳から15年務めた会社を退職した。
陰で御局様とか、行き遅れとか、ロボット先輩とか呼ばれていたのも知っている。
仕事において、手を抜くことができなくて、ついつい口煩くなってしまって。
まぁ、若い子達からしてみれば、細かいことに煩いオバさんでしか無いわよね。
それなりにお給料も良かったし、福利厚生もしっかりしていて、何より上司に恵まれていた、半年前までは。
入社当初は私の教育係で、厳しくもしっかりと指導してくれた上司が定年で会社を去り、代わりに来たのが役員と縁戚とか言う中途採用者。
どこかの大きな会社で働いていたそうで、仕事はそれなりにできる人だった。
ただ、私はどうにも嫌われていて、早い話がパワハラのターゲットになってしまっていた。
同じ課の若い女の子には凄く優しかったので、そういう事なんだろう。
頭にはきたけれど、仕事は手を抜きたくなかったから我慢した。
もちろん、泣き寝入りはしたくなかったので、ホットラインとか連絡したけれども、意味は無かった。
そんな時、幸人からプロポーズされた。
幸人は私より八歳も年下で、出会った当初はからかわれているのかと思ったけど、彼は真剣だった。
けれど、私は色々な理由をつけては、彼の申し出を断っていた。
だってもう私もいい歳だし、それに恥ずかしい話だけど『彼氏いない歴=年齢』でどうすればいいのかわからなかった。
そんな私に対して、幸人は根気強く、我慢強く付き合ってくれた。
友達から始めたお付き合いは、半年後には恋人のそれになった。
急ぐことなくゆっくりと、私のペースに合わせて一緒に歩いてくれる幸人は、とても素敵な恋人だった。
交際してもうすぐ二年という時に貰った婚約指輪。
息ができなくなるくらい、嬉しくて泣いてしまった。
夢だった自分の店を開くんだと言われたのもその時。
開業資金が少し足りないという彼に、私は迷うことなくお金を渡した。
お店の場所も決めて、二人で住む部屋も決めた。
会社に通える距離では無いので、今の会社は辞めることにした。
昨日の今日で会社は辞められないから、幸人が先に引っ越して、私は後から引っ越すことにした。
引越しの準備や仕事の引き継ぎで、幸人とは部屋の契約以降、なかなか会えなかった。
部屋、電気、ガス、水道等の契約は私名義で行った。
幸人に自分は店の契約をするから、その方が良いと言われたから。
会えない間も、連絡はとっていた。
数日ごとに届く幸人からのLINE。
お店の工事の様子が画像で送られてくる。
お店の図面、何も無い空間、運び込まれる資材、壁、天井、鏡に椅子にカウンター。
幸人の夢が徐々に形になって行くのが、自分の事のように嬉しかった。
会社を辞めて二週間後、引越しの荷物を業者にお願いして、部屋を引き払い、電車に乗り込む。
ここから電車と新幹線で三時間、向こうに着くのは夕方近く。
3ヶ月近く会っていない幸人と会えることが凄く楽しみで、新幹線の中から『もうすぐ会えるね』とLINEを送った。
けれど既読がつかない。
五分、十分、三十分、一時間。
今日は駅まで迎えに来てくれる予定で、新幹線の到着時刻も教えてある。
急用で手が離せないとか?
少しの不安はあったけれど、幸人を信じていた。
駅で待っていてくれると。
雨は止むことなく降り続ける。
しとしとピチャピチャと音を立て、アスファルトの上を滑り側溝に飲み込まれて行く。
幸人と連絡がつかなくて、駅で待つこと三時間。
このまま待っているわけにも行かず、取り敢えずタクシーに乗り部屋に向かう。
マンションの前でタクシーを降りて、部屋を見上げる。
電気が点いている様子はない。
エントランスで部屋を呼び出すも、応答はなく、仕方なしに自分の鍵で解錠する。
煩いくらいの心音が自分の鼓膜に響く。
ここに来るのは三度目、内見の時と、諸々の契約の時、そして今日。
エレベーターに乗って、ガラスの向こう側に通り過ぎるフロアを見送る。
ポーンと妙に明るい音が響いて、扉が開く。
右手に曲がった突き当たりの部屋。
最上階の角部屋が、私達の新生活の場となる部屋。
ほんの小さな希望を抱いてベルを鳴らすも反応はなく、手にした鍵で解錠した。
静かに扉を開き、体を滑り込ませる。
キャリーバッグを引き寄せて、静かにドアを閉めた。
「幸人?」
暗闇に向かって、名前を呼んでみても返事は無い。
手探りでライトのスイッチを入れて、暗闇に明かりを灯した。
「⋯⋯幸人?」
生活感の感じられない空間がそこにある。
近くのドアを開けて照明をつけ、ソコに目的の人がいないのを確認する。
それを部屋の数だけ繰り返して、私は床に座り込んだ。
照明は契約したその日に揃えた。
何をするにしても一番必要となるものだから。
家電に関しては、二人揃ってから買いに行こうと決めた。
それまでは、幸人が使っているものをそのまま使う約束で。
ベッドもソファもカーテンも全部、二人で揃えようって、言って⋯⋯。
何も無い、この部屋には何も無い。
家具も家電も幸人の気配も、何一つ存在しない。
次の日来た引越し業者は、さぞ驚いただろう。
目を真っ赤に晴らしたおばさんが、ボサボサ頭で顔を出したのだから。
運んで貰った荷物はさほど多くない。
布団に衣類と少しの食器類、父と母との思い出の品が少しに位牌と写真。
それから本がダンボールに二つ分、たったコレだけ。
37年生きた人間の持ち物としては少ない。
LINEを開いて、既読のつかないメッセージを見つめる。
事故にあったのかとも考えたけど、この部屋に何も無かった理由がない。
不動産屋に、お店の物件のことを確認したら、翌日にキャンセルされましたよね?と言われた。
つまりこれは、計画的なものだと言うこと。
幸人は私と暮らす気は初めからなかった、ということ。
郵便受けに鍵だけが入った封筒が入れられていて、乾いた笑いが口から漏れた。
そこから、泣いた。
本当に、だいぶ泣いた。
両親を亡くした時以上に、泣いた。
「はぁ、馬鹿だなぁ」
あの画像を見る限り、幸人の夢は叶ったのだろう。
自分の店を持って、たくさんの人を笑顔にしたいと言っていたから。
その夢を叶えるのに、私は少しお手伝いをしてあげた、そういう事だ。
いい歳をした恋愛初心者のオバさんと付き合ってくれた、オバさんに幸せな夢をみせてくれたお礼だと思えば安いものだ。
プロに頼んだら三百万では済まないはずだから。
うん、そういうことなんだ。
いつまでもウジウジしていられない。
とりあえずは仕事を探そう。
幸いにも、前の上司に勧められて取得した資格がそれなりにある。
きっと役に立つはずだ。
資格取得は彼女の趣味だった様にも思うが、まぁ、いいか。
あぁ、でもその前に。
明日、もし晴れたら髪を切りに行こう。
ずっと幸人がケアしていた背中まで伸びたこの髪を、幸人に出会う前と同じショートヘアに切ってしまおう。
だから⋯⋯。
「あーした、天気になぁれ」
家具のない部屋で、スリッパを飛ばす。
明日、晴れることを祈りながら。
━━━━━━━━━
(´-ι_-`) 国家資格がイイヨネ\( ´ω` )/
人の中にいると酷く疲れた。
それは家族といる時も一緒で、リビングでの家族団欒とか私にとっては地獄でしか無かった。
その表情ひとつ、言葉ひとつ、行動ひとつ、それだけで私の頭の中は計算を始める。
何を?
そんなの私が知りたい。
あぁでもない、こうでもない、と色々と計算した結果、脳が、心がショートする。
考えなければいい。
私もそう思う。
気にする必要ない。
そうなんだろうね、きっと。
いつも通りで良いんだよ。
いつも通りって?
唯一の心の休まる場所は、本の中。
漫画、小説、絵本、図鑑、辞書、詩集、写真集。
本であれば何でも良かった。
小中高、そして大学と自分を騙し騙し生活を送ってどうにか卒業して、就職は一度したけれど続かなかった。
母方の祖父母の家が空き家となっていたから、逃げるようにそこに飛び込んだ。
田舎の海の見える家。
周りには民家もなくて、お隣さんは車で10分の距離。
生活は不便そのもの。
スーパーもホームセンターも病院も役所も全部が遠い。
車で片道30分、往復1時間。
でも世の中便利なもので、大きな冷蔵庫と冷凍庫があれば週一回の買い出しで十分暮らせる。
家は広く部屋は余りまくってるから、生活雑貨もストックし放題。
車は軽バン、維持費が節約できて、買い出しの荷物をいっぱい積み込めるのを選んだ。
週に一度の買い出しで、食料、生活雑貨、その他諸々を冷蔵庫と冷凍庫、ストック部屋に収納する。
後は基本的に家で過ごす。
投資とweb関連の仕事、後は親、兄弟、親戚のツテで依頼される翻訳業務で何とか生活費を稼いでいる。
残りの時間は読書と、趣味の小説を書いてネットに投稿している。
本はネットでポチッと購入。
6部屋ある空き部屋のうち、2部屋が書庫と化している。
人との繋がりが嫌な訳ではない。
ただ、対面でいると苦しくなってしまう。
チャットやメールであればそれが軽減される。
だから、家族とも電話ではなくチャットかメールでやりとりをする。
誰かと声を出して話すことは、私の世界には必要じゃない。
誰かと目を見て話をすることは、私の世界には必要じゃない。
誰かと共に食事をすることは、私の世界には必要じゃない。
これが普通ではないのは、十分過ぎるほどにわかっている。
両親も兄弟も親戚も、今まで私と出会った人達も皆、気を使ってくれていた。
普通になれるよう、努力はした。
どうすれば良いか分からなくて、色々調べて、試してみて、その分だけ苦しさが増した。
周りの優しさが、期待が、気遣いが、私を孤独にさせていく。
その事に気付いた人が苦しむことで、余計私は苦しくなる。
人の中にいると、私は苦しくなる。
『だから、一人でいたい。』
私が私であるために、私らしく生きるための唯一の我儘を、どうか許してください。
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(´-ι_-`) 一人が好きデス。