昨日私はいつものように、残業していた。
定時間際に上司に呼ばれ、コレやっといて、と渡されたファイルが3冊。
手書きの情報を登録して、結果の分析をして、資料を作成、それを月曜の朝イチの会議で使うとか。
私は知っている。
この仕事は部長が直接アナタに、10日前に指示していた。
その時に言われていれば、余裕で終わらせることができていたはずなのに。
今日?しかも定時間際って、間に合うはずないじゃない。
明日の休日出勤確定、終われるだろうか。
「はぁぁ」
やっと、ファイル1冊分の登録完了、残り2冊分。
1冊大体3時間、となると...。
「......徹夜確定かぁ」
同じ課の人達は既に帰宅済み。半分は出先からの直帰、半分は家庭持ち。
手伝いが可能な人、と、ダメ元で連絡を入れてみたけれど、誰も捕まらなかった。
それもそのはず、どれだけ頑張って完璧な資料を作成したとしても、手柄は上司のものになる。
つまり、やり損の仕事だ。
ならば自分もやらなければいい、とか言われそうだけど、困ったことにそれが出来ない性分だ。
「残業代は出るから、まだ良いよね」
世の中には、残業代が出ないブラック企業というものがある。
その点うちは大丈夫、キチンと払ってくれる。
企業としてはホワイトだと思う。
ブラックなのは一部の部署だけ。
その中でも更にごく一部、そう、うちの課だ。
創業者の血縁だかなんだか知らないけれど、40半ばで中途採用された人。
人当たりはいいし、仕事はきちんとこなす。
残業も少なく、課員のトラブルも手際よく対応している。
ように、上からは見られている。
その実、仕事は全部課員に丸投げ、自分は上へのゴマすりと、夜の蝶へのプレゼント選びで大忙し。
お店に行きたいから、残業なんてもってのほかで、二日酔いとなれば、外で打ち合わせとか言って午後出勤だったりする。
それから課員の若い女の子には簡単な仕事しかさせないから、彼女たちのスキルが上がらない。
最低最悪の上司、その尻拭いの殆どを私がさせられている。
何故か?
私が上司が嫌いなアラフォー女子だからです。
しかも上司と同じ時期の中途採用。
前の会社が倒産して、この年齢で運良く採用して貰えた独身女としましては、チョットやそっとで辞める訳には行かないのです。
「うぅん、あとちょっと」
空が白み始めた辺りで、残るは十数件の情報登録。
これが終わったら、チョット仮眠しよう、とか考えているとバカ上司から連絡が入った。
『ファイル渡しそびれてた。俺のデスクに2冊あるから、それもやっとけ』
「.........ク......ふぅ、言霊言霊...」
言葉には力が宿る。
無言で立ち上がり、上司のデスクに向かう。
乱雑に積まれた書類とファイル群の中から目的のものを探し当てる。
ついでに少し、書類を整理しておく。
こうしておかないと月曜日にキレられるから。
「再開しますか」
無心になって情報を登録すること6時間。
最後のひとつを入力してEnterキーを叩き、背伸びをする。
とりあえず、眠気を吹き飛ばすのと頭を整理するために一旦家に戻ってシャワーを浴び、着替えて再出社だ。
私の家は会社から徒歩5分、非常に近くて便利。
ただしそれ故に、上司にはいいように使われる。
家賃は相場よりだいぶ安い。
何故なら0円、あ、いや管理費があったか。
親から相続したマンションも私と同じで古くはなっているけれど、住むのに問題はないし広さだけは十分にある。
「何か食べる物...って、何も無い...」
連日残業でスーパーにも行けていないから、当然と言えば当然か。
3食分をコンビニで調達する決心をして、家を出た。
土曜の10時前、オフィス街と住宅街の狭間にあるこの場所の休日は割合静かだ。
車も少なく、歩く人もまばら。
時折子供の笑い声が聞こえてくるが、姿は見えない。
都会であることは確かで、上を向くとコンクリートで切り取られた四角い空が見える。
今日は天気が良さそうだ。
「さ、早く戻ろう」
分析をして資料作成、できれば今日中に終わらせたいところ。
そうすれば明日は丸一日休める。
10秒でエネルギーをチャージして、濃いめのコーヒーを片手に画面とキーボードと睨み合うこと10時間と17分。
メールに資料を添付して、上司宛で送って...。
「休日出勤ご苦労さま」
掛けられた声に振り向くと、そこには1人のイケメンが。
確か、ひと月前頃に社長が連れて来たという、コンサルタント会社の人...だったはず。
「......あ、はい!お疲れ様です」
「近くを通ったら電気が点いていたので気になって来たのですが」
手元と画面をチラリと確認され...た?
「あ、はい。先ほど頼まれていた資料の作成が終わりまして、このメールを出したら帰ろうかと思ってました」
「そうですか。なら家まで送りましょう」
「あ、いいえ、すぐそこなので大丈夫です」
「そうですか。では、あなたの時間を少し私にくださいませんか?」
早く家に帰ってベッドにダイブしたかったのだけれど。
「はい、構いませんが...」
私の返事に彼はにこりと微笑むとどこかへ電話をかけ始めた。
その間に私は上司へのメールを送信して帰り支度を整えた。
彼の電話が終わるのを待っていたのだけれど、うん、顔だけでなくスタイルも良い。
ただ電話をしているだけなのに、映画やドラマのワンシーンのようだ。
「では、行きましょうか」
慣れた動作でエスコートされ、私は会社を後にした。
目が覚めると、そこには知らない天井が。
布団も、私の家のそれとは違う。
丁度いい硬さ、そしてふんわりと香る花の匂い。
あぁ、このまま二度寝したい...、けれどそうも言っていられない。
「おはようございます」
窓際で優雅に紅茶を飲んでいる人に声をかける。
「おはよう、気分は?」
「お陰様で、スッキリしています」
「それは良かった」
これで記憶が無ければ幸せなのかもしれない。
プチパニックを起こして、ひたすら謝り倒して、この場を立ち去る、ということが出来ただろう。
でも、私にはバッチリ記憶がある。
連れていかれたのは高級なレストランとか、有名な料亭ではなく、庶民的な居酒屋の個室。
入店と同時に案内されて、注文していないのにいくつかの料理が並んでいた。
どうやら店主と顔見知りらしく、会社で見た顔とは違い少年のような笑みで談笑していた。
席に着いて、まずは乾杯、久しぶりのビールはとても胃に染みた。
料理も美味しく、酒も食も進み、ついつい口が軽くなって色々とぶっちゃけました。
入社して今日までの一年弱。
上司のことも、その上のことも若い子の教育体制とか、会社の管理体制で不足してるなぁと思うところとか、色々。そう、色々。
まぁ、お互い若くは無いので一夜の過ちとかそんな事は当然なく、お酒が回ってフラフラな私を、彼がこのホテルに連れてきて、介抱してくれただけ。
「あの...」
「昨日の事は気にしないでください。会社のことは...、そうですね、あなたに悪いようにはしません。ですがもう暫くは今の状態で頑張っていただけますか?」
「えっ...、あ、はい」
てっきりクビになるかと思ったのだけど、どうやら首の皮で繋がっているらしい。
ほっとしたのが顔に出ていたらしく、くすりと笑われ、少し恥ずかしかった。
その後、ホテルから家まで送ってもらい、シャワーを浴びてベッドにダイブした。
次に目が覚めた時、自分を取り巻く環境が少しでも変わっていますように、と、ささやかな祈りと共に私は深い眠りの中へ降りていった。
7/11/2024, 3:00:42 AM