真岡 入雲

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6/30/2024, 4:42:51 PM

それが自分にしか見えないと知ったのは、小学校に入学する少し前。

家の庭で遊んでいたら、お爺さんに声をかけられた。
長い白い髭に、少し広い額。そして真っ白な髪の毛。
見た事がない服を着ていたけれど、気にはならなかった。

「坊主、それが見えるのか?」
「坊主じゃないよ、健人だよ。コレね、時々ここにあるんだ。けど触れないの。不思議だよね」

しゃがんだ足元には小指くらいの太さの紐。色は赤。
目には見えるのに、触れることが出来ない。
触ろうとすると、手のひらをすぅっと通り抜けていく。

「そうか、健人。いいことを教えてやろう。それはな普通の人には見えないんじゃ」
「そうなの?」
「あぁ、そうじゃ」

紐の話をすると両親は困った顔をした。
友達には、そんなの見えないと言われた。

「じゃあボクは普通の人じゃないの?」
「そうなるのぅ」
「そうなんだ。…お爺さんも?」

そう聞くと、お爺さんは愉快そうに笑いこくりと頷いた。

普通では無いという、特別感と、お爺さんと一緒と言う、親近感。

「それは人と人の縁を結ぶ紐じゃから、ワシ以外は触れないんじゃ」
「ふぅん?」
「いいか、健人。この紐のことはワシと健人との秘密じゃ」
「秘密…」
「そうじゃ、ふたりだけの秘密じゃ」
「うん、お爺さんとボクだけの秘密!」

ふたりで秘密を共有する、たったそれだけで、お爺さんを無条件で信じた。
良く言えば純真で、悪く言えば単純。

「ふぉっふぉっ、いい子じゃ、いい子じゃ。そうじゃのう、健人、ちょっとこっちへ」

手招きされて、素直にお爺さんのそばへ行く。
すっと右手を握られた次の瞬間、手首にあの紐がぐるりと2周巻きついていた。

「御守りじゃ」
「御守り?」
「あぁ、健人を守ってくれるんじゃ。それとな、あの紐と同じでワシと健人にしか見えん」
「紐と一緒?あれ、でも触れるよ」

そう、触れた。摘むと指の間に紐が存在する。
けれど触っている感覚がない。不思議な感じだ。

「うむ、少々細工をしたからのぅ。切ったりはできぬし、外すことも、外れることも無い」
「ふぅん…うん。ありがとう、お爺さん!」
「どういたしまして、じゃ。では、また会おう、健人」

お爺さんは、ふぉっふぉっと笑いながら去って行った。



「純粋すぎ…いや、子供だったから仕方が無いのか?」

色褪せることも、汚れることも無く、あの紐は今でも右手首に巻きついている。

またあの日以降、何度かあのお爺さんに会った。けれど、会う度に外見が違った。
ある時は、20歳くらいのお兄さんだったり、30後半のイケオジだったり、はたまた俺と同じくらいの年齢の子供だったり。そう言えば金髪の美女の時もあった。
不思議なのは、どんな外見でもひと目であのお爺さんだとわかること。
そしてそれを自分は普通に受け入れている。
流石に、お爺さんではないので名前を聞いた。
だが答えてもらえなかったので、勝手にジンさんと呼ぶことにした。
何となく嬉しそうだったので、良かったんだと思う。

ジンさんとは、2、3言葉を交わして別れる時もあれば、カフェでお茶をしたり、居酒屋で飲み明かすこともある。

「赤い紐…ねぇ…」

赤い紐は今もチラホラと見えている。

都心に出ればそれなりの数の紐が、絡み合うことなく存在しているのを見かける。
そして友達との待ち合わせの時とかに紐を観察していて、わかったことがある。

まずは色。
基本は赤だが、紐によって色味が若干違ったりする。
濃い赤、薄い赤、斑な赤、濃いのと薄いのがシマシマになっていたりと、様々ある。
色味に何か意味があるのかも知れないが、今はまだ分からない。

そして紐の先。
これは例外なく、人の右足首に巻きついている。
と言っても、全部確認したわけではなくジンさんに聞いたら答えてくれた。
それと、巻き付きは1人に対して1本のみ。同時に2本3本の巻き付きは絶対にない。
不思議なのは紐は足首で結ばれているわけではなく、足首に巻きついているだけなこと。
結ばれているのはひとつも見たことがない。
これもジンさんに聞いたけど、答えてはくれなかった。
因みに俺の右手首の紐は結ばれていないけど、他の巻きつきとは明らかに違う。

それから、消失。
文字通り、紐が消える。すぅっと空気に溶けるように。
これは、繋がれた先のどちらかが亡くなると起きる現象のようだった。
事実、祖父が亡くなった時、祖父と祖母を繋いでいた紐が消失する瞬間を見た。

最後に、全員が誰かと繋がっているわけじゃない。
誰かと繋がっていても、その相手が伴侶とは限らない。
これもジンさんに確認済み。
事実、俺の両親は繋がっていないし、従姉妹の旦那は幼なじみと繋がっていた。

紐はあくまでも運命。
その運命に従うか、逆らうかは本人次第。
そして、その選択を観察するのがジンさんの趣味。
ターゲットの近くで観察するのがいちばん楽しいから、ターゲットに不審がられないように外見を変えているらしい。

ただひとつ言えるのは、運命に従った方が幸福になれるということ。
だって、いちばん幸福になれるから繋いでいるんだ、とはジンさんのお言葉。
残念なのは普通の人には、その運命が見えないということ。

「ん?」

俺は自分の右手首の紐をじっと見た。20年変わることの無い赤い紐。
自分の右手だけで完結してしまっている俺はどうなるのだろうか?

「運命って分からないから楽しいんだよ。健人は運命が見えちゃってるでしょ?だからもう、自己完結させちゃったんだぁ」
「え、ジンさん?」

ふへへへっと、締まらない顔で笑ったジンさんは、グラスに注がれた日本酒"赤い糸"を一気に呑み干した。


6/30/2024, 1:41:22 AM

じりじりと、夏の太陽は地上を焼く
人間によって蓋をされた大地が
その熱を享受できる術はなく
微かな熱が伝わってくるだけ

蓋の隙間に根を貼った
名も無き植物の群れは
この辺りでは唯一のオアシス

時折やってくる人間と
彼らに従うオオカミの末裔
朝と夕
彼らがここに来る時間は
オアシスの深いところで
じっと息を潜めるよう
母親に言いつけられていた


でもボクは……

ほんのチョットの好奇心
オアシスの向こうの蓋の上
ビョコビョコ動く緑の塊
そっとそっと近づいて
姿勢は低く
息を殺して
そうっとそうっと……
そうっとそうっと……

そいつはびょんっと飛び跳ねて
網の隙間から逃げていく
ぴょんぴょんぴょんぴょん飛び跳ねて
キラキラ流れる水へポチャン

しょんぼり肩を落としていると
目の前に現れたヒラヒラのやつ
いつものやつより大きくて
ついつい追いかけ道を失う

お母さん

小さな声で呼んでみる
優しい声が聞こえない

みんな何処?

辺りをぐるりと見回してみても
兄弟の姿は見当たらない

お母さん

大きい声で呼んでみる
けれど優しい声はやっぱり聞こえない

お母さん
みんな
お母さん
みんな

喉が痛くなるまで呼び続けた
けれどみんなは見つからない

焼けた蓋がすごく熱くて
手も足もとても痛くて
もうこれ以上歩けない

喉も乾いたよ
お腹も空いたよ
ねぇお願い
誰か助けて

薄れる意識の中
最後に視界に映ったのは
蒼空に浮かんだ
大きな綿菓子


「何を見てるんだ?」

かけられた言葉にくるりと首を回す
ぼさぼさの毛並みのこの人間は
あの日ボクを助けてくれた

暫くは手や足が痛くて
歩けなかったし
何だかチクってするのとか
ジワって目が痛くなるやつとか
ちょっと苦いお水とか
飲まされたけど
今はそれはボクのためだったと知っている

今でも時々アワアワにされたり
チクッとされたりするけれど
その後にいっぱい撫でてくれるから
許してあげることにしてる

今のボクのおうちは
あのオアシスほど広くない

この人間と僕が寝る場所と
ご飯を食べる場所
運動をする場所と
アワアワになる場所
そしてココ
お空が見える場所

「あ〜、入道雲か。ひと雨来れば涼しくなるんだけどな。雷は勘弁して欲しいな」

この人間は蒼空の綿菓子を"にゅうどうぐも"って言う
お母さんはあれは綿菓子っていう食べ物で
ふわふわしていて甘いんだと教えてくれた
だから"にゅうどうぐも"じゃないって
いつも言っているけど
人間には伝わらないみたい

「うん?どうした?おやつか?」

一生懸命教えてあげてるんだけど
全然伝わらない
ほら、また美味しいやつ持ってきた
だから違うって……ん、美味しい
うん、いいね、すごく良いよ
美味しいのは大好きだよ
できれば今度は
綿菓子が食べてみたいな

あのお空に浮かんでいるのと
同じくらいの大きさのやつを

6/28/2024, 4:06:47 PM

普段より早い、6時前に起こされて
寝ぼけたままで服を着替える
バシャバシャと周りを濡らしながら顔を洗って
ボサボサの髪に櫛を通して1本に結ぶ

玄関に吊るしてある出席カードを首にぶら下げて
急いで靴を履いて手には小さな如雨露を持つ
カラカラと音の鳴る玄関の引き戸を勢いよく開け
大きな声で叫んで家を出る

2軒隣の玄関先でいつもの名前を呼ぶと
待ってましたと友達が顔を出す
並んで川沿いの道路を
宿題の進み具合を確認し合いながら進む

目的地までは歩いて10分
途中、もう1人の友達も合流し
まだ涼しい、澄んだ空気の中を姦しく歩く

黄色の大輪の花が周囲をぐるっと囲んだ公園
集まった子供達は思い思いの遊具で遊んでいる
数人の大人が公園の中央でラジオを準備し
子供たちに集まるよう声をかける

聞きなれた曲がラジオから流れ
小さい子達は真剣に
大きい子達はダラダラと
アナウンサーの掛け声に合わせて体を動かす
朝で涼しいとは言え、体を動かせば
じんわりと汗が浮いてくる

出席カードに判子を貰い
持ってきた如雨露に水を入れ
植えられている向日葵に水をあげ
朝イチのイベントは終了となる

帰り道、友達とプールに行くかどうか確認をして
頭の中で今日のスケジュールを組み立てていく

家に帰って、朝食を食べ
後片付けをしたら、宿題に手をつける
午前中の涼しい時間にやってしまうのが
1番効率が良いことを、今までの夏で学んでいた

まずは得意な算数のドリル
決めたページ数以上を進めて大満足
次は漢字の書き取り
集中力が切れて、予定の半分程で終了
できなかった分は夕方にやろう、なんて考えているけど
結局、プールで遊んで体力切れて
昼寝ならぬ夕寝をしてしまい
後日後悔する羽目になる

休みの終わりが見えてくるあたりで
友達と集まって宿題の写しっこをしたり
読書感想文に悩まされたり

充実した時間を過ごしていたのだと
今なら胸を張って言える



「懐かしいな…」

手にはコーヒーの入ったカップ
向かう先は大き目のモニターが2枚並んだ机

背もたれの高い
所謂、ゲーミングチェアに腰を下ろし
友人が送ってきた画像を見る

男の子の満面の笑みと首からぶら下げたカード……?

「ん?スマホ?」

よく見ればそれはカードではなく、スマートフォンで
その画面にはスタンプの押された日付の枠が並んでいる

「出席カードも電子化の時代かぁ」

何だか寂しさを覚えるのは
古い人間だからだろうか

少子化の波は避けられず
地区で行っていたラジオ体操は
もう、随分と前に廃止となったらしい
送られてきた画像のカードは
ラジオ体操ではなく
お手伝いスタンプだそうだ

因みに、学校のプール開放も
監視を行う親が確保できないこと
利用する子供が少ないこと
日中の日差しが強すぎることなど
諸々の理由で廃止になっているのだとか

仕方の無いことなのだろう
時代が変われば色々なものが変わる

かつて筆と墨で書かれた物語は
万年筆や鉛筆でかかれるようになり
ワープロからパソコンへと変化し
タブレットやスマホでも紡がれるようになった

「時代の流れ…かぁ…」

30年前、私が子供の頃の夏は
エアコンなど無くても過ごせた
扇風機と団扇で乗り切れる暑さだった
今では東北の海辺のあの街でも
エアコン無しでは夏を乗り切るのは厳しい

今から30年後の夏には
何が消えて、何が生まれているだろう

願わくば、あの公園には
向日葵の花が咲いていますように……



6/27/2024, 5:17:31 PM


多分それは幼い頃の記憶

場所はよく分からないけど
たぶん、日本だと思う
観光地なのかな?
芝生が広がっていて
海がみえて
…ただそれだけ

あとは、女の人が隣にいて
俺は誰かに抱かれている

たぶん、両親なんだろうな
二人とも嬉しそうなのはわかる
けど、顔ははっきりと見えなくて
ぼやけている

人の顔はぼやけているのに
芝生とか海とかわかるって
不思議でならないけどな

そして今俺は、車を走らせている
目的地まであと10分と
ナビが教えてくれている

週末は大体、ドライブだ
平日の夜にネットで目的地を探しておいて
最近では、金曜の夜から出かける
何故なら目的地が段々と遠くなっているからだ

記憶にあるあの場所を
俺は探している

物心ついた時には両親はいなくて
施設でほかの子供たちと一緒に生活していた
そんなに不便なことは無かった
施設の人も優しかったし
施設のみんなとも仲良くやれた

まぁ、学校でちょっとした
"いじめ"とかあったけど
そんなの些細なことだ

幸い優秀な頭脳と
人に好かれる容姿という
最高のプレゼントを貰っていたから
親がいなくても
人生そこそこイージーモードを進んできた

『目的地付近です。案内を終了します』

優しげなナビの音声が告げる
駐車場らしきところに車を停め
エンジンを切る
シンと静かになった車内は暗く
周囲にも人工の明かりはひとつもなかった

「さて、今回はどうかな…」

フロントガラス越しに見えるのは
夜の海とそれを照らす月の道
窓を開ければきっと
岩場を打つ波の音が聞こえてくるだろう

仕事はそれなりにキツいが
やり甲斐はある
日付が変わる頃に電車に飛び乗ったり
机の下で仮眠を取ったり
夢中になって気がつけば朝とか
ざらにある職場だけど
同僚も上司もいい人ばかりだ
欲を言えば、もう少し給料を上げてもらえれば
会社の近くに部屋が借りられるかなってところか

車があると、なかなか厳しいんです
都心の物件は、ね

今日、正確には昨日は
残業2時間で会社を出て
1時間かけてアパートに戻り
準備していた荷物を持って愛車に乗り込んだ

途中、コンビニで
おにぎり、パン、水と
同期の秦野のイチオシのスイーツ
"ふわふわ天使のミルクレープ"を購入した

高速には乗らず
ナビに従って車を走らせ続けること4時間と45分
太平洋を望むこの場所にたどり着いた

車内灯をつけて
ミルクレープを頬張る
商品名通りふわふわで口溶けが早い
クリームの中にほんの少し入った蜂蜜が
ほのかな甘みと独特の香りを放つ
これはスイーツ好きには堪らない美味しさだ
いや、スイーツ好きじゃなくても堪らないだろう

ぱくぱくと無言で食べ進め
あっという間に完食した

「ご馳走様でした」

施設にいた頃はコンビニのスイーツなんて食べる機会がなかった
まぁ、食べたこともないから
別段食べたいとも思わなかったけれど

初めて食べたのは就職してから
女子社員に進められて買ったのがきっかけ

今ではコンビニだけじゃなく
色々と食べ歩いていたりする
週末のこのドライブも
目的の半分はスイーツだ

「少し寝るかぁ」

日の出まであと三時間弱
次の目的地はここから2時間とちょっと
運転は苦にはならないが
寝不足は判断を鈍らせる
仮眠はしっかりとるべきである



『覚えておいて、ここがパパとママが出逢った場所だよ』
『流石に無理じゃないか?まだ1歳だぞ』
『私達の子だもん、きっと覚えてくれるよ』
『はははっ、頑張れよ。ママは本気だぞ。忘れたら怖いぞぉ』

「………コレは絶対見つけないとなぁ……」

ぼんやりとする思考を
水を飲んで覚醒させる
外を見るといつの間にか
車が3台に増えていた

車から降りて大きく伸びをする
固まった筋肉が小さな悲鳴をあげつつ
少しずつほぐれていく

少し先の芝の上には三脚を広げ
白んできた海に向かって
カメラを構える人が二人

もうすぐ、日が昇る



朝の清々しい空気の中
日が昇ったばかりの海を眺めつつ
車を北へと走らせる

ナビはしばらく道なりを案内し
それっきり静かに画面だけを動かしている

結局ここも記憶にある場所とは違った
またネットで場所探しだ
まぁ、それもまた色々と発見があったりするので
楽しみの一つではある

そして今日は
ホテルのスイーツバイキングを楽しんで
秘境の温泉宿に1泊の予定だ
口コミで女将さんの作る
レアチーズケーキが絶品だと言う最高の宿だ

"ここではないどこか"を探して
おひとり様の週末ドライブは
海岸沿いを走り続ける


6/26/2024, 6:29:55 PM

今でも覚えてる
キミと最初に会った日

親の仕事の都合で
引っ越してきたキミは
随分と機嫌が悪かったよね
引越しの挨拶の時ニコリともせず
終始仏頂面で
僕とは視線さえ合わそうとしなかった

翌日学校の教室で再会した時も
変わらず仏頂面で
自己紹介も小さく名前を言っただけだった

勿体ないなって思ったよ
すごく可愛いのに
仏頂面でいるのはすごく勿体ない

だから僕はキミを笑わせることにした

志村けんのモノマネをしたり
加藤茶のモノマネをしたり
時にはいかりや長介のモノマネもしてみた

クラスのみんなは笑ってくれた
けれどキミは笑ってくれなかった

ダチョウ倶楽部とか出川哲朗とか
コロッケのモノマネを真似て
美川憲一とかもやってみた

それでもキミは笑ってくれなかった
僕はちょっと悔しかった

あの頃のキミは仲の良かった友達と別れて
とても悲しくて寂しかったんだと
後で教えてくれたね

笑わないキミは学校では1人だった
初めは声をかけてくれた子達も
仏頂面で笑いもせず
必要最低限の言葉しか発しないキミを
避けるようになってしまっていた

僕はどうにかしてキミを笑わせないと、と
謎の使命感に燃えていた
けれどキミを笑わせることができずに
1ヶ月が経ったあの日
僕はキミを笑わせることに成功した

その日は僕の誕生日で
頼んでいたケーキを受け取りに行って
戻ってきたところだった

母さんに我儘を言って買って貰った
少し大きなホールケーキ
街でいちばん美味しいケーキ屋さんのケーキ
是非キミにも食べて欲しかったんだ

母さんは危ないからと
ケーキを運ぶのを止めたのに
僕はどうしても自分で運びたかった

いつもより大きなケーキは
少し重かった
だから両手で運ぶことにした

当然足元なんて見えない
けれどここは自分の家の庭
生まれてから10年も住んでいる
もう何百回も何千回も歩いているから大丈夫……
な、はずだった

ツルリ

踏み出した右足が摩擦を失う
残念ながら踏ん張ることはできなかった

宙に投げ出される
僕のバースデーケーキと
地面と平行になる僕の体

「ああぁーっ!」

母さんの叫び声と
視界の端に映ったのは
驚いたキミの顔

やっぱり可愛いなぁ

なんて思った瞬間
白い塊が僕の顔に落ちてきた

んぶふっ

これじゃまるでドリフのコントだな
そんなコトを考えつつ
口に入ったケーキを飲み込む

うん、美味しい

右目の周りのクリームを拭って、ぺろり
左目の周りのクリームも拭って、ペロリ

そして鼻の中に入ったクリームは
勢いよく息を吐き出して、ポンっ

「あははっ、ドリフみたい!」

予想通り、笑ったキミはとても可愛くて
僕の目はキミに釘付けだった

当然、バースデーケーキはダメになったし
母さんにはだいぶ怒られたけど
僕は偶然でもキミを笑わせることができて
とても満足で、とても幸せだった



「調子はどう?」
「んー、ぼちぼちかな」

スルスルと林檎の皮を剥くキミ
随分と上手になった
初めの頃は1個剥くのに
30分はかかっていた

「おばさんが行けなくてごめんなさいって」
「気にしなくて良いのに。俺も来週には19だし、子供じゃないから」
「ふふっ、伝えておくね。はい」

シャリッ

小さく薄く切られた林檎が口の中に入れられる
勿体ぶるように、じっくりとゆっくりと噛みしめる

「夏輝くんの試合、観たかった?」
「まぁね。来年は応援に行くよ。大事な弟の試合だからな」
「……うん、そうだね。はい、林檎」
「ん」

シャリッ

じわりと口の中に甘酸っぱい水分が広がる
外はだいぶ暑くなってきたらしい
ここは全館空調で常に23度に保たれている
そのせいか、季節感がなかなか感じられない

「大学はどう?友達はできた?」
「うん、何人かね。でもみんな授業について行くのに必死だよ。レポートも多いから遊んでる暇は無いなぁ」
「はははっ、頑張れ医大生」

告白したのは、中学に入ってすぐ
他の誰かにキミを渡したくなかった

初デートは水族館
キミが行きたいと言っていたから

初めてキスをしたのは
その年のクリスマス

お互い緊張しすぎて
ほんのチョット
唇が触れ合っただけだった
それでも凄く嬉しくて
その日の夜は
なかなか眠れなかった

勉強に、部活に、恋愛に
あの頃は全てにおいて
一生懸命だった

同じ高校に合格して
一緒に通えることが嬉しかった

部活はせずにバイトを始めた
お小遣いじゃなく
自分で稼いだお金で
キミにプレゼントを贈りたかった

その年のクリスマスは
家族ではなく
君とふたりで過ごした

キミの白い肌に映える
濃い青色の輝石を使った
ネックレスと指輪のセット

キミは凄く喜んでくれて
俺はとても幸せだった

初めは食欲が落ちた
夏だったのもあって、夏バテかと思った

次に、その食欲が戻らないうちに体重が減ってきた
食べる量が減っていたから当然だと思った

そして徐々に体力が落ちてきて
頻繁に腹痛がおきるようになった
何かがおかしいと思い始めたのはこの頃

「林檎、食べる?」
「あーゴメン、もうお腹いっぱいだ」
「うん。じゃぁ残り冷蔵庫に入れておくね。後で食べて」
「ありがとう」

本当にゴメン
全部食べられなくて
前のも結局捨ててしまった

「お皿とか、洗ってくるね」
「うん、行ってらっしゃい」

3年に上がってすぐ
病院に行った

受験の年だったのもあり
体は万全にしておきたかった

けれど、そう簡単な話ではなかった

医者に病名を告げられた時
母親は泣き崩れ
父親は表情を無くした

受け入れるには時間が必要だった

自分の人生が
親よりも短い時間で
終わってしまうであろうことへの
申し訳なさと

この先彼女と共に生きられる
時間の短さに絶望した

「どうしたの?」
「うん?初めて会った日のこと思い出してた」
「!」

瞬間、キミの顔が赤くなる

「ダメ、忘れて!」
「無理だよ。一目惚れした瞬間なんだから」
「えっ?」
「あれ?言ってなかった?」
「聞いてない…って、あの頃の私、不貞腐れてて…全然」
「可愛かったよ。もちろん今も可愛いよ」
「もう、ホント恥ずかしいから」

うん、やっぱり可愛い

キミと同じ大学に通いたかった
長期の休みには2人で旅行したかった

キミのウエディングドレス姿を見たかった
くしゃくしゃに泣いて両親への手紙を読む
キミを抱き締めてあげたかった

子供を抱くキミを見たかった
少し疲れた顔をして
それでも幸せそうに笑うキミを
子供ごと抱き締めて
愛してると伝えたかった

「あ…そろそろ時間だね」
「そうだね」
「そうだ、誕生日プレゼント、欲しいものある?」

"健康な体"
なんて言えない

「物じゃないけど、今欲しいものはある」
「今?来週じゃ駄目なの?」
「ダメじゃないけど、今がいいな」
「うーん、何が欲しいの?」
「お姫様のキスと最高の笑顔」
「ふむ、承知しました」

キミの笑顔は最高だよ
俺を幸せにしてくれる

1度目は軽く唇を合わせるだけのキス
2度目は互いの唇を食むようなキス
3度目は深く互いの愛を確かめ合うキス
4度目は短く名残惜しい気持ちが乗ったキス
5度目は少し恥じらいながら互いの目を見て記憶するキス

病室を去るキミの後ろ姿を
貰った笑顔と共に脳に焼きつける

今日がキミと最後に会った日になるのかも知れないから


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