真岡 入雲

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7/13/2024, 2:29:08 AM


君が近くにいると、普通に呼吸ができない。
息を吸って吐く、ただそれだけなのに、それが今の俺には何よりも難しい。
おかしいな、つい昨日までは平気だったんだ。
いつものように軽口を叩いて、君にどつかれて2人で笑って。
なのになんで今俺はこんなにも、苦しいんだろう。

「どうしたの?」

出会った頃はショートだった君の髪は、今は肩よりも長くて。
さらりと溢れ顔にかかった横髪を耳に掛ける自然な動作。
少し首を傾けて、上目遣いで俺の顔を覗き込んでいる。

「な、なんでもない」

背の高い俺は、君の顔よりつむじを見ていることが多かった。
仕方がないよね、だって身長差30cmだし。
だからかな、気がつけなかった。
君がこんなに綺麗だったなんて。

「そう?具合悪いとかじゃない?」
「平気」
「ふぅん」

疑り深い君は、その後も暫く俺を観察していたけれど、納得したのかまた広場へ視線を移した。
俺は心の中で繰り返す、吸って〜吐いて〜、吸って〜吐いて〜。
あぁ、ヤバい、二酸化炭素以外の物を吐き出しそうだ。

クラスの仲の良いグループで、地元の祭りに行く計画を立てた。
集合場所は駅前広場。
人が多いだろうからと広場の西側にある花壇付近で、背の高い俺を目印にしようという事になった。
ついでだから、服装もみんなで揃えて浴衣にしようと。
それを母親に伝えたら、タンスの奥からじいちゃんの浴衣を出してきた。
サイズを確認して問題がなかったから、クリーニングに出して出来上がったのが今日の午前中。
時間的にはギリギリだった。
母曰く、もっと前から言ってくれれば縫ってあげたのに、だそうで。
てんやわんやで着付けをしてもらい、ここに着いたのが30分前だった。

「みんな、遅刻だね」

集合時間から既に5分経過。
LINEには、道が混んでて車が進まないとか、家出るのが遅くなったとか、途中別の友達に捕まったとか、財布忘れたから戻ってるとか色々メッセージが流れてる。
君が来たのは集合時間の15分前で、ロータリーに止まった車から降りてきた君を見つけた途端、俺の呼吸がおかしくなった。
そこには、学校で見ている君とは違う君がいた。

これってさ、そういうこと?
マジで?

自慢では無いが、俺はそこそこモテる。
告白された回数も両手では足りないくらいだ。
けれど、誰かと付き合った事は無かった。
みんなでワイワイしている方が楽しいし、誰か1人を好き、という感情がわからなかった。
だからこれまでずっと、誰とも付き合わなかった。

「...ねぇ」
「うん?」
「どうしたら、背高くなれる?」
「......どうって、俺はたぶん遺伝だし。うちはじいちゃんが背高くて、んで母さんも高くて、俺も高いけど、父さんと姉ちゃんは普通だよ」
「牛乳たくさん飲んだとかは?」
「俺、牛乳苦手。姉ちゃんは好きで毎日ガブガブ飲んでるけど」
「ご飯いっぱい食べるとか、よく寝るとか?」
「飯は普通だと思う、夜は結構夜更かししてるな」
「むぅぅ」

あ、可愛い、じゃなくて。

「背、高くなりたい?」
「う...まぁ、もう少し。でも半分諦めてる」
「女の子なら、ヒールの高い靴を履くとかできるし、気にする必要ないんじゃない?」
「そう?背、低くても気にしない?」
「ん、...まぁ、俺は気にしないけど」

低くても高くても、君は君だから。
というか、今日の髪型は、ちょっと刺さる。
ハーフアップして簪?でくるっと纏めて、髪の隙間から覗く項が白くて...。
あ、また呼吸が、吸って〜吐いて〜、吸って〜吐いて〜。

「じゃ...じゃぁ、あのっ、私と付き合ってください!」
「へ?」
「あ、うぅ、えと、そ、その、あのね、い、今まで全部、告白断ってたの知ってる」
「あ、うん」

今俺から見えるのは、俯いた君のつむじだけ。
それでも、君の顔が真っ赤になっていることが手に取るようにわかる。
声も、少し震えてる。

「だから、その、誰とも付き合う気がないのかもしれないけど、えっと、本当は言わないつもりだったんだけど、つい、と言うか、あー、何で言っちゃったんだろう、私......浮かれ過ぎたぁ」

だんだん声が小さくなって、心做しか、君の身長も縮んでしまったように思えて。
そんな君がすごく可愛くて、ギュってしたいとか思っている自分の理性を総動員して呼吸を整える。
吸って〜吐いて〜、吸って〜吐いて〜。

「それは、俺のことが好きってこと?」
「………」

君の頭が上下に揺れる。
それと同時に、君は両手で顔を覆った。

「ずっと、ずっと好きだったの。1年の頃から。でも、誰とも付き合う気がないみたいだったし、その、今の関係も壊したくなくて、告白しないでこのままでいいかなって思ってたんだけど」
「うん」
「でも、これまでずっと告白断ってたとしても、この先誰かと付き合うかもしれないって考えると、何か、嫌で。それに今日すごい、カッコ良くて、何か、なんて言うか......、うぅ、ゴメン、やっぱり聞かなかったことにして、忘れて...」
「んーでも、聞いちゃったし」
「その...」
「それに俺、今めちゃくちゃ嬉しいんだけど、忘れないとダメ?」
「え?」

ガバッとあげた君の顔は、とても真っ赤で、それでいて可愛くて。
目の端に溜まった涙を、そっと指先で拭って。
あー、ごめん、今気付いた。
俺って好きな子はチョット虐めたくなる性格らしい。
周りに聞こえないように、30cmの身長差を腰を曲げることで縮めて、君の耳元でそっと呟く。

「俺と付き合ってくれないの?」
「へっ?」

目をパチパチさせて、俺の発した言葉を君がしっかりと理解するまでの8秒間。
俺は意識して呼吸をする。
めちゃくちゃ心臓が高鳴って、早くなる呼吸を制御して、余裕があるフリをする。

「どうすれば付き合ってくれる?それともやっぱり、忘れないとダメ?」
「ふぇっ?」

そっと、君の頬に手を伸ばすと、君は更に赤くなる。
あーヤバい、今すぐキスしちゃいたい。

「どうする?忘れた方がいい?」
「わっ...」
「わ?」
「忘れない、で...いい、デス...」
「了解」

このまま2人で消えてしまいたいけど、そうもいかない。
視界の端にきょろきょろと周りを見ている4人を見つけて、姿勢を正した。
頭の上に『!』を光らせる勢いで、4人が俺を発見しこちらへ走ってくる。

吸って〜吐いて〜、吸って〜吐いて〜、さあ、君も一緒に呼吸を整えて、これまで仲のいいクラスメイトだった君と俺との関係が、新しくなったことを一緒に彼らに報告しようか。

7/12/2024, 2:49:38 AM


「あちらは雨か」

新着のメッセージを開いて彼女は呟いた。
窓の外は快晴、今日も太陽が元気に地上を焦がしている。
ここ数年の暑さは異常だと、テレビ画面の中のコメンテーターは口々に言う。
地球温暖化がとか、二酸化炭素がとか、氷河の消滅がとか、極の氷がとか、色々話してはいるが『我々も意識していかないといけないですね』というなんとも曖昧な台詞で終わらせて次の話題へと進む。
地球温暖化はデータを見れば明らかだが、原因は果たして二酸化炭素なのだろうか?
太陽がほんの少し活動を活発化させれば、地球の温度なんて簡単に上昇しそうなものだけど、なんて事を考えながら、モニターに映し出された文字の羅列を目で追う。

「この辺、もう少し言い回しを変えた方が良いか」

目を閉じ情景を思い浮かべる。
男と女が見晴らしの良い丘の上、巨木の下に佇む。
手を伸ばせば触れられる距離、されどお互い視線を合わせることなく見ているのは少し先にある街並み。
女はあの街の薬屋の独り娘で、男はここより南にある土地を治める領主の四男。
お互いに冒険者として活動し、意気投合してここ2年は恋人同士だった。
家を継ぐ必要がなく、親にも自由にすれば良いと言われ選んだ冒険者の道。
だが、事情が変わった。
去年から徐々に広まり始めた熱病。
罹患者のうち2割ほどが命を落としている。
初めは軽い咳と発疹で、次に高い熱が二、三日続く。
半数はこの後快方に向かうが、半数は高熱と咳が続き発疹が酷くなる。
そして、半月ほどで熱が下がれば命は助かるが、発疹の痕が残る。
また、熱が下がらない場合はひと月もしないうちに息を引き取る。
男の1番上の兄と3番目の兄が、この病で命を落とした。
父親は、男に家に戻るよう手紙を寄越した。

「うーん......」

いくつか文字を打っては消し、打っては消しを繰り返す。

仕事の合間に書いていた趣味の小説が、いつの間にか真琴の本職になった。
元々ファンタジー物が好きで、小説や漫画、映画、ゲームと手をつけたが、仕事が忙しくなればなるほど時間を捻出することが難しくなり、そのうち仕事をしながら妄想の世界に入り込むようになった。
そしてこれが真琴にはあっていた。
驚くほどスルスルと頭の中で物語が展開していく。
そしてそれを自分だけ楽しむのは勿体ないと思うようになり、スキマ時間で文章にするようになった。
ダラダラとそれをネットに上げ続けた結果、今それが仕事になっている。

「ん?また来た」

LINEの通知が真琴の思考を停止させた。
メッセージを開くとそこには綺麗な虹の画像が送られてきていた。

この画像をくれたのは、会社員時代の後輩で、3年前に真琴を置いてアメリカに飛んだ恋人。
今も恋人と呼んで良いのかどうか、真琴には判断できなかった。
別れ話をした訳ではない、むしろ彼には待っていて欲しいと言われた。
真琴は普通の会社員で、親も普通のサラリーマン。
だが、彼は違った。
世界的に有名な企業の御曹司と言うやつで、真琴とは違う世界の人間だった。
親に呼ばれアメリカに行く時に、そのことを知らされた。
騙されたとは思わなかったが、心の中に穴が空いた気がした。

「3年...か...」

彼からはいつも画像が届く。
空だったり、山だったり、食事内容だったり、公園で遊ぶ子供だったり。
いつもいつも画像だけが届く。
言葉はひとつもなく、彼自身の画像さえない。
彼が目にしているものだけが、真琴の手元に届けられる。

「ふふっ」

送られてきた画像はきちんと保存して取っている。
消せないのは、未練からだろうか。
この3年間、声の一つも、後ろ姿さえも見ていない。
時折LINEに届く画像だけが、真琴と彼を繋げている。
いや、この画像も彼が撮ったものとは言えないかもしれないが。

「ん?また?今日は頻繁だね」

1件のLINE。
それが真琴の全て。
1件のLINE。
それが彼と真琴を繋ぐ。

「バカじゃないの」

ぽつっと画面に雫が落ちる。
落ちた画面には、『結婚してください』と書かれたメッセージカードとキラリと光る指輪が納まっていた。



7/11/2024, 3:00:42 AM


昨日私はいつものように、残業していた。
定時間際に上司に呼ばれ、コレやっといて、と渡されたファイルが3冊。
手書きの情報を登録して、結果の分析をして、資料を作成、それを月曜の朝イチの会議で使うとか。
私は知っている。
この仕事は部長が直接アナタに、10日前に指示していた。
その時に言われていれば、余裕で終わらせることができていたはずなのに。
今日?しかも定時間際って、間に合うはずないじゃない。
明日の休日出勤確定、終われるだろうか。

「はぁぁ」

やっと、ファイル1冊分の登録完了、残り2冊分。
1冊大体3時間、となると...。

「......徹夜確定かぁ」

同じ課の人達は既に帰宅済み。半分は出先からの直帰、半分は家庭持ち。
手伝いが可能な人、と、ダメ元で連絡を入れてみたけれど、誰も捕まらなかった。
それもそのはず、どれだけ頑張って完璧な資料を作成したとしても、手柄は上司のものになる。
つまり、やり損の仕事だ。
ならば自分もやらなければいい、とか言われそうだけど、困ったことにそれが出来ない性分だ。

「残業代は出るから、まだ良いよね」

世の中には、残業代が出ないブラック企業というものがある。
その点うちは大丈夫、キチンと払ってくれる。
企業としてはホワイトだと思う。
ブラックなのは一部の部署だけ。
その中でも更にごく一部、そう、うちの課だ。
創業者の血縁だかなんだか知らないけれど、40半ばで中途採用された人。
人当たりはいいし、仕事はきちんとこなす。
残業も少なく、課員のトラブルも手際よく対応している。
ように、上からは見られている。
その実、仕事は全部課員に丸投げ、自分は上へのゴマすりと、夜の蝶へのプレゼント選びで大忙し。
お店に行きたいから、残業なんてもってのほかで、二日酔いとなれば、外で打ち合わせとか言って午後出勤だったりする。
それから課員の若い女の子には簡単な仕事しかさせないから、彼女たちのスキルが上がらない。
最低最悪の上司、その尻拭いの殆どを私がさせられている。
何故か?
私が上司が嫌いなアラフォー女子だからです。
しかも上司と同じ時期の中途採用。
前の会社が倒産して、この年齢で運良く採用して貰えた独身女としましては、チョットやそっとで辞める訳には行かないのです。

「うぅん、あとちょっと」

空が白み始めた辺りで、残るは十数件の情報登録。
これが終わったら、チョット仮眠しよう、とか考えているとバカ上司から連絡が入った。

『ファイル渡しそびれてた。俺のデスクに2冊あるから、それもやっとけ』

「.........ク......ふぅ、言霊言霊...」

言葉には力が宿る。
無言で立ち上がり、上司のデスクに向かう。
乱雑に積まれた書類とファイル群の中から目的のものを探し当てる。
ついでに少し、書類を整理しておく。
こうしておかないと月曜日にキレられるから。

「再開しますか」

無心になって情報を登録すること6時間。
最後のひとつを入力してEnterキーを叩き、背伸びをする。
とりあえず、眠気を吹き飛ばすのと頭を整理するために一旦家に戻ってシャワーを浴び、着替えて再出社だ。
私の家は会社から徒歩5分、非常に近くて便利。
ただしそれ故に、上司にはいいように使われる。
家賃は相場よりだいぶ安い。
何故なら0円、あ、いや管理費があったか。
親から相続したマンションも私と同じで古くはなっているけれど、住むのに問題はないし広さだけは十分にある。

「何か食べる物...って、何も無い...」

連日残業でスーパーにも行けていないから、当然と言えば当然か。
3食分をコンビニで調達する決心をして、家を出た。
土曜の10時前、オフィス街と住宅街の狭間にあるこの場所の休日は割合静かだ。
車も少なく、歩く人もまばら。
時折子供の笑い声が聞こえてくるが、姿は見えない。
都会であることは確かで、上を向くとコンクリートで切り取られた四角い空が見える。
今日は天気が良さそうだ。

「さ、早く戻ろう」

分析をして資料作成、できれば今日中に終わらせたいところ。
そうすれば明日は丸一日休める。

10秒でエネルギーをチャージして、濃いめのコーヒーを片手に画面とキーボードと睨み合うこと10時間と17分。
メールに資料を添付して、上司宛で送って...。

「休日出勤ご苦労さま」

掛けられた声に振り向くと、そこには1人のイケメンが。
確か、ひと月前頃に社長が連れて来たという、コンサルタント会社の人...だったはず。

「......あ、はい!お疲れ様です」
「近くを通ったら電気が点いていたので気になって来たのですが」

手元と画面をチラリと確認され...た?

「あ、はい。先ほど頼まれていた資料の作成が終わりまして、このメールを出したら帰ろうかと思ってました」
「そうですか。なら家まで送りましょう」
「あ、いいえ、すぐそこなので大丈夫です」
「そうですか。では、あなたの時間を少し私にくださいませんか?」

早く家に帰ってベッドにダイブしたかったのだけれど。

「はい、構いませんが...」

私の返事に彼はにこりと微笑むとどこかへ電話をかけ始めた。
その間に私は上司へのメールを送信して帰り支度を整えた。
彼の電話が終わるのを待っていたのだけれど、うん、顔だけでなくスタイルも良い。
ただ電話をしているだけなのに、映画やドラマのワンシーンのようだ。

「では、行きましょうか」

慣れた動作でエスコートされ、私は会社を後にした。



目が覚めると、そこには知らない天井が。
布団も、私の家のそれとは違う。
丁度いい硬さ、そしてふんわりと香る花の匂い。
あぁ、このまま二度寝したい...、けれどそうも言っていられない。

「おはようございます」

窓際で優雅に紅茶を飲んでいる人に声をかける。

「おはよう、気分は?」
「お陰様で、スッキリしています」
「それは良かった」

これで記憶が無ければ幸せなのかもしれない。
プチパニックを起こして、ひたすら謝り倒して、この場を立ち去る、ということが出来ただろう。
でも、私にはバッチリ記憶がある。

連れていかれたのは高級なレストランとか、有名な料亭ではなく、庶民的な居酒屋の個室。
入店と同時に案内されて、注文していないのにいくつかの料理が並んでいた。
どうやら店主と顔見知りらしく、会社で見た顔とは違い少年のような笑みで談笑していた。
席に着いて、まずは乾杯、久しぶりのビールはとても胃に染みた。
料理も美味しく、酒も食も進み、ついつい口が軽くなって色々とぶっちゃけました。
入社して今日までの一年弱。
上司のことも、その上のことも若い子の教育体制とか、会社の管理体制で不足してるなぁと思うところとか、色々。そう、色々。
まぁ、お互い若くは無いので一夜の過ちとかそんな事は当然なく、お酒が回ってフラフラな私を、彼がこのホテルに連れてきて、介抱してくれただけ。

「あの...」
「昨日の事は気にしないでください。会社のことは...、そうですね、あなたに悪いようにはしません。ですがもう暫くは今の状態で頑張っていただけますか?」
「えっ...、あ、はい」

てっきりクビになるかと思ったのだけど、どうやら首の皮で繋がっているらしい。
ほっとしたのが顔に出ていたらしく、くすりと笑われ、少し恥ずかしかった。
その後、ホテルから家まで送ってもらい、シャワーを浴びてベッドにダイブした。
次に目が覚めた時、自分を取り巻く環境が少しでも変わっていますように、と、ささやかな祈りと共に私は深い眠りの中へ降りていった。

7/10/2024, 2:20:11 AM


朝、目が覚める。
身支度を整え、台所に立つ。
目玉焼きに納豆、豆腐とワカメの味噌汁。
茶碗にご飯をよそって食卓に並べる。
仏壇にもご飯とお水を供え、ロウソクに火をつけ線香をあげる。
お鈴を鳴らして、朝の挨拶をすませ、朝食をいただく。

「今日の朝ドラは良かった...」

後片付けをしながら、今日の予定を思い出す。
特に急ぎでやらなければならない用事はなかったはず。
それならば、まずは、掃除と洗濯を。
終わったら買い物ついでに図書館に行こう。
最近の図書館は雑誌が充実しているから助かる。
それに、あそこはエアコンが効いている。

「あ、洗剤買わないと、おっと、LINE」
『おはよう、今日も暑いから、我慢しないでエアコン使いなよ』
「ふふっ、"おはよう、ハイハーイ、わかってます、お仕事頑張って"っと、送信!」

日焼け止めを塗って、帽子を被って、買い物用のキャリーを持って、さぁ、出発だ。
おっと、飲み物も持って、今度こそ出発です。
最近雨が降っていないから、川の水が少ないね。
でも、やっぱり川沿いの道は涼しい風が吹くから気持ちいい。
あ、中学校の解体終わったのね、こうやって見るとやっぱり敷地広いわね。
うーん、何だか寂しい気分になるわ。

「老朽化と少子化じゃ、仕方がないか...」

今はこうして歩いていても子供とすれ違うことはほとんど無い。
小さい子の手を引いて歩く母親の姿というのが見られない。
大抵、車で移動するからと言うのもあるけど、母親も働いているのが殆どだから。
それでも、休日のショッピングセンターで親子連れを見ると少し嬉しくなってしまうのは、何故だろうか。
あぁ、まだ子供はいるんだという、安堵感なのかもしれない。
あ、そうだ。

「ん〜と、"すっかりキレイになっちゃいました"っと」

中学の後輩でもある娘達に、桜の木だけが残されている中学校の何も無くなった敷地の画像を送る。
2人とも今は仕事中だから、返信は来ないだろう。
水筒の水を二口飲んで、中学校の敷地の向こう側にある図書館を目指す。
図書館に通い始めたのは、もう15年以上前になる。
定年で仕事を辞めた1週間後から、予定がなく天気が悪くない日は通ってる。
離れて暮らす娘達に迷惑はかけたくないから、できるだけ長く健康で暮らせるよう、毎日の食事には気をつけ、週一回の運動教室に通い、友達からの誘いは基本断らないで外出することを心がけている。

あの人とは、あの中学校で出会った。
ただのクラスメイトだったのに、いつの間にか恋人同士になっていた。
連れ添ったのは30年に満たない時間。
あの人と死に別れて、もうすぐ20年になる。
孫の顔を見ることなく、この世を旅立ってしまった人。
あの人がいないことに慣れるのに3年かかった。
娘達に一緒に暮らそうと言われたけれど、元気でいられるうちは、あの人と過したこの土地で、あの人と過したあの家で暮らしたいと思った。
あの人が隣にいるのが当たり前だった私の生活から、あの人が隣にいないのが当たり前となった私の生活。
友達が旦那さんの話をしたり、同居の息子さんやお嫁さんの話をするたび、少しチリリと心が痛む。
けれど、それがなんだと言うのか。
私は一人で気楽に、この人生を楽しんでいる。
私が私である限り、脳がバグってあの人のことを忘れない限り、私の愛する人はあの人であり、あの人との子供である娘達であり、孫達でもある。

「あと10年くらい頑張れば、遺言叶えられるかな?」

病院のベットの上、意識が朦朧とする中、あの人が言った最後の言葉。

「次に会う時は、曾孫の顔教えてくれよ」

孫すら生まれてなかったのに、曾孫の話とか無茶振りもいいとこだわ。
でも、きちんと教えてあげられるよう私頑張ってるわ。
隣にあなたがいないのが、私の当たり前になってしまったけど、あなたは今でも私の心の中に生きているもの。

「あ、朝ドラ特集の雑誌。この人がカッコイイのよね」

実はあなたには似ても似つかない俳優さんが、心の中の8割を占めているのは内緒だけどね。

7/9/2024, 2:06:38 AM


「では、今回の打ち合わせはコレで終了という事で。後日議事録をお送りしますので、ご確認をお願いします」
「お疲れ様でした。これからお帰りですか?」
「はい、19時半頃の新幹線で」
「大変ですね。気をつけてお帰りください」
「ありがとうございます。それでは、また」

月に1度、東京での会議。
新幹線で2時間以上かけて移動して、1時間もかからない会議に出席。
終わったらまた2時間以上かけて会社へ戻る。
連日の残業と、休日出勤。
仕事の効率をあげて、時間内に終わるよう頑張れば、その分だけ仕事が追加される。
何かトラブルが起きれば、帰宅は日を跨ぐことはざらで、独身者ともなれば、家庭のある社員よりも融通が効くため、出張の回数も多くなる。
今月の出張は既に4回、全て日帰り。
しかも、あと2回出張が予定されている、もちろん日帰りだ。
移動中も、当然仕事だ。
会議資料の作成、仕様書の確認、見積書の確認、スケジュール調整、報告書の作成などなど、ネットが繋がれば今はどこでも仕事が出来る。
つまり、どこにいても働くことを強要される。

「ふぅ…、あと5分、間に合ってよかった」

人身事故による電車の遅延。
ホームに溢れかえる人の群れと、運転再開直後にホームへ着いた車両の人熱れ。
何に掴まる必要も無いほどに込み合った車内は、異様なほど静かだった。
線路の上を走る車輪の音と、車内に流れる車掌の詫びの言葉。
誰が、こんな時間に、こんな場所で…と口に出すことを押し殺した負の感情が充満した世界。
チラチラと、出入口上部のモニターを確認して、新幹線の出発時刻に間に合うかどうか計算する。
間に合わなければ、1本後のは全席埋まっていて予約が取れなかったから、最終になってしまう。
そうなれば家に着くのは日を跨ぐし、明日も休日出勤だ、早く休みたい。
東京駅でドアが開くと同時に、混雑するホームへと滑り降りる。
歩き慣れてしまった通路を人を避けながら小走りに進んで新幹線の改札を通過し、ホームを目指す。
エスカレーターを上って、指定した席がある車両番号の看板を目指して歩いた。
どこからとも無く流れてくる、鼻をくすぐる肉の匂い。
焼肉だろうか…、1度匂いを認識すると、腹まで減ってくる始末。
今日は時間が無かったせいで、弁当を買えなかった。
せめて飲み物を、と、近くの自動販売機でペットボトルのお茶と缶コーヒーを買った。
新幹線は折り返しのための車内清掃中だが、それもじきに終わる。
ふと、缶コーヒーを手に取り顔をあげると、そこには無数の灯りがあった。
東京駅を囲み、見下ろすような高層ビルの群れ。
煌々とした電気の灯りが、本来暗いはずの夜を昼へと変えている。

「街のあかりが……キレイね…♪」

ついつい、口を出た古い歌。
懐かしの〜とか、そんなテレビ番組で耳にすることの多い歌。

「キレイ…ね…」

何故だろう、この灯りの下で数え切れないほどの人間が働いているのかと思うと、吐き気がした。
その仕事を楽しいと思いながら働いているのは、一体どれほどの割合なのだろうか。
かくいう私も、かつて楽しかった仕事が今では苦痛でしかない。

何故働いているのか?
働かなければお金が貰えない。
お金がなければ、生活できない。
家賃も払えない、水道だって、電気だって、ガス代だって、電話代だって、全てお金が必要だ。
それだけじゃない、保険も税金も、食べ物もお金がなきゃ買えない。
では、何故心を壊してまで働く必要がある?
それは……。

政府は70歳まで働けと言う。
人生100年時代、70まで働いても残り30年ある。

バカなのか?

その30年は確約されていない。
それならば、その30年を若い時に使わせてくれ。
生まれて50歳まで、自由に生きさせてくれ。
50を超えたら働くから、死ぬまで働いてやるから。

「街の明かりがキレイに思えない時点でアウトだよな」

金なんてどうにでもなる。
どうせ独り身独身貴族。
自分が生きていける分だけ稼げれば良い。

「よし、会社辞めるぞー!」

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