終わりなき旅
「終わりなき旅を続けよう」と盃を交わしたのは何世紀前のことだったか。今や皆死んだ魚のような目をして、呪詛のような歌を歌っている。旅の途中で不老不死の魔法に触れてしまったらしい我々は、もう何千年もこうして海の上に漂っていた。ゴールのない終わりなき旅。どんなに少なく見積もっても三百年は食べ物を口にしていない。飲み物も長らく飲んでいない。それでも誰ひとり死なない。死にはしないが、声は枯れ、気力はすり減る。今の我々は互いのことをどこまで認知できているだろうか。誰も彼も心が死んで動く屍のようである。
ふと、一人が遠くを指差す。それに続いて歌も止まる。彼が指差す先には虹色に輝く空があった。千年前にはオーロラと呼ばれていたものだ。
あそこに行きたいのか、と口の形だけで尋ねると、彼はうんと首を縦に振る。船では空に辿り着けやしないと分かっているけれど、我々は黙ってそちらに舵を切る。せめて虹色の空を真下から見られるところまで行こう。
あぁ、これだから旅は終わらないのだ。心は既に死んでいるはずなのに、何万回も観た景色にときめきを覚えて、目に見えない何かのために進んでしまう。どうせあそこに辿り着いたってここまで過ごした何千年と何も変わりゃしないのに。
我々はまた呪詛を歌い始めた。この呪詛は我々が旅をする同志であった証、今船が動いているのが悲しいかな、その証左なのである。
天国と地獄
人は死ぬと天国か地獄かに振り分けられる。生前「良いこと」をした人は天国、「悪いこと」をした人は地獄といったふうに。
地上の人口爆発に伴い一日あたりの死者数も緩やかに増加して、振り分け係の人たちは頭を抱えていた。行動の良し悪しを決めるために日夜証拠を集め、長い長い会議のうえ結論を下さなければならない。かつては魂の重さだとかオーラだとか非科学的なものを基準に振り分けていたそうだが、今ではそういった方法は批判され、より現実的で合理的な審判が求められている。この頃仕事量の増加が著しく、人手はいくらあっても足りなかった。
そこで新しい判断基準が導入された。「所属していた国の法令に従っていたのなら天国、従っていなかったなら地獄」とあくまで法律を第一に据える方法だ。
この方法は反発もあったが、仕事量はぐっと抑えられた。当面の間はこれでうまく回っていた。
やがて悲鳴を上げたのは天国の管理人である。「正しさを示す唯一の手段は武力である」「上の立場の命令は絶対である」といった法令を遵守した人々が全員天国にやってきて一時パニック状態に陥ったのだ。天国はもはや天国とは言えなくなった。法律を基準にした振り分け方法は廃止され、振り分け係たちは自ら増やしてしまった仕事を嘆きながら寝る間も惜しんで働いている。
月に願いを
「流れ星は願いを叶えてくれるけど、月は願いを叶えてくれないのかな? あんなに空の中央で煌々と輝いているというのに」
そう言った君の横顔は、満月なんかよりもずっと輝いて見えた。暗い夜空の下で浮かび上がる君の輪郭が美しい。
「さぁ。流れ星は一瞬でなくなるからさ、その短い時間の中に何か意味を見出したいんだよ、人間っていうのは。ほら、月はいつだってあそこにあるだろう」
「そうかなぁ。うん、そうなんだけれども」
君は首を傾げる。サラリと落ちたその黒髪すら美しい。宇宙のずっと遠くを見つめるような、黒く透明な瞳が美しい。僕は月ではなく君ばかりを見つめてしまう。
僕の視線に気づいたのか、君はこちらに目を向けてフッと笑った。「私の顔に何かついてる?」なんて言って。
「ねぇ、儚いものに価値があるというのなら、私に願いを言ってよ。叶えてあげるかも」
僕は思わず聞き返した。君は二度は言ってくれなかった。いたずらをした子供のようにフフッと笑って僕の返事を待っている。
「……僕は君とずっと一緒にいられるのなら、それでいいよ。ずっと隣にいてほしい」
君は目を丸くした。君のそんな表情は初めて見た。どこか悲しげで、伏せた瞳に長い睫毛がかかって、そんな所作でさえすべて美しいのだ。
「それって……告白?」
「うん」
「ふふっ。嬉しい」
君は笑う。でもその顔が、本当は笑っていないように僕には見えた。美しさに見とれるより先に、君を抱きしめたい衝動に駆られた。
「ごめんね。その願いは叶えられないかな」
君はそう言って視線をそらしてしまった。ずっと空の向こう側を見つめて、僕のほうを二度とは見てくれなかった。
君に会ったのはこれが最後だった。今君がどこにいるのか僕には分からない。ただ、月を見上げると君のことを思い出す。君に願いを捧げたあの日を。
風に乗って
風に乗って世界を旅したい。
そう思ったことがある。何に生まれ変わりたいかと聞かれたときに浮かんだことだ。小さな分子にでもなって世界中を巡りたいと思った。
さて、仮にそれが実現してしまったとしたらどうしよう。私は台風のような突風はもちろん、指一本動かして発生するような微風にも流されて、宙を漂ってだだっ広い世界を旅することになる。
それは果たして旅と呼べるだろうか? 世界遺産をゆっくり見る時間も、各国のグルメを味わうことも、文化の違いを楽しむ余裕もない。偏西風にでも巻き込まれてしまったら、そこから抜け出す術はないかもしれない。
しかし、何もせずただ風に乗って様々な場所を巡れるというのは魅力的な発想だ。そうだな、小さな分子ではなくて、もう少し大きなものならどうだろう。
以前水族館でマンタを見たとき、空を飛んでいるようだと思った。空を飛ぶマンタに生まれ変わるのはどうだ? 羽衣のように空を舞い、風に乗って世界を巡る。人に見つかっては面倒だから、透明だとなお良いな。なかなか優雅で美しいじゃないか。小さな分子でいるよりは少しゆっくりと観光する余裕もできるかもしれない。
悪くない。何に生まれ変わりたいかと聞かれたら、今後は空飛ぶマンタと答えようか。
刹那
箱庭の中は慌ただしい。瞬きする暇さえありゃしない。一つ瞬きをするだけで先程生まれた赤ん坊の腰が曲がっているのだから。このパノラマを見守るようにと仕事を与えられたはいいが、千変万化する箱庭のどこを見ればよいのか分かったものではない。浮世は刹那さ、一喜一憂するものではないよ、全ては過ぎ去るのだ。草臥れた先輩が数刻前にそう呟いていた。全くその通りである。指を鳴らして六十刹那が過ぎる頃にはいくつもが死に、いくつもが生まれる。自分が目をかけた子供も、二度瞬きをすれば土に還る。あぁ、諸行無常、生々流転、絶えず移ろう浮世はやはり刹那である。